偽りの勇者

鷲野ユキ

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第四章

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「設楽さん、いい加減こっちの案件集中してくださいよ。いつまでもボーっとしてないで」
そう諭してきたのは佐々木だった。偉そうに、腕など組みながら彼女のことを見下してくる。せわしない研究棟の一室。職員らは勉強会の準備をしたり、患者の対応に追われたりと皆それなりに忙しそうだった。
見下す、との言い方はフェアではないかもしれない。聡子は彼を見上げながらそう思う。なにせ彼女は椅子に腰掛けていたし、佐々木はその横に立っているのだ。自然、視線は下を見るようにはなる。なるのではあるが、なんだか聡子にはそれが面白くなかった。
「なによ、してるじゃない、こうやってちゃんと」
そう言って聡子は手元の資料をバサバサと佐々木の眼前に振り上げた。介護疲れで連れ合いを殺してしまった老人。この老人は呆けていたのだろうか。それを鑑定する依頼書。
「何時間それめくってるんですか。そんな数枚しかない資料に」
「だって」聡子は不満そうに口を尖らせる。いい年してみっともない、その自覚はあったがつい出てしまった。頭では理解できているが、心が納得していないときにでる子供じみたしぐさだ。直さなきゃ、と思ってはいるが、もうこの年で治らなければ一生無理なのだろうとも思っている。
「だって、これで自覚があれば有罪で、なければ無罪なんてあんまりじゃない」
目の前に出されたそれをめくりつつ、「でも状況証拠はそろってるし、本人も認めてるんでしょう?逆になんで俺らんとこに依頼が来たのかわからないくらいじゃないですか」と佐々木は答えた。
そうなのだ、周りの状況はすべてその老人の犯行を認めていた。本人さえも、だ。
だが。
「このおじいちゃん、子供がいるんだけど。殺しちゃったおばあさんとの子供よ、その子供のことがわからないのよ」
「……呆けてるってことですか?」
「それがわからなくて困ってる。けれど、判断は慎重にやらないと……」
むろん、この老人の残りの人生をどうするかの権限を、すべて聡子が持っているわけではない。あくまでも一参考、決めるのは裁判員らと裁判官だ。聡子の出す答えなど、あくまでピースの一つでしかない。そこまで思い詰めることもないのかもしれない。だが。
「もしかしなくても設楽さん、村上姉妹の事件引きずってるんじゃないですか?」
痛い一言だった。おそらくそうなのだろう、と思う。
「確かに田嶋修一は容疑を頑なに否認してますけど、そんなの。犯人なんてそう簡単に容疑を認めるもんじゃないでしょ。あとは裁判で明らかになりますよ」
つとめて明るい口調で喋っているようだった。佐々木も気にはなっていたのかもしれない、結局明らかにされなかった〈勇者〉の存在を。
「それはそうだけど、でも」
でも、面会した田嶋修一は、本当に犯人だったのかしら?佐々木くん――。
聡子は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。言ってしまってはいけない気がしたからだ。言ってしまったら、すべてが崩れてしまうような気がした。それに、そんなバカなことを思ったのは私だけだろう、彼女はそうも思った。実際一緒に面会した佐々木は「早く自白してくれればいいんですけどね」と言っていたではないか。
半ば意固地になったかのように、再び口を尖らせ押し黙ってしまった聡子に佐々木が何か言いかけようとした時に、けたたましい犬の鳴き声が割って入った。キャンキャン、ワウワウ!場違いな喧騒があたりを包む。
「うわ、部長またあの犬つれてきたんすか」
佐々木がげんなりしたように肩を落とす。と言うかここそもそもペット禁止なんですけど、なにせ病院だし。そう続ける佐々木は、なるほど病院らしく白衣を着ていた。これから患者の受診でもするのだろう、久しぶりに見るその姿に違和感を覚えたのは、刑事と言われてはしゃいでいた彼の姿を覚えていたからかもしれなかった。
「おお、みんなお疲れさん。ほら我が第二研究室のアイドルのお帰りだぞ」
ちっともアイドルには見えない、獰猛にわめくチワワを連れて彼はひどくご機嫌だった。
チワワって、あんなに歯をむき出して唸るものなのね。てっきりかわいらしい生き物なのだと思ってたけれど。
白衣に毛でもつけられたらたまらない、と退散した佐々木を見送りながら、聡子はそんなことをぼんやりと思った。けれどいくら可愛くても獣は獣だ。何か不快なことや、怯え怒った時には牙をむくことだってあるのだろう、そう、たとえば命の危険に際したら。
命の危険?何をあんなに恐れているのだろう、あの犬は。その急な発想に彼女は戸惑った。ここでは誰もあの子をどうこうするわけないのに。現に品川部長はまるで割れ物を抱えるかのように優しく彼(彼女?)を抱きかかえているというのに。
けれどそこで彼女はこの犬の経歴を思い出した。ああそうか、この子はご主人様が人を殺すところを見たのよね。まだそれに怯えているのだと私は思ったのだろう、たぶん。
そのぼんやりした聡子のもとに、品川がランランと、まるでスキップでもせんばかりの雰囲気で近づいてきた。ああしまった、佐々木の奴うまく逃げやがって。聡子は心の中で悪態をつく。仕方があるまい、ここは私が対応するしかないのだろう、けどまあ、現に行き詰っていたのは確かだ、後輩にせっつかれるほどには。ならば気分転換だと思うしか。
「……ご機嫌ですね、部長。なにかいいことでも?」
もれるため息に気取られないよう、ぎこちなく笑みを浮かべて聡子は品川に聞いた。誰が見ても下手な演技だった。それで彼を騙せるはずなどないのだが、それさえも気づかぬほど良い気分だったのだろうか品川がニコニコしながら語りだした。
「ああ、この子の飼い主な。まんまとゲロッたんだわ、真実を」
「真実?ああ、この子に本当のことを話すかもしれないって言うアレですか?」
そう言えば品川は、心神喪失状態の容疑者の病室にこの子を返して、監視カメラで動向を伺うのだと言っていた。ではそれがうまく行ったのだろうか。ここまで上手に周りを欺いてきた容疑者が、犬相手についにボロをだしたとでも?
