偽りの勇者

鷲野ユキ

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第二章

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高校の制服。血で汚れてしまったその黒い襟詰めは、親切な誰かがクリーニングに出してしまったのだろうか。
だがよくあるただの制服だ。校章以外に変化のないその黒い服。とにかく黒ければなんだっていいのだろう、喪服なんて。
その誰かが用意した黒の学生服を身にまとい、彼は唯一の肉親をを見送った。
そうして再びここに戻ってきた。世の中からすれば事件現場、けれども彼にとっては唯一の家に。
その着慣れぬ制服の、やたらとピカピカと光るボタンを無意識にだろうか、いじりながら慧は彼女に問いかけた。
「刑事さん、これから俺はどうしたらいいんでしょうか」

そう急に問われ、傍に佇んでいた設楽聡子は、整った彼の顔を思わずまじまじと見つめてしまった。利発そうな顔立ちだわ、亡くなったお姉さんにそっくりね。いや、そういうことじゃない。今なんて?
その行為を、今のセリフを聞き返したのだと思ったのだろう。彼は再度同じ言葉を口から放った。「刑事さん、これから俺はどうすれば?」と。
その言葉に二、三度まばたきをしてから彼女は答えた。そうよ、この場で「刑事」って言ったら私しかいないじゃない。いるのは彼と私だけ。他に誰が?
「え、ああ。そうね。未成年のあなたは本来、保護者のもとに戻るのが一番なのだけど」
「保護者……」
かつて姉であったものを抱き抱え、慧は言い淀んだ。保護者。さすがに両親に先立たれ、姉と二人暮らしをしていたからといって、彼とてまるっきりの天涯孤独というわけでもない。
彼が病院に押し込まれている間に、慧も顔を覚えていないほどの遠い親戚を警察は見つけたらしい。さして関わりのない身内の葬式の手配だけは、その遠い親族とやらが渋々やってくれたようだった。
当然、費用まで持ってもらえるはずもない。だから葬儀は彼女の貯金を切り崩して行われた。まさか彼女だって自分が一生懸命稼いだ金で、自身を燃やすことになるとは夢にも思っていなかっただろう。
そんなほとんど所縁のない、もはや他人と言っても差支えないところにこれから身を寄せなければならないのかと思うと、慧の気はひどく重かった。
「もしくは成人するまで施設に入るか、あるいは一人で暮らしていくか」
「一人で……」
その方が気は楽だ。施設は嫌だな、けれど子どもではないが大人でもない未成年の自分が、果たして一人でやっていけるのだろうか。そんな慧の意を汲んだかのように、慧の脇に立つ女の人が答える。
あの時にいた女の人だ、あの時の。慧の脳に赤が侵食する。だめだ、やめろ。あんな姉の姿など思い出したくもない。彼は固く目をつぶり、そして少し冷静さを取り戻した頭で考える。
そう、あんな場所にいたのだから、やはりこの人は刑事なのだろう。ベージュのコートに白いシャツ、黒のパンツ。芯の強そうな大人の女性。ドラマで見た女刑事そのものじゃないか。その彼女がこう続けた。
「一人で生きるのは大変よ。何かに寄りかかってもいいんじゃないかしら。少なくとも成人するまで。施設だって、まあそう悪いところじゃないわよ。なにより、お金がかからない」
淡々と答えるその女刑事に慧は反感を覚えたが、けれどもそれが現実的なのだろうとも考えた。だとしても、どうしたら良いのかさっぱり慧にはわからない。だから悔しいけれど、こう答えるほかなかった。
「俺は……正直今まで姉に頼ってばかりだったから、茜姉が突然こんな形でいなくなっちゃって、どうしたらいいのかわからなくなくて」
そう弱々しくつぶやきながら、彼は彼女の写真に目を向ける。
そんな、不安で翳る慧の姿はひどく所在無げだった。まるでおざなりに活けられた花のように。仏壇など用意できるはずもない。立てかけられた遺影のそばに、白い花たちが花瓶の中に無造作に放り込まれているだけだった。
彼の視線を追って、目が合った故人に手を合わせながら彼女は思った。それもそうだろう。親もなく唯一の姉に、こんな形で先立たれてしまって。どうしたらいいのかなんてわからないに決まってる。そう、こんな状態になってしまうほどに。
彼女――設楽聡子の両親は健在で、茨城の実家では兄夫婦がその面倒を見てくれていた。おかげで彼女はこうして仕事に熱中することが出来ており、彼らにはいたく感謝している。兄とはこの姉弟ほど仲が良いわけではないけれど、それでも急にみんないなくなってしまったらどんな気分だろうか。聡子は考える。相当な喪失感を覚えるに違いない。きっと、想像する以上の。
そんな彼のもとになぜ自分がいるのだろう。彼女は自分でも疑問であったが、そう判断した本部にも何かしら理由はあるのだろう。少なくとも彼には聡子のような人間が必要かわからなかったが、けれど乗りかかった船だ。彼女はそう思っていた。
姉の遺影をぼんやりと眺めながら、さてこれからどうするべきか、慧はうまく働かない頭で考えていた。抱えた骨壺をそっとその傍に置きながら、写真の姉を見つめる。
不自然にトリミングされた笑顔の彼女。あれはいつの写真だろうか。今より髪が長いから、もしかしたら社会人になり始めのころのものかもしれない。
髪が長いと乾かすのに時間がかかって大変なのよね。
そう言ってバッサリ長い髪を切ってしまったのは、仕事が忙しくて帰らない日が増えた頃合いだろうか。
もともとは小さな画像を引き延ばしたのだろう、画像の荒いその写真はケータイで撮ったもののようだった。誰かに撮ってもらったのだろうか。姉はわざわざ自撮りするようなキャラでもなかったし。
じゃあ相手はいまだ見ぬ「カレシ」だろうか。そういやそんなやつ、葬儀の時にいただろうか?

