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一章(アン視点)

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「嘘よ」

 直ぐにそう答えた。ほとんど反射で、口にしてから後悔した。アーネストは眉をひそめる。

「嘘だと?」

 威圧されるように問われて、アンは早く謝らなければと思いながら、一つの過去を思い出していた。その悲しみが邪魔して、目の前にいる彼に弁明するのが遅れた。

「なにが嘘だ」
「ご、ごめんなさい…」
「確かに会う時間は少なかった。お前が疑うのも仕方がない。だがそう頭ごなしに否定されるいわれはない」

 彼の言う通りだった。自分が悪い。彼は何も悪くない。

「すみません…。こんなによくしていただいてるのに」
「待遇と心情は異なる。厚遇こうぐうをしても、愛が無い場合もあるが、愛を示すには厚遇こうぐうするしかない。後者のつもりで接してきたつもりだ。嘘ではない」
「すみません…私の、私の問題なんです。昔を…思い出して」
「むかし?」

 余計なことを言ったと思った。アンは否定した。

「なんでもありません。…旦那さまが気にするようなことはなにも」
「兄か?」

 鋭い指摘に喉が震える。否定も肯定も出来なかった。答えられないことが肯定を示していた。

 かつての婚約者だったアーネストの兄、ウィレム。今は異母妹と結ばれたウィレムとは、最後まで一度も直接会ったことは無かったが、手紙のやり取りは頻繁にしていた。

 ウィレムからの手紙はいつも愛に溢れたもので、そこには何度も『愛している』と書かれていた。その言葉を信じていた。

 結果は今の通りだ。大病を患っているときに、大事にしまっておいた手紙はいつの間にか一通も無くなっていた。自分が次の婚約者になるのを知っていた異母妹が捨てたのだろう。手紙を失っても何度も読み返したから今でも内容は思い出せる。それほどアンはあのとき幸せな結婚を夢見ていた。

「なんでも無いんです。本当に。アーネスト様から良いお言葉をいただいて、動揺してしまって…すみません」
「兄を愛しているのか?」

 大きな誤解だった。まだアーネストはアンの手を握っていた。強く握り返す。

「いいえ」

 とは言うものの、彼の告白を否定してしまっている。もう取り戻せないと思った。

 アーネストが息をつく。それを見て、何て馬鹿な事を口走ってしまったのだろうと後悔する。
 
 手が離れた。かと思えば、両手で包むようにアンの手を握りなおされる。

「アーネスト様…」
「当分は屋敷にいる。お前も大分調子が良くなっている。寝室を一つにしてもいいだろう。いいな」

 異論など出来るはずがない。アンは頷いた。

「あの、アーネスト様…私、本当に感謝しております」
「この程度でか」

 過分なくらいだ。そう言ったら怒られるかもしれない。胸の中に留めた。





 アーネストの指示で、アンは部屋を移ることになった。いつの間にか増えていた私物も移すという。使用人たちが作業する間、邪魔にならないようにアンは庭を散策してみることにした。

 ソニアから何度か勧められたが、結局は庭を歩くことはしてこなかった。夫直々から体力をつけるようにと言われては、従わないわけにはいかない。

 白いベールを被って庭へ。ソニアに支えてもらいながら歩く。暖かな陽射し。ベールが帽子代わりになって、日除けにはなるが、中は蒸されて少し暑かった。ベールの裾を持ってはためかせると、心地よい風が吹き込んだ。

「暑いですか?」
「あ、そうなの。少しだけ」
「では日傘を持ってきますね」

 ソニアは小走りで屋敷へ戻っていく。後ろ姿を見送りながら、ベールを取れと提案されなくて良かったとほっとしていた。

 侍女を待つ間、春風を感じたくてそっとベールを取ってみる。思った通りの心地よい風。陽射しを直に浴びて、直ぐに被りなおす。取った瞬間に聞こえたのは、あの高笑い。蘇る蔑みの目。現実ではないと分かっていても、植え付けられたトラウマは早々に消えるものではない。

 それでも、春風を感じたいと思い、ベールを取るまでは、そのトラウマを忘れていた。こうやって時を過ごして、いつしか忘れられる日が来るのだろうか。

 やがて侍女が日傘を持ってやって来る。ソニアが日傘を広げるまで、アンは春爛漫の陽気の眩しさに目を細めていた。



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