32 / 90
記憶を取り戻して②
しおりを挟む朝、アンの部屋に行くと、彼女は窓に向かって膝をつき、祈っていた。
扉の音が聞こえたのか、アンは祈りを中断して立ち上がる。眠れなかったのか、毒のせいか、青白い顔だった。
「不思議だな。一日ですべてが変わってしまった」
「もとに戻っただけです。陛下、戦争は本当に終わるのですか」
「お前のせいでな。リディアの言っていたことは本当だった。その金の瞳に惑わされた」
アンは目を伏せた。
「私の本願は果たされました。陛下、私をさぞお恨みでしょう。思い残すことはありません。どうかリディア様と同じように、私を殺してください」
「まだ何の話も聞いていない。なぜ、娼婦なんかになった」
「あれは成り行きで。本命は情報を売ってお金を得るつもりでした」
「成り行きで娼婦などになる奴があるか!お前は貴族なんだぞ!」
「貴族ではありません。私は平民です」
レイナルドは今の今までそれをすっかり忘れていた。庶民に落としたのは自分だったのに。動揺するレイナルドを他所に、アンは澄ました顔で続ける。
「信じられないかもしれませんが、私は誰とも身体を重ねた経験はありません」
「嘘つけ」
「とあるお方が本の朗読をご所望でしたので、娼婦のふりをしてお相手しておりました」
「嘘つけ!ラジュリーの貴族に買われてたくせに」
「あのお方は、お優しい方です。買われたのでなく、記憶喪失となった私を助けてくださいました」
「信じられるか!」
「結構でございます。陛下とはもう夫婦ではありません。このような問答は不要かと」
最もな指摘に、レイナルドは咄嗟に言い返せなかった。王妃の座から引きずり降ろしておいて、まだ自分の物だと錯覚していた。
だが、自分はこの国の王だ。この国に属する者はすべからく己のもの。そう言ってしまえばと思いもしたが、言い訳にしか聞こえず、結局反論しなかった。
「──情報を売った件はどう言い訳するつもりだ」
「売る相手は厳選しました。陛下に近い者に売れるようにしておけば、民衆に情報が漏れる心配はありません。私はただ、カリス樹海に行く旅費が欲しかったのです」
「カリス樹海?」
ハインツ地方の聖域で、昔アンが女神の話をしていたのを思い出す。なんでも願いを叶えてくれるとか。
レイナルドは鼻で笑う。
「お前、それで女神に戦争を止めてもらうようにと願いに行ったのか?」
「違います」きっぱりと言う。「私は悪魔や女神など信じておりませんでした。王妃でなくなった私に出来ることは無いに等しい」
「では何故」
「──金鉱脈を見つけるためです」
それは全く予想しなかった答えだった。それは、悪魔や女神などの話にも等しい突拍子もない答えだった。
「金鉱脈だと…?」
「カリス樹海の中心のリビア山には、昔から金が眠っていると言われていました。麓に流れる川では金が採れるのが確認されています。私は金鉱脈を見つけ、それを陛下にお伝えするつもりでした」
「無謀過ぎるだろ。冬山だぞ」
「頂上に登るわけではありませんから、私が到着したときには、麓には雪はありませんでした。それに地質調査団を編成しておりましたから、無謀ではありません」
「なんで金なんか」
「借金返済の為です」
国の借金の金額は、アンが王室を離れた頃から更に増えている。返済の目処も立っていないのも事実だ。全てはレイナルドの独断で始めた戦争で、王族で無くなったアンが気にすることではない。
「お前はもう王妃ではない」
「私も及ばずながら戦争に協力しました。このままでは我が国は破綻します。返済の当てとなるなら、何もしないよりはマシです」
でも、とアンは目を細める。後悔をにじませたような顔をする。
「でも、聖域を荒そうとする私を女神は許さなかったようです。吹雪に見舞われ、調査団の方と離れ離れになり、力尽き、死んだと思っていたのですが…まだこうして生きているのは、女神様のご意思を感じます」
「戦争を止めるのを見届けるためということか」
アンは頷いた。
「お前は女神の怒りを買ってそんな瞳になった。そんな瞳でこの先生きられると思うか」
「些末なことです。これが私に対する罰ならば、安いものです。戦争が終わる目的は達しました。陛下に殺されようと、後悔はありません」
