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小屋での生活③

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 短い前髪だと落ち着かない。グレンは何度も目を隠そうと前髪に触れては眼鏡にあたり、その度に髪を切ったのを思い出した。落ち着かない。こんなに短いのは子供の時以来だ。

 眼鏡になると、アニーの姿が目についた。金の髪を結び、馬の尻尾のように腰辺りまで垂れ下がっている。シャツとズボンはグレンのお古で、小さく仕立て直すと、それがお気に入りとなって毎日でも着ていた。動きやすいのだという。例の猫のエプロンをしていると、結んだ紐のせいか腰の細さが際立つ。
 彼女の足音がすると、つい気になってしまう。それはここで暮らすようになってからの癖で、今も変わらない。

 グレンはこの生活が、もっと険悪なものになると思っていた。彼女に恨まれて、もっと殺伐と暮らしていくものだと思っていた。根無し草のようにあちこちを転々としてきたグレンとしては、こんなに落ち着ける穏やかな日々は生まれて初めての経験と言えた。

「グレン」

 アニーに呼ばれ、目を合わせる。彼女はバスケットを持っていた。

「暇ならジャガイモを取ってきてください」

 バスケットを押し付けられる。外に小さな小屋があり、そこが食料庫となっている。ジャガイモもそこに保管してある。

「何個だ」
「十個です。剝いて洗っておいてください」

 すっかり遠慮の無くなった彼女は、最近はよくグレンをこき使うようになった。

 食料庫へ行ってジャガイモをバスケットに入れる。小屋に戻ってジャガイモを剝いて、水でさらす。言われたとおりに終えると、アニーは沸騰させた鍋に全て投入した。ジャガイモをふかして取り出し、麺棒で潰す。調味料を入れて馴染ませればマッシュポテトになる。アニーの得意な料理だ。

「グレン」

 また呼ばれる。アニーは木べらを差し出していた。先にはマッシュポテトがついている。味見しろということらしい。グレンは顔を寄せてそれを食べた。

「美味しい」

 言うと、アニーは直ぐに皿の上にマッシュポテトを盛り付けた。空の鍋をテーブルに置く。

「洗っておいてください」

 洗い物は基本的にグレンとモリスの仕事だった。これが結構な重労働で、洗濯などは大仕事だ。よく下働きの女たちは平気でやれるものだと感心する。

 小屋の前の小川で鍋を洗う。水場が近くにあると便利で助かる。雨が降ると山からの濁った水が流れ込んでくるから、天気はある程度気になってしまう。事前に水瓶に溜めておけば問題ないから、それほど神経質ならずともいいのだが。
 今日は快晴で風もない。空を見ても雲の流れはゆっくりで、急激に何か雨が降るということはなさそうだ。暖かな日が続いていた。

 鍋を洗って小屋へ戻ると、アニーはマーサに餌をあげていた。さっき作ったマッシュポテトも少し添えられている。マーサは三毛猫で、元々大きかったが、ここに来てからますます大きくなった。アニーが抱えると上半身が隠れてしまうほどだ。

 食べているうちにと、グレンはマーサの背中を撫でた。するとマーサは鳴き声をあげて逃げてしまった。

「なんでだ?」
「手が冷たいからでしょう。洗い物をしていたから」

 驚かせてしまったようだ。まだ食べかけのマッシュポテトに目を落としていると、手に何か触れた。

 アニーの手だった。温かく柔らかな感触に、グレンは手を引いた。アニーは追いかけて手を握ってきた。

「マーサを驚かせないでください」
「すまない」
「竈に火はついてますから、温まってください。私はマーサを探してきますから」

 自然と手が離れる。僅かな彼女のぬくもりが残って、直ぐに消えた。



 夜、寝入ろうとベッドに入った所で扉を叩かれる。アニーの声で、グレンは起き上がって扉を開けようとして、眼鏡を外していたのを思い出して思い留まる。

「どうした」

 声だけをかける。扉の向こうで、床がきしむ音がした。

「お話があります。中に入れてください」

 アニーが訪ねてくるのは初めてだった。それもこんな夜に。グレンは眼鏡をかけて扉を開けた。彼女はブランケットを羽織り、手にはランプを持っていた。

「夜は冷える。話なら明日する」

 と言ったのに、アニーは一冊の本を見せた。

「読めるように勉強しました。朗読を聞いて欲しいんです」
「夜は冷えると」
「聴いて欲しいんです」

 強引に入ってくる。テーブルはあるが椅子はない。テーブルにランプを置いたアニーは、ベッドに座った。本を広げる。紡ぎ出される言葉は聞き心地よく、あの娼館を思い出させる。

 グレンは最初立ち尽くしていたが、アニーに睨まれて隣に座る。その間にも朗読は続いて、耳によく馴染んだ。

 詩と言えばボールロールだった。彼の詩は世の中に浸透している。グレンも暗唱出来るほどだったが、それは彼女とのかつての思い出を懐かしんでいつの間にか覚えてしまったもので、記憶を失った彼女がそれを知る由もない。

 その彼女が今、また同じようにボールロールを読んでいるのを見ると感慨深く感じる。まだ自分の気持ちに自覚が無かったあの頃。今は、素直に言えない秘めた思いを、グレンは口に出してしまわないように努めた。


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