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騒ぎ
しおりを挟むその日から男爵は毎日やって来た。私的な会話は一切無し。彼がベッドで横になっている間、アンはただ朗読するだけ。本当にそれだけだった。
本は手渡されてからずっとアンが所有していた。盗まれる危険があるからと、女主人の計らいで金庫に入れておくことになった。
男爵と過ごしていくと、彼が異常に音に敏感なことが分かった。少しの物音にも神経を尖らせて、警戒しているようにも見えた。秘密主義の殿方は珍しくない。アンも出来るだけ足音を消して、紙を捲る音にも気を配った。
男爵の相手だけでは申し訳ないと、アンは他の仕事の手伝いを申し出た。厨房を任され、生まれてはじめて皿洗いをした。冬の水は想像以上に冷たく、直ぐに指の感覚が無くなった。話を聞くと流しが室内にあるだけ、ここはまだマシだという。
「アタシが前に働いてたトコは、外にあってね。雨でも雪でも関係なく洗いに行ったもんだよ」
と教えてくれたのは、給仕係の女性だった。三十代で、娼婦としての仕事はしていないが、食事を届け、気に入られればそのまま床を共にすることもあるという。時間が空けば今のように、厨房で手伝いもするそうだ。
「アニーって言ったっけ。アンタには似合わない名前だね」
とも言われたので、アンはドキリとした。
「そ、そうでしょうか。私は気に入ってるのですが」
「ならもっと愛嬌振りまかないと!名前負けしてるよ!」
愛嬌。アンは皿を洗いながら、少し考える。
「…よく言われました。いつも澄まして、女はヘラヘラ笑っていればいいと」
過去の言葉を思い返す。もう夫ではないからと割り切るには、まだ時間が足りなかった。
「私たちみたいな女はね、嫌いな相手にでも笑ってないと仕事になんないんだよ」
「面白くもないのに笑えません」
「そんなのが通用するのは生きるのに苦労してない奴だけさ」
言い捨てられ、アンは一気に羞恥がやって来た。皿を落としそうになって、慌てて持ち直す。
「すみません…」
「何も責めちゃいないさ。一つの提案ってことにしておいて。アンタみたいなのが好きな男だっているよ。ただ、アンタがあんまりにも何も知らないまま、こんな所にやって来たもんで、心配してるんだよ。苦労するのが目に見えてるから」
「…貴女もとても優しいんですね」
「貴女なんて!やめてよ気色悪い。ゾーヤっていうんだ。よろしくね」
手を向けられる。ここに来て二度目だ。アンはぎこちなく握手を交わした。
女主人のヒルダに呼ばれ、入り口へ向かう。そこにいた人に、アンは立ち止まった。
「あらぁ?元気そうね」
侮蔑と嘲笑の混じった目を向けられる。継母は下から上まで舐めるように見ると、人目も憚らず大笑いしだした。
「あっはっは!本当に娼婦になったようね!よく似合ってるじゃない!どう?陛下以外の男の味は?アン?」
「ここではアニーと名乗っております」
「そうなのよ。聞いたら紹介状も見せてないそうね。せっかく書いてあげたのに私の好意を無下にして全く」
紹介状は初めから使うつもりはなかった。ただ継母に、自分が娼婦に身を落としたと知ってもらうためだけに、書かせたものだった。
「話をしたら、私の器量で雇ってもらえることになりましたので。かあさ…ダーナ様の名をむやみに使うのは外聞が悪いかと控えました」
「殊勝な心がけね。涙が出るわ」
演技で涙を拭う仕草をしてみせた継母は、後ろに控えていた従者を呼び寄せた。
「そんな健気なお前にプレゼントをあげるわ」
従者は被り物をとって顔を見せた。顔色の悪い、顔に発疹のある男だった。
「一晩いくらで商売してるの?」
「は…?」
「いくらで男と寝てるのかって聞いてるの」
「お答えする義務がありません」
継母はカラカラと笑った。
「ここの相場は銀貨五枚と決まっている。良い様だわ本当に!たったそれっぽっちで生きてるなんて。陛下が知ったらどんな反応を見せるでしょうね」
それはこの継母と同じ反応だろうと思った。人を傷つけて喜びを感じる所など似ている。継母の笑いが治まるまで、アンは静かに待った。
「銀貨二十枚出してあげる。今日のお前の相手はこの男よ」
言葉を受けて、顔色の悪い男が袋を二つ取り出す。ずっしり重そうなそれを、アンは受け取らなかった。
「お断りします。私の相手は別におりますので」
「もう通う男がいるのね?天職だったんじゃない。どうやって篭絡したのか私にも教えて欲しいわ」
「ここはヒルダさんが主人です。私個人ではお客さまを決められません。お引取りを」
「娼婦ぶぜいが口答えするんじゃないよ!」
頬を叩かれる。屋敷にいた時ですら、こんなことはさすがにされなかった。今は平民の、娼婦という身の上であるから、継母も遠慮しなくなったようだ。
頬を叩かれても、アンは怯まなかった。ヒルダの教えの通りに背筋を伸ばす。
「ダーナ様、このような姿になった私を見て満足でしょう。お引き取りください」