葬式、というよりは遺体の処理だった。
予算も限られ、事情も事情だ。通夜などもなく、単に燃やして骨にするための儀式だった。
念のため祟られると怖いから、供養もしておこうか、くらいの。
それならいっそ供養などしなければ、姉が幽霊になって勇者に憑りついてでもくれただろうか。
そんなものだったから、カレシが呼ばれなかったのも無理はなかったかもしれない。なにせ手配したのは、彼らのことなどろくに知らないほぼ他人だ。
けれど自分がしっかり喪主を全うしていたところで、慧が「カレシ」を呼んでいたかどうかは怪しい。だって慧は、彼についてなにも知らないのだから。
慧がそんな一連の流れのなかで唯一覚えていたのは、無理矢理に生前の姿に似せようとしたパズルみたいな遺体の姿かたちや、がらんとした寺の肌寒さなどでもなく、ましてや彼女に仰々しく与えられた戒名でもなくて、燃やされすっかり軽くなった、真っ白な遺骨ぐらいだった。
ああ、人間がその皮のなかに大切に隠し持っていたものが、これだというのか。なるほど真っ白で綺麗だ。彼は故郷に積もる雪を思い出してそれを手に取った。
その手が白く汚れる。そこに雪のような儚さなどはない。
なんだ、こんなのただのカルシウムの塊だ。
そこでようやく彼は現実に直面した。唯一の家族である姉がただの元素に成り果ててしまった今、これから俺はどうやって生きて行けばいいのだろう。
この身体には大切なものなどなにも隠されていないと知ってしまった今、もはやそれを抱えて生き延びることに何の意味も見いだせなかったが、けれど身体は生きろと空腹を訴えてくる。
そうだ、食うための金は?寝るための場所は?俺はまだここにいていいのだろうか。
いや、人死の出た部屋など好き好んで借りるものなどいなかろう。ならば自分がここに残った方が大家には都合がいいのだろうか。だけどそれだって金がいるだろう、金が。
学生の俺がどうやってこれからやって行けばいい?そもそも学校に通えるのだろうか。それに勇者に復讐するにも、こちらが死んでしまったら元も子もない。そこで聡子に付き添われ帰ってきた頃合いに、ようやく彼は彼女に口を開いたのだった。
これから俺はどうすればいいんでしょうか、と。
この重大な問いに、どう答えたものかと聡子は頭をめぐらした。
どうすればいい?
そんなの決まってる。彼は、どうすることもできないのだ。
未成年の、しかも今のような状態の彼が。けれどそうストレートに伝えるわけにもいくまい。
しばらく逡巡した後、聡子はこう唇を開いた。
「決めるのはあくまでもあなた自身だけど――」
あくまでも判断はあなたに委ねていますよ。押し付けはよくない。やんわりと聡子はそう前置いてから、
「あなたのつらい気持ちは、赤の他人の私でも手に取るようにわかる。ひどく苦しいんだろうって、思う。けれどあなたにはあなたの人生があるのだから、あまり悲しい過去に引きずられてしまうのも、よくないと思う」
と彼の目を見据えてこう言った。
「それは――」
思わず目をそらす慧だったが、それでも彼女はこう続ける。
もうひと押し。けれどここで焦ってはいけない。
「あなたの楽しい思い出がたくさん詰まった家なのかもしれない。けれど同時に、その楽しい思い出を上回る悲しみが襲った場所でもある。今の状態のあなたが、そんな場所に戻るのは難しいと思うわ」
「それは、家を出て施設に入れってことですか?」
キッと彼は聡子を睨み、寒々しい室内を見渡した。
しまった、失敗したかしら。聡子は内心の動揺を見透かされまいと、気持ちを落ち着かせることに専念する。ともかくは相手の気持ちに同調してあげること。基本中の基本。一番最初に習ったことじゃないの。
「もちろんこんなのは他人の一般論よ。けれど一般論はある意味普遍的正論でもある。あなたがそこに居続けたいのなら、そう思う気持ちを私に教えてもらえないかしら」
その彼女の提案に、彼は急に視線を弱め、さまよわせた。言おうか言わぬべきか迷うかのように。彼は今、疲れた精神なりに考えている。そんな状態で考えたって、ろくな答えなど出せやしないのに。
けれどここで急かすようなことはしてはいけない。辛抱強く聡子が待っていると、やがて慧は力なく囁いた。
