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蜜月の終わり②

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 やっと帰れたのは深夜だった。使用人の出迎えもないのは、アンがもう眠っているからだろう。慌てて邸から出てきた従僕が、馬車から降りてきたレイナルドの前に膝をつく。

「へ、陛下、大変です」
「どうした。アンに何かあったのか」
「そ、それが」

 王妃さまが、と言う。王宮ではリディアの姿を見なかった。てっきり愛人のところにいるものだと思っていたが、どうやってかここを嗅ぎつけたらしい。レイナルドは直ぐさま、アンの部屋へ向かった。


 アンの部屋からは、笑い声が聞こえてきた。その声にはリディアだけでなく、アンも含まれていた。
 あまりにも楽しそうな声にレイナルドは部屋に入るのを躊躇する。そっと扉の鍵穴から中を盗み見した。

「──これでいいのですか?」
 アンの声だった。ええ、とリディアが答える。
「胸にね、ハンカチを入れるの。それでレイナルド様にこう言うのよ。『今夜、私を買ってください』って」
「今夜私を買ってください」
「そう!上手ね。それからスカートをまくって足を広げてね、こう言いなさい。『卑しい私めに、お情けを』さぁ、やってみて」

 リディアがアンに何をさせようとしているのか気づいて、頭に血が上り怒りのまま扉を乱暴に開ける。そこには、アンとリディアの姿が。アンはスカートをまくろうとしている最中だった。
 レイナルドの姿に気づいて、お帰りなさいませと笑顔で言う。アンが着ているのは、胸の空いた娼婦のドレスだった。

「リディア!何をしてる!」
「まぁ陛下。陛下もお人が悪い。アン前王妃様を、このような場所に囲うなどして。言ってくだされば、ぜひ王宮に迎え入れましたのに」
「答えろリディア!なぜお前がここにいる!」

 リディアは扇子を広げて目だけで笑みを寄越す。

「男の浮気ほど分かりやすいものはございませんのよ。王太后様の見舞いなど、今までろくにしてこなかったくせに、何を言ってるんだか。別に私だって陛下に愛人の一人や二人いたって構いませんが、まさかよりによってそれが、この女とはね」

 まるで人質に取るようにアンを引き寄せる。何もわからないアンは笑ってリディアを抱きしめる。リディアは、まぁ、と笑みを漏らした。

「こんなに健気なんだもの。陛下がほだされるのも無理はありませんわね」
「アン!そいつから離れろ!」
「どうしてですか?リディア様、とてもお優しくて、楽しいお話をたくさんしてくださいます」
「いいから早く!」

 アンは当惑しながらも、ゆっくりとリディアから離れる。アンが駆け寄ってレイナルドの後ろに隠れる。レイナルドはサーベルを引き抜いて切っ先を向けた。

「こんな服を着せて、アンに下劣な真似をさせるな!」
「記憶喪失らしいじゃないですか。ですから、陛下が何に喜ばれるのか教えて差し上げただけですよ」

 娼婦の姿をさせて、誘い方を教えただけだという。レイナルドは到底信じられなかった。

「アン、大丈夫だったか」
「…………」
「アン?」

 振り返る。リディアの高笑いが響く。後ろにいるはずのアンの姿が無い。

 視線を下に向ける。アンは床に倒れ込んでいた。

「アン!」

 抱き上げる。身体が痙攣し、口からは血が溢れ出す。咳き込みながら、アンは苦悶の表情を浮かべる。

「アン!だ、だれか!侍医を呼べ!だれか!」
「この女は悪魔と契約したのよ!金の瞳が何よりの証!陛下を悪魔の力でたぶらかしているんだわ!目を覚まして!」
「リディア!アンに何をした!」

 真っ先に従者が駆けつける。レイナルドは医者を呼べと叫んだ。従者は直ぐに部屋を出ていく。

「リディア!何をした!言え!」
「毒しかないでしょうに」リディアは低い声で言う。「菓子を食べるというから紅茶を注いでやるときに毒を入れてやったのよ。遅効性だからやっと効いてきたわ。悪魔の女には効かないのかと思ったけど、効果はあったようね」
「リディア!貴様ぁ!」
「死ねばいいんだわこんな女!そしたら陛下も目を覚ます!あんなに嫌悪していた女を寵愛するなんておかしいもの!」

 怒りが頂点に達する。早くこの女を殺さなければと思う一方で、早くアンを助けなければと思う気持ちが勝る。一刻も早く毒を吐き出させないと。弱々しくなっていくアンを抱き上げる。
  
 騒ぎを聞きつけて人が次々とやって来る。レイナルドは指示を飛ばしながら、何度もアンの名前を呼んだ。



 アンは、助からなかった。毒が効き出した時点で手遅れだったという。死ぬ間際、苦しみから解放されたかのように穏やかな顔になったアンは、そのまま目を閉じていった。
 
 膝をつき、手を握る。冷えきって、氷のようだ。冷たい手を温めるように額を当てる。

 扉を叩く音。控えている従者が扉を開けた。小さな話し声がして、レイナルドに話しかける。

「陛下、リディア王妃様のドレスから、毒が見つかりました」

 リディアは捕らえて地下に閉じ込めていた。食料の貯蔵庫だから暖房はもちろん無く、今頃は寒さに震えているだろう。

「連れてこい。拘束は解くな」
「──は。直ぐに」

 知らせようとする従者を引き止める。

「待て。紅茶を持って来い。冷えて寒いだろうからな。熱いのを淹れてやれ」

 僅かな躊躇ためらいの後に、従者は命令に従った。


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