上 下
5 / 49
一章(アン視点)

5

しおりを挟む

 書面ではもう夫婦だからと、式は無かった。いつの間に用意したのか、金の指輪を嵌められて、それでアンはアーネスト・ストレリッツの妻となった。

 修道女の服のまま馬車に乗り、すぐさま走り出した。監獄のような部屋で暮らしていたアンを見送る人などいるはずもなく、私物も無く、身一つで修道院を後にした。

 向かいに座るのは夫となったアーネスト。銀髪が馬車の揺れに合わせて煌めく。見事な髪に、この世の者とは思えない美しい容姿。黒のベールからこっそり覗き見する度、こんな醜女しこめが妻になって申し訳なく思えてしまう。

 馬車に乗ってからも、アンはもう一度考え直すように言った。こんな何も利用価値の無い女を妻にしては駄目だとも言った。だが頑として改めようとしなかった。一度こうと決めたら曲げない人らしい。

「いい加減にしろよ。何度も同じことをぐだぐだと」
「すみません…あまりにも、急だったもので」

 アーネストは身を乗り出すと、アンの手を掴んだ。強引に引かれて、アンの体はビクつく。

「あ、あの…」
「この指輪は、職人が三ヶ月かけて彫刻した一級品だ。こんな名物は早々お目にかかれない。それでも見てろ」

 指輪をめている指先をつままれて、手が離れる。金の指輪は、唐草模様の透かし彫りで、確かにこれ程までに見事な物はアンも初めてだった。

 それでも見てろ、と彼は言った。『高価な指輪を渡したのだから、結婚は無効に出来ない』と言いたいのだろうか。経緯はどうあれ、結婚した事実はこの指輪が証明してくれている。昔あれほど夢見た結婚指輪を、こんな様になった自分がしているなど信じられなかった。指輪を撫でる。大きくて、押さえていないと抜けてしまいそう。アンは両手を握って間違っても落とさないように気をつける。まだ不安な気持ちはあるが、アンは改めて結婚した事実を噛みしめた。



 移動を続けて七日ほど、やっと目的地に着いたらしい。慣れない長い旅路で体調を崩していたアンは、アーネストに抱き抱えられて馬車から降り、建物の中に入った。

 待ち構えていた使用人達の挨拶もおざなりに、アーネストは部屋から部屋へ足早に進んでいく。普通は使用人に開けさせる扉も自分で開けて、随分と急いでいる。
 何をそんなに急いでいるのか。ぼんやりする思考ではアンはまともに考えられない。アンの体を抱き上げる彼の手から熱が伝わる。たくましい体躯に、身を預けていると、途端に下ろされる。

 そこは柔らかなベッドだった。横になると、彼の顔が近くにあった。視線が合ったように見えたが、黒のベールを被っているから向こうからは自分の顔は見えないはず。それでも彼の瞳を向けられると、見られているような気分になって落ち着かない。アンはベールに触れて、ちゃんと被っているかを確かめた。

「熱がある。医師が来るから少し待ってろ」
「お医者様を呼ぶ必要はありません。熱はよくあることですから。休めば治ります」
「どうするかは俺が決める」

 アーネストが黒のベールを引っ張ろうとするので、アンはとっさに彼の手を掴んだ。

「やめてください。取らないで」
「ここは俺の屋敷だ。指輪を見ろ。俺に従え」

 あっという間にベールを取られる。空気が顔に触れて、醜い顔があらわになる。手で顔を隠すが、全て隠せるわけでは無い。

「屋敷では外せ。喪服を見ているようで気が滅入る」
「このような顔を見せては、不快でしょう」

 ひどい、と言ってしまいたかった。アンは最早、このベール無しでは生きられなかった。異母妹の蔑みの言葉が蘇る。甲高い声。嘲笑。すぐ近くで声がして、アンは耐えられなくなる。

 だが彼はそうはならなかった。

「いや、不快ではない」

 アンは嘘だと思った。だが彼は、ただアンを見下ろしていた。何の感情も読み取れない顔には、蔑みも嘲笑も無かった。

「あ……」
「まずは体を回復させろ。医師には包み隠さず全て話せ。いいな」

 アンの返事を待たずに、アーネストは部屋を出ていった。ベールも持っていってしまった。久しぶりの何の遮るものがない視界。窓からは陽の光が差し込み、レースのカーテンを光らせた。冬だというのに温かな部屋。体を起こすと暖炉には火が焚かれていた。熱を出しているというのもあるかもしれないが、寒さを感じない。修道院の隙間風を感じていた頃とは全く違った。

 とはいえこの上なく旅の疲れを感じていた。ただ馬車に揺られているだけでも、それなりに体力が消耗される。起きていられず、横になる。やわらかなベッドが節々の痛みを和らげてくれる。熱とあいまってか、眠気がやって来る。道中はどこへ到着するのかも知らされず、いつ着くかも教えてもらえず、不安な気持ちがあった。やっとたどり着いたという安堵感もあった。

