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記憶を取り戻して②

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 朝、アンの部屋に行くと、彼女は窓に向かって膝をつき、祈っていた。

 扉の音が聞こえたのか、アンは祈りを中断して立ち上がる。眠れなかったのか、毒のせいか、青白い顔だった。

「不思議だな。一日ですべてが変わってしまった」
「もとに戻っただけです。陛下、戦争は本当に終わるのですか」
「お前のせいでな。リディアの言っていたことは本当だった。その金の瞳に惑わされた」
 
 アンは目を伏せた。

「私の本願は果たされました。陛下、私をさぞお恨みでしょう。思い残すことはありません。どうかリディア様と同じように、私を殺してください」
「まだ何の話も聞いていない。なぜ、娼婦なんかになった」
「あれは成り行きで。本命は情報を売ってお金を得るつもりでした」
「成り行きで娼婦などになる奴があるか!お前は貴族なんだぞ!」
「貴族ではありません。私は平民です」

 レイナルドは今の今までそれをすっかり忘れていた。庶民に落としたのは自分だったのに。動揺するレイナルドを他所に、アンは澄ました顔で続ける。

「信じられないかもしれませんが、私は誰とも身体を重ねた経験はありません」
「嘘つけ」
「とあるお方が本の朗読をご所望でしたので、娼婦のふりをしてお相手しておりました」
「嘘つけ!ラジュリーの貴族に買われてたくせに」
「あのお方は、お優しい方です。買われたのでなく、記憶喪失となった私を助けてくださいました」
「信じられるか!」
「結構でございます。陛下とはもう夫婦ではありません。このような問答は不要かと」
  
 最もな指摘に、レイナルドは咄嗟とっさに言い返せなかった。王妃の座から引きずり降ろしておいて、まだ自分の物だと錯覚していた。
 だが、自分はこの国の王だ。この国に属する者はすべからく己のもの。そう言ってしまえばと思いもしたが、言い訳にしか聞こえず、結局反論しなかった。

「──情報を売った件はどう言い訳するつもりだ」
「売る相手は厳選しました。陛下に近い者に売れるようにしておけば、民衆に情報が漏れる心配はありません。私はただ、カリス樹海に行く旅費が欲しかったのです」
「カリス樹海?」

 ハインツ地方の聖域で、昔アンが女神の話をしていたのを思い出す。なんでも願いを叶えてくれるとか。

 レイナルドは鼻で笑う。

「お前、それで女神に戦争を止めてもらうようにと願いに行ったのか?」
「違います」きっぱりと言う。「私は悪魔や女神など信じておりませんでした。王妃でなくなった私に出来ることは無いに等しい」
「では何故」
「──金鉱脈を見つけるためです」

 それは全く予想しなかった答えだった。それは、悪魔や女神などの話にも等しい突拍子もない答えだった。

「金鉱脈だと…?」
「カリス樹海の中心のリビア山には、昔から金が眠っていると言われていました。麓に流れる川では金が採れるのが確認されています。私は金鉱脈を見つけ、それを陛下にお伝えするつもりでした」
「無謀過ぎるだろ。冬山だぞ」
「頂上に登るわけではありませんから、私が到着したときには、麓には雪はありませんでした。それに地質調査団を編成しておりましたから、無謀ではありません」
「なんで金なんか」
「借金返済の為です」

 国の借金の金額は、アンが王室を離れた頃から更に増えている。返済の目処も立っていないのも事実だ。全てはレイナルドの独断で始めた戦争で、王族で無くなったアンが気にすることではない。

「お前はもう王妃ではない」
「私も及ばずながら戦争に協力しました。このままでは我が国は破綻します。返済のてとなるなら、何もしないよりはマシです」

 でも、とアンは目を細める。後悔をにじませたような顔をする。

「でも、聖域を荒そうとする私を女神は許さなかったようです。吹雪に見舞われ、調査団の方と離れ離れになり、力尽き、死んだと思っていたのですが…まだこうして生きているのは、女神様のご意思を感じます」
「戦争を止めるのを見届けるためということか」