「死にたいのか」
「後悔はありませんと言いました」
話を終えて、アンは椅子の背もたれに手を置いた。立っているのが辛いのだと気づく。
「座れ」
「陛下が私をどうするのか知るまでは、私も落ち着けません」
「俺は殺すとも一度も言っていない。お前の話は分かった。休め」
「…何もしないのであれば、出ていきます」
「馬鹿言うな。昨日、毒を飲んで回復していないのに、行くところも無いだろうに」
「陛下のお世話になる理由がありません」
「そんなに俺が嫌いか」
幼稚なことを言ったと思う。言わずにはいられなかった。
「ええ」
アンは間髪入れずに言った。レイナルドは昔から抱いてきた怒りが再燃する。優しくしてやったのに、向こうは何とも思っていない。こちらはリディアまで殺したのに。
「お前はずっと俺を嫌ってきた。少しも笑いかけてくれない。贈ったネックレスも身に着けない。俺が何をした?」
「お心当たりが無いと言うのであれば、私から話すことはありません」
「そうやってお前は何も言わないからこうなったんだ!俺ばかりが怒っていつもお前は何も言わない。澄ました顔をしてないで一度ぐらい言ってみろ!」
「陛下が忘れているだけですよ」
そっけない態度。通わない心。窓を叩きつける冷たい風。冬の匂いが立ち込める。
「殺されても構わないと言ったな」
「陛下はこの国の王ですから、容易いことかと」
「死んでも構わないなら、俺の疑問に全て答えろ。気になって殺したくても殺せない」
「恨み言を聞きたいと?」
「ぜひ聞きたいな。最後にお前の本心が知りたい」
最後、と言ってみたものの、アンを殺すつもりなど毛頭無かった。記憶の無いアンは、自分を慕ってくれた。記憶が戻った今のアンに、自分に対する情が、少しも無いとは思っていなかった。
「陛下の全てに嫌悪しておりました」
だがアンはきっぱりと言った。
「陛下は王太子であった頃から、ろくに学問もせず兵隊の人形遊びばかりでした。民が一年かけて貯めるお金をたった一度の晩餐会で使い果たし、先王がお諌めしても全く聞く耳をお持ちにならない。従僕を奴隷のように扱い、骨を折る者もおりました。私にも暴力を。即位されてからは、ナセル国へ無謀な戦をしかけ、国力を疲弊させ、膨大な借金が残りました。私は、陛下の人間性もですが、陛下が王たろうとしない軽薄な性根に、心から軽蔑しております」
沈黙が落ちる。言いきったアンはさぞ気分が良いだろうと思ったが、顔は青白く、今にも倒れそうだ。座れとレイナルドは気遣ってやったのに無下にされた。こうも侮辱されて、もう一度気遣うつもりなど無かった。
「つまり、俺は王に値しないと言うわけだな」
「そう捉えていただいて構いません。あくまで私の主観ですが」
「だったらお前も王妃たろうとしろよ。お前の一番の役目は子を産むことだろうが。諫言ばかりして、俺の機嫌を取ろうとしない。それは立派な職務放棄だろう」
「陛下も同じことが言えるのでは?」
「なんだと?」
「殿方はたとえ気に入らない相手でも、己の欲を満たせるそうですよ。そう時間もかからないとか。陛下は、私に近寄りもしませんでした。これも職務放棄と言えましょう」
「黙れ!いちいち突っかかってきやがって!お前と居ると腹が立ってしょうがない。少しでも、お前に欲情しようなどと誰が思うか!」
怒気しても、アンの表情は変わらない。目を細められ、見下されているかのような気分になる。この女を、何とかしてやり込めてやりたい。そうしなければ自分の気が晴れない。
「──また戦争を始めてやろうか」
レイナルドはただ、アンを苦しめたいがためだけに言った。アンの眉がわずかに動く。この女の目的はそこなのだ。レイナルドは冷笑した。
「戦争を止めるなど馬鹿らしい。俺の一声で、いつでも始められるんだ」
「そのようなことなさらずとも、私に一泡吹かせたいのならば、そうお命じになればよろしいのです」
「その手には乗らないぞ。お前は一番に戦争を止めたかった。それが出来なかったから金鉱脈など探しに行ったくせに。この国の存亡はお前にかかっているぞ。さぁ俺を止めてみろ。俺に媚びへつらって、その気にさせてみろ」