「いいやまだ足りないね。お前がもっと堕ちていくのを見ない限りは気がすまないよ」
「どうしてそんなに私を目の敵にするのですか。伯爵夫人の地位を手に入れて、子供も二人もいるのに」
「あの女の娘というだけで理由は十二分にある。お前はあの女にそっくりだ。お前が苦しめば苦しむだけ、あの女が苦しんでいるように思える。私はね、それが見たいんだよ」
継母の目配せで、従者の男はアンに近づく。アンは身の危険を感じてカウンターの裏に回ろうとした。だが遅かった。男の手がアンのスカートを掴む。アンは男を睨みつけた。
「離しなさい!」
「まだ王妃気取りのつもり?ここの主人が反対するなら別の宿を借りるまでさ。安心おし、ちゃんと金は払ってやるからね」
腕を掴まれ引き寄せられる。そのまま連れて行かれそうになって、アンは必死で助けを呼ぶが、まだ店は開店前。誰の耳にも届かなかった。往来の人たちはただ遠巻きに見ているだけ。花街という特殊上、面倒事には首を突っ込まない風潮を、アンはこの短い日数の中で気づいていた。
必死の抵抗もむなしく、馬車に押し込まれそうになる。アンは馬車の扉が閉まらないように、必死にヘリにしがみついた。痺れを切らした男が拳を振りかざす。アンは目を閉じた。
だが衝撃は来なかった。
それどころか、掴んでいた男の手が離れる。
「…きゃっ…!」
反動で地面に倒れ込みそうになるのを、誰かに抱き留められる。顔を上げると、見慣れた黒のローブ。目無し男爵だった。
「男爵さま…」
「怪我は」
言いながら男爵はアンを抱き上げた。答えようとする前に、男が視界に入り込む。男は刃物を取り出してこちらに向けていた。一気に緊張感が高まる。
「何なのよアンタ!邪魔しないで!」
狂ったように継母が叫ぶ。今にも切りつけてきそうな男に、アンは恐怖した。
「そちらこそ何のつもりだ。人攫いなら、もっと目につかない所でやるんだな」
「アタシはこの女の客よ!せっかく買ってやるって言ってるのに選り好みしやがって!痛い目に遭ってもらわないと気がすまないんだ!」
「他をあたれ。俺が先客だ」
先客、という言葉に継母はピンと来たらしい。こちらに向けたいやらしい顔がアンをゾッとさせた。
「アンタ…そうかい。その女をたった銀貨五枚で買ってるそうじゃないか。女の正体を知ったら、五枚どころじゃ済まないよ。なんたってそのお方は王さまの──」
「やめて!」
正体を口にされそうになり思わず叫ぶ。継母は、実に憎たらしく口端を吊り上げる。
「教えてやる義理は無いものね。でも教えてやらない義理もない。お前次第だよ。アニーさん?」
勝ち誇ったような笑みを浮かべる継母に、アンは観念した。自分が元王妃だというのは、秘密にしておかなければならなかった。
アンは男爵を見上げた。
「すみません。本日は…あちらのお客様のお相手をします」
「弱みを握られているのか」
小さな声で男爵は聞いた。アンも小声で、はい、と答える。
「毎日ご贔屓にしてくださり申し訳ないのですが…」
言う途中で、下に降ろされる。乱れた髪を直すように、男爵は頭に触れた。
「向こうはいくらだ」
アンは首を横に振った。脅されている以上、男爵が銀二十枚以上を払っても、向こうは引き下がらないだろう。
そこまで考えてふと、こうも思った。まさか自分が元王妃などと誰が信じるだろうか。継母が明かしたとして、男爵が信じるだろうか。
思いを巡らせていると、ふと、彼の手がアンの頬に触れる。指の節々が固くて、剣を使う人の手だと場違いに思った。
「この娘の」と男爵は言う。「素性は察しがついている」
どきりとした。思わず体を硬直させる。
「なんですって?」
継母の言葉にアンも同意だった。男爵とは朗読のやり取りしかしてしてこなかった。どうして自分の正体に気づいたのだろう。
「朗読の発音が美しく、所作も洗練されている。近ごろ王妃が廃されたと聞いた。であれば誰でも気づく」
男爵はローブからいつもの小袋を取り出して、男へ放った。男が慌てて受け取り中を確認すると、驚いて継母へ見せた。継母も目を見開いた。
「アンタ…何者!?こんなもの…!?」
「口止め料だ。去れ。二度と来るな」
継母は何度も袋の中身を確認した。それからアンを睨みつけた。
「お前はつくづく運が良いようね。でもね、覚えておきなさい。一度でも身を汚したら、もう上には上がれない。一生を恥辱にまみれて生きるがいいわ」
下卑た笑いを上げて、継母は馬車に乗り込む。男はその後ろを走ってついていった。
馬車を見送って、アンは一応の危機は過ぎ去ったと安心する。だが、男爵に腕を掴まれて、緊張が一気にぶり返して、身体を震わせる。
この人は自分の正体を知っている。このまま騒ぎになれば、計画に支障が出てしまう。
「あ…」
「野次馬がいる。早く中へ」
引っ張られるように館へ入る。騒ぎを聞きつけてやって来た女主人は、血相を変えてアンを抱きしめた。
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