 アンは頷いた。

「お前は女神の怒りを買ってそんな瞳になった。そんな瞳でこの先生きられると思うか」
「些末なことです。これが私に対する罰ならば、安いものです。戦争が終わる目的は達しました。陛下に殺されようと、後悔はありません」
「死にたいのか」
「後悔はありませんと言いました」

 話を終えて、アンは椅子の背もたれに手を置いた。立っているのが辛いのだと気づく。

「座れ」
「陛下が私をどうするのか知るまでは、私も落ち着けません」
「俺は殺すとも一度も言っていない。お前の話は分かった。休め」
「…何もしないのであれば、出ていきます」
「馬鹿言うな。昨日、毒を飲んで回復していないのに、行くところも無いだろうに」
「陛下のお世話になる理由がありません」
「そんなに俺が嫌いか」

 幼稚なことを言ったと思う。言わずにはいられなかった。

「ええ」

 アンは間髪入れずに言った。レイナルドは昔から抱いてきた怒りが再燃する。優しくしてやったのに、向こうは何とも思っていない。こちらはリディアまで殺したのに。

「お前はずっと俺を嫌ってきた。少しも笑いかけてくれない。贈ったネックレスも身に着けない。俺が何をした?」
「お心当たりが無いと言うのであれば、私から話すことはありません」
「そうやってお前は何も言わないからこうなったんだ!俺ばかりが怒っていつもお前は何も言わない。澄ました顔をしてないで一度ぐらい言ってみろ!」
「陛下が忘れているだけですよ」

 そっけない態度。通わない心。窓を叩きつける冷たい風。冬の匂いが立ち込める。

「殺されても構わないと言ったな」
「陛下はこの国の王ですから、容易いことかと」
「死んでも構わないなら、俺の疑問に全て答えろ。気になって殺したくても殺せない」
「恨み言を聞きたいと?」
「ぜひ聞きたいな。最後にお前の本心が知りたい」

 最後、と言ってみたものの、アンを殺すつもりなど毛頭無かった。記憶の無いアンは、自分を慕ってくれた。記憶が戻った今のアンに、自分に対する情が、少しも無いとは思っていなかった。

「陛下の全てに嫌悪しておりました」

 だがアンはきっぱりと言った。

「陛下は王太子であった頃から、ろくに学問もせず兵隊の人形遊びばかりでした。民が一年かけて貯めるお金をたった一度の晩餐会で使い果たし、先王がお諌めしても全く聞く耳をお持ちにならない。従僕を奴隷のように扱い、骨を折る者もおりました。私にも暴力を。即位されてからは、ナセル国へ無謀ないくさをしかけ、国力を疲弊させ、膨大な借金が残りました。私は、陛下の人間性もですが、陛下が王たろうとしない軽薄な性根に、心から軽蔑しております」

 沈黙が落ちる。言いきったアンはさぞ気分が良いだろうと思ったが、顔は青白く、今にも倒れそうだ。座れとレイナルドは気遣ってやったのに無下にされた。こうも侮辱されて、もう一度気遣うつもりなど無かった。

「つまり、俺は王に値しないと言うわけだな」
「そう捉えていただいて構いません。あくまで私の主観ですが」
「だったらお前も王妃たろうとしろよ。お前の一番の役目は子を産むことだろうが。諫言かんげんばかりして、俺の機嫌を取ろうとしない。それは立派な職務放棄だろう」
「陛下も同じことが言えるのでは?」
「なんだと?」
「殿方はたとえ気に入らない相手でも、己の欲を満たせるそうですよ。そう時間もかからないとか。陛下は、私に近寄りもしませんでした。これも職務放棄と言えましょう」
「黙れ!いちいち突っかかってきやがって!お前と居ると腹が立ってしょうがない。少しでも、お前に欲情しようなどと誰が思うか!」