アンはしばらく無言のまま突っ立っていた。諦めがついたのか、やがて笑みを浮かべる。レイナルドの前に立ったアンは、おもむろに手を振り上げた。
──パンッ
レイナルドは頬を押さえた。アンが、頬を叩いたのだ。
初めて手を上げられて、レイナルドは最初、何をされたのか分からなかった。まさかアンが、そんなことをするなど、全く予想していなかった。
「──怒りが頂点に達すると、つい笑ってしまうものなのですね。初めて知りました」
叩いた方の手首を掴んで、アンはじっと手を見下ろす。長いまつげが揺れる。
「アン…貴様」
「兵の撤退命令をお出しになったそうですね。昨日はそれで随分遅くに別邸に来られた。戦争中止の手続きは既に終えられているとお見受けしました。であれば、それを覆すのは陛下でも至難の業かと」
「俺は王だ。決めるのは俺だ!」
「さすがに無理でしょう。おそらく知らせは敵国まで届いているはず。正使を派遣しているのなら、余計に無理ですね」
図星だった。正使は昨夜のうちに敵国に向けて出発している。呼び戻すのは不可能だった。
レイナルドの僅かな発言から、アンは推測をした。その想定は的確だった。
レイナルドはカッとなってアンに掴みかかる。アンは抵抗もせず、怯えもせず、されるがままだった。それがまた怒りを煽る。
「お前!殺してやる!楽に死ねると思うなよ。存分に苦しませてからゆっくり殺してやる!」
床に組み伏せ首を締め付ける。間違えて殺してしまわないように、締め付けては緩めるのを繰り返す。さすがのアンも息が出来ない苦しみに顔を歪める。白い顔に赤みが差す。その様を見下ろして、やっと充足感が増していく。
「ははっ!良いザマだな」
もう一度細い首を締め付けようとして、扉を叩く音が聞こえる。初めは無視していたが余りにも叩いてくるので、レイナルドは舌打ちして立ち上がった。
入ってきたのは従者だった。息を切らして、ただならぬ雰囲気だった。
「なんだ朝から」
「へ、陛下、大変です!直ぐに王宮にお戻りください」
「だからなんだと聞いている」
従者はつっかえながら言った。
「ナセル国軍が国境を越えてきました!王都に迫っております!」
レイナルドは冗談だと一笑しようとした。国境を越えるにはシェジェンをまず制圧しなければならない。行く手を阻む山脈があるのに、今の今まで何の知らせも無しにやって来れる訳がない。それに既に和平の正使を派遣している。偽の情報だと思った。
だが従者は続ける。
「ラジュリー国から侵入してきたのです!ラジュリーはナセルと同盟を結んだのです!」
「…馬鹿な。ラジュリーはうちと不可侵を結んでいる。それを破ってきたのか」
「そうとしか思えません。ラジュリーは我が国を裏切り、ナセル軍の往来を許したのです」
ラジュリーから我が国に侵入するのは容易だ。川を渡れば直ぐなのだから。しかも王都に近い。国境を越えたのなら、ナセル軍が王都に到達するのも時間の問題だった。
「…本当なのか?」
まだ信じられずに問いかける。従者は本当だと答えた。
「王宮へお戻りください。指揮を…!」
従者に急かされ足を進めようとする。足がもつれる。シェジェンに兵を割いているから、王都にいる兵は微々たるものだ。そう指示したのはレイナルド本人で、現状をよく知っていた。
よろけながら部屋を出る。アンを顧みる余裕もない。見捨てて、王宮への馬車に向かった。
40
お気に入りに追加
2,230
あなたにおすすめの小説
溺愛されていると信じておりました──が。もう、どうでもいいです。
ふまさ
恋愛
いつものように屋敷まで迎えにきてくれた、幼馴染みであり、婚約者でもある伯爵令息──ミックに、フィオナが微笑む。
「おはよう、ミック。毎朝迎えに来なくても、学園ですぐに会えるのに」
「駄目だよ。もし学園に向かう途中できみに何かあったら、ぼくは悔やんでも悔やみきれない。傍にいれば、いつでも守ってあげられるからね」
ミックがフィオナを抱き締める。それはそれは、愛おしそうに。その様子に、フィオナの両親が見守るように穏やかに笑う。
──対して。
傍に控える使用人たちに、笑顔はなかった。
訳ありヒロインは、前世が悪役令嬢だった。王妃教育を終了していた私は皆に認められる存在に。でも復讐はするわよ?
