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一章(アン視点)
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しおりを挟む書面ではもう夫婦だからと、式は無かった。いつの間に用意したのか、金の指輪を嵌められて、それでアンはアーネスト・ストレリッツの妻となった。
修道女の服のまま馬車に乗り、すぐさま走り出した。監獄のような部屋で暮らしていたアンを見送る人などいるはずもなく、私物も無く、身一つで修道院を後にした。
向かいに座るのは夫となったアーネスト。銀髪が馬車の揺れに合わせて煌めく。見事な髪に、この世の者とは思えない美しい容姿。黒のベールからこっそり覗き見する度、こんな醜女が妻になって申し訳なく思えてしまう。
馬車に乗ってからも、アンはもう一度考え直すように言った。こんな何も利用価値の無い女を妻にしては駄目だとも言った。だが頑として改めようとしなかった。一度こうと決めたら曲げない人らしい。
「いい加減にしろよ。何度も同じことをぐだぐだと」
「すみません…あまりにも、急だったもので」
アーネストは身を乗り出すと、アンの手を掴んだ。強引に引かれて、アンの体はビクつく。
「あ、あの…」
「この指輪は、職人が三ヶ月かけて彫刻した一級品だ。こんな名物は早々お目にかかれない。それでも見てろ」
指輪を嵌めている指先を摘まれて、手が離れる。金の指輪は、唐草模様の透かし彫りで、確かにこれ程までに見事な物はアンも初めてだった。
それでも見てろ、と彼は言った。『高価な指輪を渡したのだから、結婚は無効に出来ない』と言いたいのだろうか。経緯はどうあれ、結婚した事実はこの指輪が証明してくれている。昔あれほど夢見た結婚指輪を、こんな様になった自分がしているなど信じられなかった。指輪を撫でる。大きくて、押さえていないと抜けてしまいそう。アンは両手を握って間違っても落とさないように気をつける。まだ不安な気持ちはあるが、アンは改めて結婚した事実を噛みしめた。
移動を続けて七日ほど、やっと目的地に着いたらしい。慣れない長い旅路で体調を崩していたアンは、アーネストに抱き抱えられて馬車から降り、建物の中に入った。
待ち構えていた使用人達の挨拶もおざなりに、アーネストは部屋から部屋へ足早に進んでいく。普通は使用人に開けさせる扉も自分で開けて、随分と急いでいる。
何をそんなに急いでいるのか。ぼんやりする思考ではアンはまともに考えられない。アンの体を抱き上げる彼の手から熱が伝わる。たくましい体躯に、身を預けていると、途端に下ろされる。
そこは柔らかなベッドだった。横になると、彼の顔が近くにあった。視線が合ったように見えたが、黒のベールを被っているから向こうからは自分の顔は見えないはず。それでも彼の瞳を向けられると、見られているような気分になって落ち着かない。アンはベールに触れて、ちゃんと被っているかを確かめた。
「熱がある。医師が来るから少し待ってろ」
「お医者様を呼ぶ必要はありません。熱はよくあることですから。休めば治ります」
「どうするかは俺が決める」
アーネストが黒のベールを引っ張ろうとするので、アンはとっさに彼の手を掴んだ。
「やめてください。取らないで」
「ここは俺の屋敷だ。指輪を見ろ。俺に従え」
あっという間にベールを取られる。空気が顔に触れて、醜い顔があらわになる。手で顔を隠すが、全て隠せるわけでは無い。
「屋敷では外せ。喪服を見ているようで気が滅入る」
「このような顔を見せては、不快でしょう」
ひどい、と言ってしまいたかった。アンは最早、このベール無しでは生きられなかった。異母妹の蔑みの言葉が蘇る。甲高い声。嘲笑。すぐ近くで声がして、アンは耐えられなくなる。
だが彼はそうはならなかった。
「いや、不快ではない」
アンは嘘だと思った。だが彼は、ただアンを見下ろしていた。何の感情も読み取れない顔には、蔑みも嘲笑も無かった。
「あ……」
「まずは体を回復させろ。医師には包み隠さず全て話せ。いいな」
アンの返事を待たずに、アーネストは部屋を出ていった。ベールも持っていってしまった。久しぶりの何の遮るものがない視界。窓からは陽の光が差し込み、レースのカーテンを光らせた。冬だというのに温かな部屋。体を起こすと暖炉には火が焚かれていた。熱を出しているというのもあるかもしれないが、寒さを感じない。修道院の隙間風を感じていた頃とは全く違った。
とはいえこの上なく旅の疲れを感じていた。ただ馬車に揺られているだけでも、それなりに体力が消耗される。起きていられず、横になる。やわらかなベッドが節々の痛みを和らげてくれる。熱とあいまってか、眠気がやって来る。道中はどこへ到着するのかも知らされず、いつ着くかも教えてもらえず、不安な気持ちがあった。やっとたどり着いたという安堵感もあった。
医者が来ると言っていた。それまで起きていなければ思うほど、瞼は重くなる。アンは目を閉じた。
なにか、聞こえる。あれは、幼い頃住んでいた屋敷の庭園だった。みずみずしい新緑の中に赤い薔薇が咲き誇って、天気もよく、はっきりした景色だった。聞こえるのは、男の子の笑い声。男の子が、こっちだよと呼ぶ声。こちらが動かないから焦れて、男の子が手を伸ばす。掴まれた自分の指には、あの金の指輪が嵌まっていた。
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