 医者が来ると言っていた。それまで起きていなければ思うほど、瞼は重くなる。アンは目を閉じた。

 



 なにか、聞こえる。あれは、幼い頃住んでいた屋敷の庭園だった。みずみずしい新緑の中に赤い薔薇が咲き誇って、天気もよく、はっきりした景色だった。聞こえるのは、男の子の笑い声。男の子が、こっちだよと呼ぶ声。こちらが動かないから焦れて、男の子が手を伸ばす。掴まれた自分の指には、あの金の指輪が嵌まっていた。

    
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

完)嫁いだつもりでしたがメイドに間違われています

オリハルコン陸
恋愛
嫁いだはずなのに、格好のせいか本気でメイドと勘違いされた貧乏令嬢。そのままうっかりメイドとして馴染んで、その生活を楽しみ始めてしまいます。 ◇◇◇◇◇◇◇ 「オマケのようでオマケじゃない〜」では、本編の小話や後日談というかたちでまだ語られてない部分を補完しています。 14回恋愛大賞奨励賞受賞しました! これも読んでくださったり投票してくださった皆様のおかげです。 ありがとうございました! ざっくりと見直し終わりました。完璧じゃないけど、とりあえずこれで。 この後本格的に手直し予定。(多分時間がかかります)

私が死んで満足ですか?

マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。 ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。 全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。 書籍化にともない本編を引き下げいたしました

【完結】夫もメイドも嘘ばかり

横居花琉
恋愛
真夜中に使用人の部屋から男女の睦み合うような声が聞こえていた。 サブリナはそのことを気に留めないようにしたが、ふと夫が浮気していたのではないかという疑念に駆られる。 そしてメイドから衝撃的なことを打ち明けられた。 夫のアランが無理矢理関係を迫ったというものだった。

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

【完結】双子の伯爵令嬢とその許婚たちの物語

ひかり芽衣
恋愛
伯爵令嬢のリリカとキャサリンは二卵性双生児。生まれつき病弱でどんどん母似の美女へ成長するキャサリンを母は溺愛し、そんな母に父は何も言えない……。そんな家庭で育った父似のリリカは、とにかく自分に自信がない。幼い頃からの許婚である伯爵家長男ウィリアムが心の支えだ。しかしある日、ウィリアムに許婚の話をなかったことにして欲しいと言われ…… リリカとキャサリン、ウィリアム、キャサリンの許婚である公爵家次男のスターリン……彼らの物語を一緒に見守って下さると嬉しいです。 ⭐︎2023.4.24完結⭐︎ ※2024.2.8~追加・修正作業のため、2話以降を一旦非公開にしていました。  →2024.3.4再投稿。大幅に追加&修正をしたので、もしよければ読んでみて下さい(^^)

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

ヤケになってドレスを脱いだら、なんだかえらい事になりました

杜野秋人
恋愛
「そなたとの婚約、今この場をもって破棄してくれる!」 王族専用の壇上から、立太子間近と言われる第一王子が、声高にそう叫んだ。それを、第一王子の婚約者アレクシアは黙って聞いていた。 第一王子は次々と、アレクシアの不行跡や不品行をあげつらい、容姿をけなし、彼女を責める。傍らに呼び寄せたアレクシアの異母妹が訴えるままに、鵜呑みにして信じ込んだのだろう。 確かに婚約してからの5年間、第一王子とは一度も会わなかったし手紙や贈り物のやり取りもしなかった。だがそれは「させてもらえなかった」が正しい。全ては母が死んだ後に乗り込んできた後妻と、その娘である異母妹の仕組んだことで、父がそれを許可したからこそそんな事がまかり通ったのだということに、第一王子は気付かないらしい。 唯一の味方だと信じていた第一王子までも、アレクシアの味方ではなくなった。 もう味方はいない。 誰への義理もない。 ならば、もうどうにでもなればいい。 アレクシアはスッと背筋を伸ばした。 そうして彼女が次に取った行動に、第一王子は驚愕することになる⸺! ◆虐げられてるドアマットヒロインって、見たら分かるじゃんね?って作品が最近多いので便乗してみました(笑)。 ◆虐待を窺わせる描写が少しだけあるのでR15で。 ◆ざまぁは二段階。いわゆるおまいう系のざまぁを含みます。 ◆全8話、最終話だけ少し長めです。 恋愛は後半で、メインディッシュはざまぁでどうぞ。 ◆片手間で書いたんで、主要人物以外の固有名詞はありません。どこの国とも設定してないんで悪しからず。 ◆この作品はアルファポリスのほか、小説家になろうでも公開します。 ◆過去作のヒロインと本作主人公の名前が丸被りしてたので、名前を変更しています。(2024/09/03) ◆9/2、HOTランキング11→7位!ありがとうございます! 9/3、HOTランキング5位→3位!ありがとうございます!

処理中です...