「おう、見事に大当たりよ。犯行の動機から準備、隠ぺいの方法、はやく保護観察処分で家に帰ろうだの、全部な」
「犬相手に?」
「そうだ。結局あの女にとって、殺しちまった恋人もその辺の他人も同じだったのかもしれんな。犬ころにしか心を開けず、恋人に対してはなぜ自分をわかってくれないのだと一方的な理由でメッタ刺しだ。しかもなぜあんな残虐な方法を取ったかわかるか?」
「いえ、……けれど愛と憎しみは表裏一体ですから、愛ゆえにではないかと」
自分はこんなに愛しているのに、なぜ相手は私のことを愛してくれないのだ。いわゆるストーカーなどに多い殺人の理由だ。自分勝手な独りよがりの愛。
自分がすることは良いことだと彼らは思っている。だから往々にして、それを受け入れない相手への憎しみも大きくなる。たとえば村上慧の母が、田嶋吾郎に虐殺されたように。
「それなんだがな。あれだけメッタ刺し……詳しくは言わなかったけどな、お前も現場見て弱ってたから。とにかくあれはひどかった。俺は写真で見ただけだが……局部は原型もないほどに切り刻まれていたし、あれが蜂の巣ってやつなのかね、銃で撃たれた訳でもないのに内蔵が飛び出るくらいに腹を刺されていて、さらには好きだったはずの相手の顔だ、そこもザクザクとまあ、目玉なんかこう」
「もう結構です」撒き散る赤を思い出してしまった聡子が思わず制止の声を上げた。確かにそれはひどい、あんまりだろう。話を聞いただけでそう思った。村上茜もひどい殺され方をしたけれど、それにも劣らぬ凄惨さがあった。
「ああ、すまん。で、なぜそこまでしたかって言うと、そんなことする人間がまともなはずがない、セイシンサクランジョウタイだったんだと言えば認めてもらえると思ったからだそうだ。実によく調べていたようだ。足がつかないよう、借出しせずに図書館内で勉強していたらしい、裏も取れたそうだ」
確かに、常軌を逸した行為だ。あれほどのことをする人間が、自分らと同じ人間のはずがない。そうだこいつはおかしいんだ、異常者だ。そう思う方が自然なのかもしれない。
けれどそれさえも視野に入れて犯行に及んだ彼女の理路整然とした冷静さの方が、聡子にはおかしいと思えてならなかった。彼女こそ本物の心神喪失状態の、精神病者なのではないだろうか、とも。
「まあ確かにな、普通の人間はあんなことせんよ。その点では彼女は普通じゃない、保護観察が適用されてもおかしくないが、しかし彼女には責任能力がある。自分が何をしたのかわかって、しかも意図的にそれを行ってるんだからな。刑罰は避けられんだろう。その罪がどのくらい重いかを決めるのは俺たちじゃあないが」
怖かったでちゅねぇ。そうつぶやきながら品川がチワワの頭を撫でて言う。それに少し安心したのだろうか、その小さな犬は、次第に唸り声を収めていった。さすがに慣れてきたらしい。
「とまあ、この俺様を欺こうなんて百年早いんだよ。まったくああいうやつがいるから、精神鑑定なんて罪を逃げる手段だなんて叩かれるんだよ、なあ設楽」
「え、ええ」
責任なければ処罰なし。刑法第39条に則って、聡子らは検察官の依頼をうけ責任能力の有無を判断する。罪に罰を与えたところで、責任能力のない、つまり精神障害者には意味がないとのことで出来た法である。
責任能力がないと判断されたものは、そもそもの訴えを取り下げられるか、裁判になったとしても無罪となる。なるほど無罪になりたい犯罪者には都合のいい法かもしれない。
けれど彼らはわかっているのだろうか。そう処理された段階で、彼らはまっとうな人間としての権利を放棄させられることを。そして罪を償う機会すら奪われてしまうことに。
それは、果たしてヒトと言えるのか。
「犯行を誰かに擦り付けるよりは、自分が演技した方が確実だと踏んだらしい、あの女。まったくたいした女優だよ、普段の彼女は職場でも目立たなくって地味で、そのおとなしい彼女があんな凶行に至ったことに同僚上司皆驚いていた。そのギャップも、詐病に走らせたのかもしれんな」
彼女がそんなことを?信じられない。そう彼らは困惑したのだろう。被害者の家族も彼女がいることは知っていたが、おとなしい子だと言われていたので驚いたらしい。もちろん、実際彼女に会ったことのある被害者の友人らも。