 怒気しても、アンの表情は変わらない。目を細められ、見下されているかのような気分になる。この女を、何とかしてやり込めてやりたい。そうしなければ自分の気が晴れない。
 
「──また戦争を始めてやろうか」

 レイナルドはただ、アンを苦しめたいがためだけに言った。アンの眉がわずかに動く。この女の目的はそこなのだ。レイナルドは冷笑した。

「戦争を止めるなど馬鹿らしい。俺の一声で、いつでも始められるんだ」
「そのようなことなさらずとも、私に一泡吹かせたいのならば、そうお命じになればよろしいのです」
「その手には乗らないぞ。お前は一番に戦争を止めたかった。それが出来なかったから金鉱脈など探しに行ったくせに。この国の存亡はお前にかかっているぞ。さぁ俺を止めてみろ。俺に媚びへつらって、その気にさせてみろ」

 アンはしばらく無言のまま突っ立っていた。諦めがついたのか、やがて笑みを浮かべる。レイナルドの前に立ったアンは、おもむろに手を振り上げた。

 ──パンッ

 レイナルドは頬を押さえた。アンが、頬を叩いたのだ。

 初めて手を上げられて、レイナルドは最初、何をされたのか分からなかった。まさかアンが、そんなことをするなど、全く予想していなかった。

「──怒りが頂点に達すると、つい笑ってしまうものなのですね。初めて知りました」

 叩いた方の手首を掴んで、アンはじっと手を見下ろす。長いまつげが揺れる。

「アン…貴様」
「兵の撤退命令をお出しになったそうですね。昨日はそれで随分遅くに別邸に来られた。戦争中止の手続きは既に終えられているとお見受けしました。であれば、それを覆すのは陛下でも至難の業かと」
「俺は王だ。決めるのは俺だ!」
「さすがに無理でしょう。おそらく知らせは敵国まで届いているはず。正使を派遣しているのなら、余計に無理ですね」

 図星だった。正使は昨夜のうちに敵国に向けて出発している。呼び戻すのは不可能だった。
 レイナルドの僅かな発言から、アンは推測をした。その想定は的確だった。

 レイナルドはカッとなってアンに掴みかかる。アンは抵抗もせず、怯えもせず、されるがままだった。それがまた怒りを煽る。

「お前!殺してやる!楽に死ねると思うなよ。存分に苦しませてからゆっくり殺してやる!」

 床に組み伏せ首を締め付ける。間違えて殺してしまわないように、締め付けては緩めるのを繰り返す。さすがのアンも息が出来ない苦しみに顔を歪める。白い顔に赤みが差す。その様を見下ろして、やっと充足感が増していく。
 
「ははっ!良いザマだな」

 もう一度細い首を締め付けようとして、扉を叩く音が聞こえる。初めは無視していたが余りにも叩いてくるので、レイナルドは舌打ちして立ち上がった。
 入ってきたのは従者だった。息を切らして、ただならぬ雰囲気だった。

「なんだ朝から」
「へ、陛下、大変です!直ぐに王宮にお戻りください」
「だからなんだと聞いている」

 従者はつっかえながら言った。

「ナセル国軍が国境を越えてきました!王都に迫っております!」

 レイナルドは冗談だと一笑しようとした。国境を越えるにはシェジェンをまず制圧しなければならない。行く手を阻む山脈があるのに、今の今まで何の知らせも無しにやって来れる訳がない。それに既に和平の正使を派遣している。偽の情報だと思った。

 だが従者は続ける。

「ラジュリー国から侵入してきたのです!ラジュリーはナセルと同盟を結んだのです!」
「…馬鹿な。ラジュリーはうちと不可侵を結んでいる。それを破ってきたのか」
「そうとしか思えません。ラジュリーは我が国を裏切り、ナセル軍の往来を許したのです」

 ラジュリーから我が国に侵入するのは容易だ。川を渡れば直ぐなのだから。しかも王都に近い。国境を越えたのなら、ナセル軍が王都に到達するのも時間の問題だった。

「…本当なのか?」

 まだ信じられずに問いかける。従者は本当だと答えた。

「王宮へお戻りください。指揮を…!」

 従者に急かされ足を進めようとする。足がもつれる。シェジェンに兵を割いているから、王都にいる兵は微々たるものだ。そう指示したのはレイナルド本人で、現状をよく知っていた。
 よろけながら部屋を出る。アンをかえりみる余裕もない。見捨てて、王宮への馬車に向かった。


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