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一章(アン視点)
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しおりを挟む医師が頻繁にやって来ては、アンの診察をした。いつも無口で診察の結果は知らされなかった。
ただ、大量の薬が処方された。はやり病は何年も前のことで、屋敷でも修道院でも牢獄のようなの生活を強いられてきてはいたが、時々、熱を出すくらいで、自分では随分と体調が回復したと思っていた。この医師が正しいとするならば、アンの体は相当悪いということになる。そこまでの自覚は無かったが、薬を拒む理由も無かった。医師の指示に従った。
最初は薬を山のように飲まされて閉口したが、二ヶ月、三ヶ月経つこどに減っていき、四ヶ月目になると、就寝前に一度飲むだけとなった。
屋敷にやって来て四ヶ月目。冬が過ぎ去り春めくと、用意された衣服も春色の淡い色が目立ってきた。薄桃や薄緑、すらりとしたドレスを着ると痩せ細った体にはみすぼらしく、侍女がまだ冷えるからと、厚手のショールをかけてくれた。桃色地に白の花模様のショールは、シルクのように艶やいでいだ。
「高地にいる馬の毛を染め上げたものだそうですよ。軽くて温かいですから、長く羽織っていても疲れません」
「またこんな…うちの家計は大丈夫なのかしら」
「帳簿が見たいのであればセバスチャンに頼みましょうか?」
丁重にお断りする。見たところでアンには理解出来ない。それにアンが言いたいのは、惜しげもなくこんな上質なものばかりを与える夫への苦言だ。珍しいものばかり、実用的なものばかりではあるが、こんなに良い物ばかりでは、贅沢過ぎて気後れする。
礼を言おうにも、アーネストとはかれこれ一ヶ月以上、会えていなかった。
「アーネスト様は今日もお戻りにならないの?」
聞くと、侍女は振り返るように視線を上に向けた。
「政務のことは分かりませんが、ここ数日は特にお忙しいようですね」
「そう…お礼も言わせてくれないのね」
「あ、でも、駐屯地に行けばお会い出来るかも」
「駐屯地?」
「港は様々な国の船がやって来ます。そこには兵隊が監視のために駐屯しているんです。日々色々な物が持ち込まれますから、検閲も兵隊がしているそうですよ」
世界的な要所の港も今は侯国のものとなって、いろいろ勝手が変わって忙しいのは容易に想像出来た。人目のあるところに行きたくなど無いし、いきなり押しかけてアーネストを煩わせるわけにもいかない。侍女の提案をアンは断った。
針子をしていたという侍女は、髪を結うのも得意だった。修道院では肩ぐらいの長さだった黒髪は、今では腰に届きそうな程にまで伸びて、侍女は毎日これでもかと技巧を凝らして、様々な形に整えてくれていた。
今日は、淡い服に合わせてシンプルにしてくれたらしい。大きく二つに編み込んだ髪をお団子のように一纏めにして、銀のブローチで留めていた。
「いつもありがとう。今日も見事ね」
「髪も伸びましたから、やりがいがあります」
とは言ってもベールを被れば隠れてしまうのだが。ほとんど侍女の自己満足だったが、完成した髪型を見ると、アンも嬉しくなった。
ただ、自分の顔はまだ鏡で見れなかった。鏡越しに結い上げた髪を見るときも、自分の顔を見ないように慎重になった。
「駐屯地に行かないにしても、そろそろ庭くらいには出てみてはいかがですか?外も随分と暖かく、花も咲いていますよ」
これだけの時が経っても、アンはまともに外を出たことが無かった。部屋からも出ないから、屋敷内の配置すら知らなかった。
少し考えてみる。体調はとても良い。外に出てもいいかもしれない。でも、
「…今日は止めておくわ」
部屋に居るのに慣れてしまうと、どうしても外に出るのが怖くなってしまう。ずっと虐げられてきた。ここでの暮らしは、やっと得られた安寧に浸っていられる。このままの生活を続けていきたかった。
「こんなに贅沢させてもらえて、ソニアにも何度も誘ってもらって悪いのだけれど」
侍女の名をソニアと言った。村娘らしい明るさに、アンは何度も助けてもらっていた。
「気が進まないのなら無理強いはしません。新しい物語が届いております。後で持ってきますね」
