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 それから何度か執務室に忍び込む機会があったが、どこを探しても姉に関するものは見つからなかった。あまり大げさに調べると気づかれる。マリアは諦めた。やはり直接、問い詰めるしかなさそうだが、伯爵がそう簡単に話してくれるとは思えなかった。
 腹が大きくなってきた。とにかくこの子を無事に産まなければ。マリアはそちらに専念することにした。 
 お腹の子は順調に育っていて、よくグルグルと動いた。動きすぎなくらいにも思えた。
 動く手で腹を撫でるが、あまり母親の言うことは聞いてくれないらしい。やんちゃな子になりそうだと思った。

 寝室を共にして、伯爵とマリアは同じ寝台で眠っていたが、二人とも離れて眠っていた。
 ある夜、やんちゃがグルグル動き出してマリアはなかなか眠れなかった。何度か寝返りをうったり、腹をさすってみたりしたが、効果は無かった。
「…どうした」
 伯爵が見かねて、と言うより、しびれを切らして声をかけてきた。眠りを妨げられて迷惑しているに違いない。
 マリアは何でもないと言って背を向けた。
 後ろから衣擦れの音がする。肩を引かれ仰向けになる。
 暗闇なのに伯爵の眼光がよく見えた。マリアは素直に怖いと思った。
「本当に何でも、ないんです」
 絞り出すように答える。それ以上、適当な文言が出てこなかった。
「嘘をつくな。具合が悪いのなら、医師を呼ばせるが」
「いいえ。違うんです。──お腹の子が、よく蹴ってくるんです」
 仕方なく白状する。医者を呼ぶとまで言われて隠す意味もない。またお腹の子がぐるんと動いて、マリアは腹を擦った。
 手が重なる。大きな手が、あやすように腹を撫でた。じんわりと温かさが沁みたのか、ピタリと腹の子が動きを止めた。
 元気だ、と伯爵が呟く。いつの間にか父の眼差しとなってこちらを見下ろしていた。

 それからは度々、伯爵はマリアの腹を撫でた。父親だと分かるのか、暴れていた子は大人しくなる。そうした様を見て、モニカやバーサは嬉しそうに笑った。微笑ましいとでも思われているのかもしれない。複雑な気持ちだった。

 腕の骨折が治る頃、マリアは産気づいた。その日は伯爵は邸にはいなくて、モニカやバーサに助けられて出産した。
 バーサが、おくるみに包まれた赤ん坊の顔を見せてくれた。小さくて、大きな声で泣いて、せわしなく手を動かしていた。
「おめでとうございます。お世継ぎですよ」
 マリアは頷く。取り敢えず、妻としての責は果たせた。本当に安堵して、力が抜けてそれからこんこんと眠り続けた。

 起きると、寝台の傍らに伯爵が座っていた。赤ん坊を抱いて、器用にあやしていた。マリアが目を覚ましたのに気づいておらず、見たことのない優しい微笑みを赤ん坊に向けていた。
 マリアが腕を動かすと、起きたのに気づいて、伯爵はいつもの無表情に戻った。
「体調は?」
 低い声だった。義務で聞いているような冷たい口調だった。マリアが大丈夫と答えると、伯爵は視線を赤ん坊に向けた。もう笑顔ではなかったが、慈しんでいるのはよくわかった。それだけ待ち望んでいたのだろうか。彼の真意までは分からない。
 ただ、伯爵は上手に赤ん坊を抱いていた。随分、慣れた様子だった。
「乳を飲ませたい。起き上がれるか」
 マリアは身体を起こした。ボタンを外して胸を晒す。赤ん坊を託されて、初めて抱く。抱き方がよく分からず難儀していると、赤ん坊がグズり出す。
 伯爵の手がサッと伸びて、こう抱くのだと教えてくれた。それから指を赤ん坊の口に近づけると、口がちゅぱちゅぱ音を立てて動き始めた。
「これが飲みたいサインだ。覚えておくといい」
「お詳しいんですね」
「…はやく飲ませてやれ」
 マリアは胸を近づけた。すると赤ん坊は直ぐに吸い付いた。小さな手が胸を掴む。懸命に乳を吸う姿がいじらしかった。
「旦那さま、この子の名前は…?」
「ローレンス」
「ローレンス…」
 どこかで聞いた名だと思って、はっとする。あのカメオブローチに刻まれていた名前だった。
 聞けば、代々、長子に名付けられる名だという。ならばあのカメオブローチも、代々伝わる品なのだろう。
 レイフには兄がいたそうだが、夭折したという。
 伯爵が手をのばす。赤ん坊の胸を掴んでいる手を外して、代わりに自分の指を握らせていた。マリアの胸には赤い跡が残った。小さな手なのに強い力だった。

 赤ん坊の世話は乳母がした。マリアは様子を毎日見に行った。腹の中にいた通り、やんちゃで、よく飲んで、よく泣いて、よく笑ってくれた。伯爵もマリアも、そんなに騒ぐタチでは無かったが、この子はいつも元気だった。
 