naturalsoft
恋愛
私の前世は公爵令嬢であり、王太子殿下の婚約者だった。しかし、光魔法の使える男爵令嬢に汚名を着せられて、婚約破棄された挙げ句、処刑された。
私は最後の瞬間に一族の秘術を使い過去に戻る事に成功した。
しかし、イレギュラーが起きた。
何故か宿敵である男爵令嬢として過去に戻ってしまっていたのだ。
幼馴染みとの間に子どもをつくった夫に、離縁を言い渡されました。
ふまさ
恋愛
「シンディーのことは、恋愛対象としては見てないよ。それだけは信じてくれ」
夫のランドルは、そう言って笑った。けれどある日、ランドルの幼馴染みであるシンディーが、ランドルの子を妊娠したと知ってしまうセシリア。それを問うと、ランドルは急に激怒した。そして、離縁を言い渡されると同時に、屋敷を追い出されてしまう。
──数年後。
ランドルの一言にぷつんとキレてしまったセシリアは、殺意を宿した双眸で、ランドルにこう言いはなった。
「あなたの息の根は、わたしが止めます」
義妹の嫌がらせで、子持ち男性と結婚する羽目になりました。義理の娘に嫌われることも覚悟していましたが、本当の家族を手に入れることができました。
石河 翠
ファンタジー
義母と義妹の嫌がらせにより、子持ち男性の元に嫁ぐことになった主人公。夫になる男性は、前妻が残した一人娘を可愛がっており、新しい子どもはいらないのだという。
実家を出ても、自分は家族を持つことなどできない。そう思っていた主人公だが、娘思いの男性と素直になれないわがままな義理の娘に好感を持ち、少しずつ距離を縮めていく。
そんなある日、死んだはずの前妻が屋敷に現れ、主人公を追い出そうとしてきた。前妻いわく、血の繋がった母親の方が、継母よりも価値があるのだという。主人公が言葉に詰まったその時……。
血の繋がらない母と娘が家族になるまでのお話。
この作品は、小説家になろうおよびエブリスタにも投稿しております。
扉絵は、管澤捻さまに描いていただきました。
貴方もヒロインのところに行くのね? [完]
風龍佳乃
恋愛
元気で活発だったマデリーンは
アカデミーに入学すると生活が一変し
てしまった
友人となったサブリナはマデリーンと
仲良くなった男性を次々と奪っていき
そしてマデリーンに愛を告白した
バーレンまでもがサブリナと一緒に居た
マデリーンは過去に決別して
隣国へと旅立ち新しい生活を送る。
そして帰国したマデリーンは
目を引く美しい蝶になっていた
大好きだったあなたはもう、嫌悪と恐怖の対象でしかありません。
ふまさ
恋愛
「──お前のこと、本当はずっと嫌いだったよ」
「……ジャスパー?」
「いっつもいっつも。金魚の糞みたいにおれの後をついてきてさ。鬱陶しいったらなかった。お前が公爵令嬢じゃなかったら、おれが嫡男だったら、絶対に相手になんかしなかった」
マリーの目が絶望に見開かれる。ジャスパーとは小さな頃からの付き合いだったが、いつだってジャスパーは優しかった。なのに。
「楽な暮らしができるから、仕方なく優しくしてやってただけなのに。余計なことしやがって。おれの不貞行為をお前が親に言い付けでもしたら、どうなるか。ったく」
続けて吐かれた科白に、マリーは愕然とした。
「こうなった以上、殺すしかないじゃないか。面倒かけさせやがって」
「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。
貴方様の後悔など知りません。探さないで下さいませ。
ましろ
恋愛
「致しかねます」
「な!?」
「何故強姦魔の被害者探しを?見つけて如何なさるのです」
「勿論謝罪を!」
「それは貴方様の自己満足に過ぎませんよ」
今まで順風満帆だった侯爵令息オーガストはある罪を犯した。
ある令嬢に恋をし、失恋した翌朝。目覚めるとあからさまな事後の後。あれは夢ではなかったのか?
白い体、胸元のホクロ。暗めな髪色。『違います、お許し下さい』涙ながらに抵抗する声。覚えているのはそれだけ。だが……血痕あり。
私は誰を抱いたのだ?
泥酔して罪を犯した男と、それに巻き込まれる人々と、その恋の行方。
★以前、無理矢理ネタを考えた時の別案。
幸せな始まりでは無いので苦手な方はそっ閉じでお願いします。
いつでもご都合主義。ゆるふわ設定です。箸休め程度にお楽しみ頂けると幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる