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心が近づくとき
しおりを挟む「まだ終わらないのか」
エイドスの言葉にソフィアはビクつく。湯浴みを終え、鏡台の前に座り侍女たちの世話を受けている時だった。寝台に入る前には色々と準備がいる。肌と髪の手入れをし、安眠効果のあるナイトティーをゆっくりと飲む。侍女たちがいなかった娼館時代を除いては、ごく普通の、いつもの習慣だった。
エイドスがそんな言葉を言い出したのは、彼の方がいつもよりも早い時間に寝室にやって来たからだ。普段は深夜、寝静まった頃に政務を終えて戻ってくるのだから、ソフィアが毎日こんなことをしているのを知らないのも無理はなかった。
髪の香油を馴染ませてくれているロスに中断するように言うが、彼女は引かなかった。
「まだ終わりません。お待ち下さい」
怖いもの知らずというものは恐ろしい。ソフィアは一介の使用人が、主人に口ごたえするのを始めて見た。慌てて立ちあがり、ロスの腕を取って止めさせる。
「ロス、いいのよご苦労さま。もう休んで構いませんから、下がって」
「まだ終わっていません」
「いいの。ありがとう」
だがロスは首を横に振る。その勢いのままエイドスへ体を向けた。エイドスは先に寝台に上がって、肘をついて横になっていた。
「奥さまは、お体を整えられておいでです。旦那さまが無体なさった翌日は昼まで起き上がれませんでした。奥さまの為にお待ち下さい」
「ロ、ロス!駄目よそんなことを言っては」
「髪一本でも、奥さまが心安らかに過ごしいただくために必要なことです。ご理解ください」
訛はあるが、淀みなくロスが話す。こんなに彼女が話すのを初めて聞いた。
『なんだそれ』
ナセル国の言葉だ。エイドスはあからさまに不機嫌な顔になって、ベットを叩く。
『俺が下手くそみたいじゃないか』
『実際そうなのだから、仕方のないことです』
ロスがきっぱりと言うものだから、エイドスはますます不機嫌になっていく。
ナセル語でも、外務卿を父に持つソフィアは無理なく聞き取れる。ソフィアは二人のやり取りをハラハラしながら見守るしか出来ない。
『大体』などとロスが言う。『一方的な愛情の与え方では、独りよがりが透けて見えるもの。殿下の傲慢な支配欲を見せつけられては、心を閉ざすばかりですよ』
『はぁ?優しくしてるだろ』
『怯えているではありませんか。震えて。お可哀想に』
ソフィアは両手を握った。確かに怖いとは思っていたが、震えるほどではない。
エイドスの鋭い瞳が、ソフィアを捉える。ソフィアは努めて平静を装った。
「ソフィア」
「はい」
「早く来い」
直ぐに、と寝台に上がる。大きな手に引き寄せられ、彼の胸元に顔を埋める。
「ロス、下がれ」
「まだ終わってませんが」
二度は無かった。沈黙の後、扉が閉まる音がした。腕に抱かれていたソフィアは、二人の間にどんな無言のやり取りがあったのか分からなかった。
「腹立つな全く」
「ロスを責めないでください。私が弱いからいけないのです」
「お前は怖がり過ぎだ。ナセルに行ったら俺みたいなのはゴロゴロいるぞ」
「怖いわけでは」
「嫌ならしない」
ソフィアは俯く。顎を持ち上げられ、無理やり上を向けさせられる。
「怖いんだろう」
「そういうわけでは」
「震えてる」
「いえ…震えてなど…」
「お前に触れると、いつも震えている。嫌ならしないと言っただろう。言わないと分からない」
「慣れていないだけです」
「レイナルドか?」
反応しないようにしたせいで、却って不自然になる。陰気な女。有り難く思えと、痛みしか感じなかった花を散らした日が蘇る。アンは頭を振った。
「昔の話です」
「俺が下手ってわけじゃないんだな」
「経験不足で、私には分かりません」
ニヤリと笑うと、口を合わせてきた。短く終えて、離れる。
「これをするのは、見る者がいるからだ。不仲だと思われたくないからな。だが」