無聊を慰めるには、本を読むしか思いつかない。最初は屋敷の本を読んでいたが、専門書ばかりで、物語などは数冊だけ。取り寄せて欲しいと言ったわけでは無いのだが、時々、こうして本が届けられる。娯楽を与えられて、ますます部屋から出られなくなる。良い口実だった。
早速、本を読んでいるとソニアが慌ただしく部屋に入ってきた。
「旦那さまがお戻りです」
突然の知らせだった。ソニアの慌てぶりから屋敷の者も知らなかったのだろう。本を置いて立ち上がって、アンは白のベールを被った。
「お出迎えに行かなくては」
「あ、いえ、まもなくこちらにいらっしゃいます。奥様はここでお待ち下さい」
屋敷に着いて真っ先にこちらに来るなど、そんなに急ぐような何かがあったのだろうか。
果たして、扉が無遠慮に開けられる。アンは肩から落ちたショールをかけ直した。
入ってきたのは、アーネストその人だった。金の飾緒を付けた上下黒の軍服姿は、おそらくは仕事着なのだろう。背の高い人だから、とてもよく似合っていた。しばらく会っていなかったせいか、切れ長の目と合うと緊張して、アンは視線を逸した。そのままお辞儀をして挨拶代わりとする。
「──お帰りなさいませ」
「ベールを取れ」
無遠慮に言われ、逆らえもせずにベールを取る。顔を見れずに俯く。こういう反応を彼が嫌うのは承知の上だ。彼の整った顔を見るたびに、不釣り合いな自分の顔が嫌になる。とても顔を見せようなどとは思えない。
顔を両手で掬われ、無理やり上を向かされる。唇が触れるほどに顔が近づくと、実際に彼の唇が触れた。唇と唇が僅かに触れ合う。アンは彼の胸を押して抵抗した。
「止めてください」
「なんでだ」
「汚いですから」
「口はゆすいだ。清潔だ」
「あなた様でなく、私です」
アーネストが眉を寄せたかと思えば、唇を強引に合わせてきた。今度はしっかりと頭に手を回されて、逃げられない。舌が入ってくると、アンの緊張は頂点に達した。舌と舌が重なり、絡まると、経験したことのない痺れが身体を駆け巡った。足が震える。立っていられない。聞いたことのない水音を二人で出しているのだと思うと、胸を締め付けられるような、息苦しさとは違う苦しみがやって来た。これがどういう感情なのか、アンには分からなかった。
膝から崩れ落ちると、座り込む前に彼が足をすくって抱き上げた。舌が自然と離れる。深い口づけで、アンはぐったりして動けなかった。身体が熱を持っている。手足の先では、まだ先程の痺れの名残が残っていた。
「少し」アーネストが言う。「重くはなったか。まだ軽いが」
口づけを交わしても、彼は涼しい顔のまま、何も変わらないように見えた。自分ばかりが翻弄されて、動揺して、心臓は早鐘を打ってうるさいのに。
これだけ美貌だ。これくらいはいくらでも経験してきたのだろう。あまりの拙さに幻滅されたかもしれない。彼がどう思っているのか、無表情からは読み取れない。
ベッドに寝かされる。彼はアンの額に口づけを落とした。
「そろそろ体力をつけろ。庭を歩け」
「侯爵様には、よくしていただいて感謝しております」
「俺には妻を保護する義務がある」
義務、という言葉がちくりと刺さる。彼の言葉に傷つくくらいには、彼に好意を持っていたのかもしれない。当然だろう。これだけ贅沢をさせてもらっているのに、好意を持たない方がおかしい。それに自分には、負い目がある。子を産めないという負い目が。
「私は妻の義務を果たせません」
彼は自分の口を覆った。珍しく彼から視線を逸らされて、図星だったのだと思った。
「すまない」
「私が悪いのです」
「違う。義務などと言ったことについてだ」
逸らした先、目についたのだろう。アーネストはアンの手を取ると、金の指輪を撫でた。
「義務ではなく、自己満足だ。お前には、心安らかに過ごして欲しいと思っている」
「人並み以上の生活をさせてもらっております。贅沢なものばかりいただいて、申し訳ないくらいです」
「足りない。欲しいものがあるなら言え。もっと贅沢させてやる」
「十分過ぎます。後ろ盾がない私を、厚遇する必要はありません」
「アン」
名を呼ばれ、手の甲に口づけを落とされる。伏せた目がこちらを見つめる。熱を帯びたような視線に見つめられると、彼が有りもしない感情を抱いているように錯覚してしまう。
「愛している」
だが紛れもなく彼自身から確信の言葉が伝えられる。錯覚などでは無かった。間違いない言葉なのに、アンの中では疑心が芽生えていた。
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