けれどこう言う人間もいるかもしれない。普段おとなしいやつほど、なにをするかわからないじゃないですか。ふと、竹のように痩せ細った、冴えない中年男性の顔が浮かんだ。誰だったかしら、名刺をもらった気がする。
一通りことの顛末を誰かに話せたことに満足したらしい、品川はチワワをゲージにいれてどこかへ行くところだった。たばこでも吸いに行くのだろう。
デスクに残された聡子は、鞄の中からその誰かの名刺を探し出す。あった。竹内。村上慧の通う学校の教頭。クマの置物がおかれた応接間。そこでの会話を思い出す。
そう言ってきた相手に、私はなんと答えた?「けれど村上くんには、お姉さんを殺す動機がありません」
――本当にそうなのだろうか。二人きりの苦しい生活。思うところがなにもないことはあるまい。ささいな苛立ちでも、閉鎖された関係のなかでそれはあっという間に膨張することがある。
あるいは。それこそ自分達が普段相手をしている彼らと、村上慧は同じなのだとしたら?
そんなバカな。聡子はゆるゆると頭をふった。あの子は確かに過去の事件によるPTSDを持ってはいるけれど、けれどわけもわからず人を殺すような心神喪失者ではないと判断したのは他ならぬ自分ではないか。それに誰よりも彼女の死を嘆いていた。身体から切り離された、生首を抱き抱えるほどに。
あんなこと――自分にできるだろうか。そう思ったのは確かだ。けれど愛ゆえに出来たことのだろう、その時の自分はそう納得した。だが、愛と憎しみが紙一重だと言ったのも自分だ。行きすぎた愛は憎しみに変わる、だから。
いや、やめよう。すべて妄想に過ぎないのだ。彼が犯人のわけがない。現に警察は田嶋修一が犯人だと起訴するのに必死だ。田嶋修一にはあからさまな動機がある、けれど村上慧にはそれがない。修一にはアリバイもない。だが、それは慧も一緒だ。なにより、彼が学校に行った後にジョギングから帰ってきた彼女が殺されるだなんて、そんな都合のよい展開があるのだろうか。死亡推定時刻は、彼が家にいただろう時間も含んでいるのに。
けれどそれでも彼がやったのではないと思ったのだ。だって、経済的に支えてくれていた姉を殺す必要などないだろう、まして、あんな悲惨な過去から抜け出そうともがいていた唯一の姉弟が。
いや……彼がやったからこそ、勇者が現れたのではないだろうか。そう思えば辻褄が合わなくもない。なぜ彼がそんなことをしたのかはわからない、けれど姉を殺すに至ってしまった。しかも、あんなむごい殺し方を。自分はなんてことをしてしまったのだろう、違う、これは俺がやったんじゃない、俺じゃない、〈勇者〉、そうだ勇者だ。人を殺せる〈自称勇者〉なるものがいるのなら、そいつがやったのかもしれない。そうだ、だってこの姉には殺される理由があったのだから。
その理由ゆえに、彼は姉を殺したと?
我ながら突飛な発想だとは思った。あのお姉さんがいったい何をしたっていうのよ。不倫?考えられるのなんてそれくらいだった。
けれどそれだけでそんなことするかしら。まさかあの二人は姉弟でありながら、恋愛関係にあったとでも?だから殺害された時、姉は裸だった――。それはありえない。少なくとも肉体関係はないはずだった。検死結果は不倫相手を容疑者に押し上げただけだった。じゃあ他には?他に聡子が知り得る二人の情報は、過去の両親の事件ぐらいだった。
過去の事件。異様に犯人である田嶋吾郎に怯えていた慧の顔が浮かぶ。あのときは、事件を思い出して怖いのだろう、親を殺した犯人がトラウマとなってフラッシュバックしているのだろう、そう思っていた。けれど――。
聡子の頭は最悪のシナリオを勝手に描いていく。けれど、本当は田嶋吾郎は犯人ではなかったのだとしたら。前に品川が教えてくれた、あの事件のあらましが脳に響く。村上姉弟の目撃情報が決め手だったのではなかったか。だって、12才と7才の子どもが、そんな恐ろしいことをするだろうか。するわけがないだろう。
『こんな子どもがあんな恐ろしいことをするわけない!体力的にも不可能だ、四肢をバラバラにし、火を放つなど』
なんならそう叫ぶ弁護人の声も聞こえてくるようだった。そうだ、そんなことするはずない。普通に考えればそうだろう。だが、本当に不可能だったのか?
彼女は引き出しの奥にしまいこんだ、過去の資料をあわてて引きすりだした。
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