ソフィアの腹を、エイドスの手の甲が撫でる。ほとんど触れない、掠めるような仕草だった。
「これをしないのは、意味が無いからだ。俺は毎日馬鹿らしい政務で忙しいし、仕事を終えたら早く寝たい。お前に構ってる暇は無いんだ」
「……はい」
「一度は夫婦となった。それでもういいと思っている」
エイドスは、顔を横に向けた。大きな欠伸をする。
「俺が夜中にベッドに入る度に嫌そうな顔をして。仕方ないだろ。ベッドは一つじゃないと周りがうるさいんだ」
「い、嫌ではありません」
「怖がるな」
「…すみません」
寝そべるエイドスに引きずられて、ソフィアも横になる。向かい合って横になって、ソフィアは息がしやすいように顔を上げた。
「反対向け」
言われた通りに背を向ける。抱きしめられて、温かさが背中からやって来る。手が重なって、そこからも熱が伝わる。
夜中にやって来るエイドスはいつもこうして眠りにつく。まるで抱き枕だ。
「こうしてると、よく眠れる。これ以上はしないから、慣れろ」
熱に包まれて、初めは緊張していたソフィアに、かつての記憶が蘇る。温めてくれたあの人を思い出すと、緊張が和らいでいく。そのまま眠りについた。
「…グレンさま…」
エイドスは目を開けた。顔を覗き込む。彼女は眠っていた。
別の男の名を呼ぶなど。どんな夢を見ているのやら。良い気はしない。もう一声を期待して待ったが、静かな寝息ばかりだった。
庭を歩くならと、花園へ入る。王族しか入れず、レイナルドに疎まれていたソフィアは、数えるほどしか行ったことがなかった。
「ソフィア」
エイドスの手を取る。彼は身をかがめると、ソフィアの首元に顔を埋めた。直ぐに離れる。
「まだ香油の匂いが残ってる」
「匂いますか?」
「ああ、花園の中でもな」
ソフィアは自分の髪の匂いを嗅いでみたが、よく分からなかった。
手を引かれ、ゆっくり歩く。花園だから、二人きり。人目を気にしなくていいから、ソフィアは久しぶりに穏やかな気持ちになっていた。
ふと気づく。エイドスがいるのに、そんな気持ちになるなど思いもしなかった。
「お前には花がよく似合う」
こちらを見もしないで言う。彼が何を見ているのかと気になって同じ目線を向けるが、見えるのは薔薇ばかりだった。
「そういうエイドス様は、あまり花が似合いませんね」
「興味もさしてない。正直名前もよく知らない。花より木の方が使えるからな。白樺が好きだ」
「ああ、そうですね。良い木です」
白樺は姿も優美ならば、使用用途も多岐にわたる。木材として使えるのはもちろん、薬や着火剤まで。エイドスが気に入るのも納得だった。
「花園では面白くないでしょう。庭に出ますか?白樺もありますよ」
「いや?面白い。色々と知れる」
エイドスが笑いかけてくる。勝ち気な笑みは、彼の癖だろう。笑みの理由を知らないソフィアは、ただ見つめ返す。
「やはり部屋の中よりも外の方が煌めきが増す」
彼が髪に触れる。耳を引っ張られて、耳飾りがシャラ、と揺れる。
「王宮ばかりでは息が詰まるだろう。そろそろ旅行にでも行くか」
「旅行…いえ、私は」
「新婚旅行だ」
新婚旅行。そんなこと、考えもしなかった。
「有名な湖があるそうだな。なんとかという詩で有名だとか」
「ボールロールですね。『マサ湖畔での踊り』と言う詩作が有名です」
「それだ。むかし読んだが、俺はさっぱりだった」
正直に話すエイドスに、ソフィアは少し笑ってしまった。じっと見られていて、ソフィアは失礼だったと笑うのを止めた。
エイドスの手が頬を撫でる。
「よくここまで回復したな」
労りの言葉に、ソフィアは咄嗟に礼も言えなかった。褒められたようにも感じて、温かな気持ちが胸に広がる。
風に乗って薔薇の匂いがやって来る。咲き誇って、でもどんな薔薇が咲いていたか、ソフィアは覚えていなかった。
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