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娼館へ
しおりを挟む心やさしい継母は馬車まで出してくれた。店の少し手前で止まり降り立つ。馬車を見送って、アンは表から堂々と乗り込んだ。
まだ開店前で、中には一人の従業員が椅子に座り込み酒を呷っていた。細身の中年の女性で、建物の中でも白い顔をしているのがハッキリ分かった。
「なんだいアンタ。身売りに来たのかい?」
「ここは、伯爵以上の方も利用するのですか?」
「あ?やめときな。玉の輿なんてまず無いよ」
アンは周りを見回した。入り口のカウンターの上には何も置かれておらず、秘密にしたい客に対する配慮が見て取れる。母が紹介するだけあって、雑然としていない、おそらくはそれなりの身分の人にも対応出来るような所なのだろう。
「侯爵の方も来られるのですか?もしかして王さまも?」
「さてね。来てるかもしれないね」
「この館の主人と話がしたいのですが」
「身売りに来たのなら、会わせられるよ。アンタは器量が良いし、姿勢も言葉遣いも上品だ。でもね、耐えられるとは思えないね。止めときな。身体を売らなくていい酒場を紹介してあげるから、そっちに行きな」
思わぬ優しい言葉をかけられて、アンは少し困ってしまった。自分に近しい人たちから散々心無い言葉を浴びせられてきたのに、まさか会ったばかりの赤の他人から気遣われるなんて。やはり人間というのは階級だけでは推し量れない、本物を感じることに貴賤など関係ないのだ。
だからアンはこの人を信用してみることにした。
「実は、身売りではないのです」
「はぁ…そうかい」
「情報を買っていただきたいのです」
従業員はまた酒を呷る。酒瓶を置くと、カウンターから乗り出して顔を近づけてきた。酒のニオイが漂って、アンは少しむせた。
「こんな所に来るんだ。それなりの情報じゃないと買わないよ」
「王家の財政に関すること、とだけは言えます。伯爵以上の方に売っていただきたいのです。出来れば王に近しい方」
「そりゃなんで?」
「お答えできません」
情報は流すためにあるもの。アンがしたいのは、その情報を流しているのが自分だと陛下に知ってもらうこと。
やや勿体ぶった言い方が功を奏したのか、従業員はカウンターから出てきた。親指で二階を指差す。
「来な。アタシがこの館の主人だ。上で話を聞こうじゃないか」
「…主人とは知らず、ご無礼しました」
「良い意味として受け取っておくよ」
主人は、にや、と笑ってみせた。陰湿な笑いでなく、男のような明るい笑みだった。
二階には一本の廊下が伸びて左右三つずつ、計六つの扉があった。鉢合わせないためなのか、両側の扉は互い違いになっていた。
一番奥の部屋に入る。ベッドと小さなテーブルが置かれただけの簡素な部屋だった。
女主人は壁にかかったカーテンを開けた。するともう一つ、扉が現れた。そこを開けて中に入るように手招きされる。それなりの秘密が守られるようになっている。アンは密かに驚きながら、部屋に入った。
その部屋も同じような造りだった。ベッドは少し大きいかもしれない。
丸テーブルを挟んで座る。女主人はヒルダと名乗った。
「お前さんの名は?」
と聞かれて、アンはどう言うべきか迷った。ありふれた名前だから素直に言っても構わなかったが、偽名を使っておいた方がいいかもしれない。
「アニーです」
「そ。アニー、ここなら誰にも聞かれない。概要で構わないから情報の内容と、値段を提示しておくれ」
アンは予め用意しておいた紙をテーブルに置いた。折りたたんでいて、中身は見れない。
「この国の借金の額と内訳です。どこにどれだけ借りているかも記載してあります」
「凄いのを持ってきたね。これが本物なら大事になる」
「内容が内容なだけに、新聞社などには売れません。秘密裏に処理してくださるような、陛下の側近の方に売っていただきたいのです」
王家が借金まみれだと民衆に知られでもしたら、反戦に一気に傾くだろう。それだけで事が済めばいいが、熱狂した民衆が王家打倒を掲げるかもしれない。王権が揺らぐようなことになれば、その下にいる貴族たちだけでなく、国自体が存亡の危機に立たされるかもしれない。それはアンの望むところでは無かった。
「本物だという証拠は?」
「その字は、王妃さま自らが記入しました。知る者が見れば本物だと分かるでしょう」
「王妃さまだなんて。それだけでも価値があるよ」
「金額ですが、私は旅費が欲しく、金貨十枚はあると助かるのですが」
女主人は片眉を上げた。
「じゃあそれを最低の金額にしておくよ。その倍は貰えると思うけどね」
「交渉成立でしょうか」
「ああ。情報が売れたら金を渡すから、家を教えておくれ」
「今貰えないでしょうか。住むところもなく無一文なんです」
打ち明けると、女主人は更に目を吊り上げた。怒っているのかもしれない。
「余程の事情持ちと見たけど、あいにく情報は賞味期限が短くてね。買ったはいいものの貰い手がいなかったらウチの大損になっちまう。いくら価値があっても売る相手をそれだけ絞られちゃあ、こちらもそれなりにリスクと手間がかかる。第一、娼館は花を売るのが目的で、情報のやり取りじゃないんだ。悪く思わないでおくれ」
早口で言われたら、世間を知らないアンは、そうかと思うしかない。だが怒っているように見えた女主人の顔は、何やら同情的にも見えた。
「こんな大層な情報一枚持って無一文だなんて。アンタ、何かやらかしたのかい」
「…………」
「まぁ、人それぞれだわな」
ぞんざいに言い切って、女主人は立ち上がった。情報の入った紙切れを胸元にしまうと、にっと、やはり男のような笑みを見せた。
「アンタ、行くあてはあるのかい?」
「いえ。ですが、ある場所に行くつもりです」
「その為の旅費が必要なんだね?」
「そうなります」
うんうん頷いて、女主人は腕を組む。人差し指だけをピン、と立てた。
「じゃあ決まりだ。アンタ、ウチで働きな」
「…いえ、私は」
「ウチに変な客が来るんだよ。ソイツの相手をしておくれよ」
「私は、お役に立てないかと」
「そんなことない。上手いことやってくれるさ」
情報のお金は貰えなさそうで、今度は働き手として勧誘されている。何とか断れないものだろうか。
「そう身構えなさんな。何も床の相手を頼むわけじゃないんだ。変な客って言ったろ?ソイツは本の朗読を頼んでくるんだよ」
「朗読、ですか」
「そ。目を患ってるみたいでね。読書がままならないからって、ウチらみたいなのにわざわざ金を払って読ませてるんだよ。だけどウチらは文字もろくに読めない。下手に読むと怒ってきやがる。その点アンタなら朗読くらい朝飯前だろ。情報が売れるまでの間、三食部屋付きで住まわせてあげるから、ソイツの相手もしてやっておくれよ」
確かに妙な客だ。それに良い話だと思った。直ぐにお金が手に入らないとなった上で、飛びつきたくなる提案だった。
出来れば早く目的の場所へ行きたかったが、幸いまだ猶予はある。金が手に入るまでの間ここでお世話になるのも、やぶさかではなかった。
「願ってもない話ですが、私は本当に娼婦としてはお役に立てません。その方だけのお相手で住まわせてもらうのは心苦しいです」
「良い心がけだね。なら雑事も手伝ってもらおうかね。綺麗なおててが汚れても構わないんならね」
「勿論です」
交渉成立、と女主人は手を伸ばす。握手を求められているのだと気づいて、アンは慌てて手を取った。力強い握手を交わした。
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