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暗雲
しおりを挟むソフィアにはエイドスの記憶しか残っていなかった。自分が何者で、何故エイドスの妻なのかも分からず、ただそう名乗ることに喜びを感じる、村娘のような女になった。
この状況を、エイドスの立場から見れば美味しいものだった。あれこれ気を回さずとも、エイドスに情を寄せてくれる。こんなに御しやすいことはない。
本心で言えば、素直に喜べなかった。エイドスが愛したのは、こんな女ではなかった。
エイドスの案で、ソフィアは死亡扱いとした。ナセル国へ帰国するのだし、隠しておくのが一番良い。父のハンソン卿にも生きていると伝えなかった。
ギルは、レオンに引き取ってもらうことにした。歳も近いから打ち解けるだろう。風邪が長引いていたからソフィアの偽りの死亡は、しばらく伏せられることになった。折を見て伝えてくれるという。
継母は娘殺しとして捕らえられたという。刑法に則って罰がくだされるだろう。お優しいことだ。
ナセル国へ向かう日、見送りはレオン陛下だけだった。記憶を失ったソフィアへ健気に見舞いに訪れていた短い期間で、二人は再び仲良くなっていた。親愛のキスを交わして、ソフィアは馬車に乗り込む。レオンは悲しげな顔をしていた。エイドスはそれを冷ややかに眺めた。
馬車が走り出す。向かいに座るソフィアが手を振る。振り終えて、エイドスに向き直った。笑顔を見せる。
「ナセル国にお帰りになるの、楽しみですね」
「…ああ」
「エイドス様が王様となられる様、お手伝いします」
「期待してる」
ふふ、とソフィアは嬉しそうだ。何がそんなに楽しいのやら。エイドスはため息をつく。もう一度ソフィアが死ねば、記憶は戻るかもしれない。あの死に顔を見せられて、そんなこと出来るわけが無かった。
「エイドス様」
「なんだ」
「どうやったらエイドス様は王様になれるんですか?」
「父と兄が死ねば王になれる」
事実だが、そんな幸運はやって来ないだろう。自分の力で兄を追い落として王太子にならなければならない。
「ソフィア、知ってると思うが、その金の瞳は我が国では祝福だ。逆に言えばそれだけ狙われやすい。他人には十分警戒しろよ」
「エイドス様以外には従いません」
「それでいい」
ふと、背もたれに身を預ける。息をついて、小窓から外の景色を眺める。
「女神の呪いか」
「祝福では?」
ソフィアの言葉には答える気になれなかった。山を超え、シェジェンに入ればナセル国だ。かつての戦場も、今は何も残っていないだろう。そんな中を金の瞳が通っていく。これから彼女が何をもたらしていくのか。レイナルドの二の舞にはならない。金の瞳を利用するだけだ。女神の力を借りるつもりはない。否、既に借りてしまっているか。心まで手に入れてしまった今、泥船に乗ったような気になる。もう船は出ている。戻れない。
山頂には暗雲が立ち込めていた。エイドスはそれを睨み続けた。
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