 子供を産んでから、別々の部屋に戻って、伯爵と会う機会はぐっと減った。夜の訪れもなくなり、会うのはモニカとバーサの二人だけだった。
 
 ある日、伯爵に呼ばれた。執務室に入ると、伯爵は机に肘をついて待っていた。後ろには従者が控えている。机の上にたくさんあった書類はなくなっていた。
「ハーフェルへ居を移す」
 新しく伯爵が獲得した領地の名前だった。今は、オリファント伯爵であり、ハーフェル辺境伯でもある。引っ越しして本格的に治めるようだ。子が産まれるのを待っていたのかもしれない。
「私とローレンスはそちらへ行く。お前は好きにしなさい」
「…どういうことですか」
「言葉通りの意味だ。ここにいても構わない。使用人は減るが、今までと変わらない生活が送れるようにする」
「もう、私は必要ないということですか」
「ローレンスで十分だ。強い子になるだろう」
 用済みだと言われているのと同じだ。愛の無い関係だった。妻の責務を伯爵は望んだ。マリアは姉の死の真相を知りたかった。伯爵は目的を果たしたが、マリアはまだ真相を知らない。
「──姉はどうして死んだんですか」苦しみながら問う。「私は責を果たしました。教えて下さい」
「そんな約束をした覚えはない」
 冷たい言葉だった。全く取り合わない様子に、でもマリアはもう最後かもしれないと食い下がる。
「私をどのように扱っていただいても構いません。私を殺しても恨みません。死ねと言うなら死にます。ですから、教えて下さい」
「何故そういう発想になる。そちらとの婚姻関係を解消する意味がない」
「私は最初から一つの問いしかしておりません。教えてください」
 伯爵は口を閉ざした。表情は全く変わらない。後ろの従者だけがおろおろしていた。それを無様だとは思わなかった。マリア自身が一番無様な思いをしている自覚があった。
「ジャック」伯爵が言う。「席を外せ」
 従者は直ぐに部屋を出る。ぱたりと扉が閉じて、部屋は一層、重い空気が漂う。
「事故だった」
 言い切ってから、伯爵は深く息をついた。
「…姉君には申し訳ないことをしたと思っている。教会で誓約を取り交わしたあとに、小舟で小島に行き最後の儀式を行う。あの日は前日に降った雨で川が増水していた。危険だからと翌日に伸ばそうとしたが、儀式はその日に行わなければならないと司祭が言った。姉君も賛成した。それで姉君を乗せた舟が転覆し、そのまま。死体を探したが見つからなかった」
「そんなことを…なぜ隠していたのですか。父も何故」
「今回の婚姻は皇帝が進めたものだ、と言えば、理解出来るか」
 マリアが知っているのは皇帝によって婚姻を結んだことだけ。何を理解出来るかまでは知らない。首を横にふる。
「わざわざ皇帝が介入した婚姻だ。花嫁が死んだなどと広まれば、その影響は計り知れない。はじめから妹が輿入れしたと触れ回るしかなかった」
 それに、と付け足す。
「そちらのアンベルス伯は名門ではあるが斜陽貴族だ。破産寸前でいよいよ爵位剥奪かとも囁かれていた」
 つまりこう言いたいのだ。私が守ったのはお前だと。
 マリアは実家がそんなことになっているなど、全く知らなかった。父も母も、何も言わなかった。暮らし向きが傾いていたなど、想像したこともなかった。
 父は、先の戦争で軍功を上げたからと、わざわざ皇帝がオリファント伯爵との婚姻を取り付けたと言っていた。オリファント伯は同じ伯爵とはいえ親の代からの振興貴族。代々の名門のこちらが娘を嫁がせて箔をつけのだとも言っていた。全部嘘だったのだ。
「…皇帝は、アンベルスの救済措置として、この婚姻を進められたのですね」
 伯爵は答えなかった。それが彼の優しさだった。
 だがマリアには、まだ一つ解せないことがあった。
「あの婚姻証明書は、どうして偽造と分かるように作成したのですか」
「それは、」言い淀んで、咳払いする。「よく知らなかったから」
「?どういうことですか」
 言いにくいのか、彼にしては珍しく戸惑っている。マリアから視線を逸らして、目を伏せる。頬にまつげの影が降りた。
「…マリアがどんな人間が知らなかった。どう扱うのが正解か分からなかった」
 思わぬ答えに、マリアは拍子抜けした。
 彼の言い方を解釈すると『まだ会ってもいない花嫁の人となりが分からないから、いざとなったら無効に出来るように偽造と分かるように証明書を作成した』ということになる。彼の表情からして嘘をついているとは思えなかった。
「そんなの、当たり前じゃないですか…」
 マリアはそれだけを言った。
「…そうだな」
「姉とは、会う前からお知り合いだったのですか」
「すまなかった。今のは忘れてくれ」
 急に気弱になった伯爵は、顔を伏せた。まるで恥じ入るように、誤魔化すように、背を向けた。大きな背中が、小さく見えた。

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