「だって俺は……勇者を……〈真の勇者〉に復讐しないといけないんです、だから」
握るこぶしが白くなる。歯を食いしばる音が今にも聞こえそうだ。彼は本心からそう言っているように聡子には見えた。
けれど彼は今なんて?なんと言った?
「勇者?」
思わず聡子はオウム返しに聞き返してしまった。
だって、勇者だなんて。確かに彼はそう言ったのかしら?
「刑事さんの方が詳しいんじゃないですか。勇者。警視庁に所属してるんでしょう?初めて知った時はびっくりしました。警視庁勇者課だなんて。なにかの冗談だと思った」
「それは……」
「業務上、彼らに関する個人情報を俺に公言できないのは理解しています。だって、正体がバレないように気をつけてるんでしょう?彼らの言う『正義』を執行するために」
言葉を濁した聡子の態度を、彼はそう捉えたらしい。まるで何かに憑りつかれたかのように、今まであまり開かれることのなかったその唇を饒舌に動かし始めた。
「何が正義なんでしょうか。俺、ぜんぜんわかりません。だって、なんでよりによって姉が勇者に殺されなきゃならないんですか?いったい何の罪を犯したって言うんです!誰も姉が殺された理由を明らかにしやしない。もちろん警察だってそうだ。刑事さんだって、どうせ聞いたところで答えてなんてくれないんでしょう?けれど俺は見たんだ、茜姉が刀で切り裂かれて殺されてたのを!あんな傷口、普通の包丁で切ったって出来やしない。アイツがやったんだ、あの〈真の勇者〉が。刀を振りかぶって、魔物を倒すみたいに姉を殺したんだ。あんな身体をバラバラにまでして。なぜ?勇者のすることはすべて正しいから?勇者がそう判断すればなんでも正しいんですか?」
今までの魂を抜かれたかのような表情から一転、彼はまるで聡子自身をも憎き相手かのごとくに睨めつけた。その視線に聡子は思わずたじろいだが、ここでこの子を突き放してはいけない。そう思う彼女の仕事への忠誠心が勝り、かろうじて彼女はこう口を開いた。
「じゃああなたは、お姉さんを殺した犯人である〈勇者〉に復讐するために、家に留まりたいっていうのね?」
「ええ、そうです。ここなら……もしかしたらこのあたりが〈真の勇者〉の管轄なのかもしれない。だって俺は見たんだ、あの公園で、勇者がレイプ犯を殺すのを。またこの付近で犯罪が起これば、アイツが現れるかもしれない。そしたら、俺はアイツの化けの皮を剥いでやる」
「その……〈勇者〉というのは、最近ニュースでやってる〈自称勇者〉ではなくって?」
この急な展開についていけなくなった聡子が、思いついたことをふと述べる。だって勇者が意味のない殺人など行うわけがないじゃない。それならば考えられるのは、最近世間をにぎわせている〈自称勇者〉だ。アイツなら理由もなく人を殺したっておかしくはない。
だってそういうやつじゃないの。殺した人間の身体をバラバラにするだなんて、正気の沙汰じゃない。いや、犯罪者には犯罪者なりの理由なりルールがあることを彼女は知って理解はしていたけれど、だからといって共感できるかは別だ。
「〈自称勇者〉……ああ、バラバラ殺人の?」
「そう、遺体の一部が見つかった川は隣の県境を流れている川だし、そいつがこっち側に逃げ込んできたのかもしれない。それでたまたま、あなたの家に侵入し、運悪く居合わせたお姉さんを殺してしまった。しかも似たような手口で」
言うなれば無差別猟奇事件だ。さぞかし今、テレビではこのニュースで騒いでいるに違いない。
「それはないと思います」
けれど聡子の推理を、あっけなく慧は却下した。「だって、あなた方警察が誰よりもご存じでしょう」と。
「警察が?」
「ええ、あなただってあの場にいたじゃないですか。聞きませんでしたか?撤退する刑事の一人が『被疑者死亡にて書類送検』って本部に連絡してたのを」
そうだったかしら。聡子は必死に記憶を辿ろうとする。だがまるで霞がかかったのかのように明瞭に思い出せない。なぜなら自分も動揺していたからだ。その自覚だけはあった。もともと、事件現場なんて聡子の管轄外だ。その上、損壊の激しい死体を直視してしまってひどく気分が悪かった。慣れぬ腐臭に吐いてしまったほどに。
こんなひどいことをするのが同じ人間だなんて。そう思ったら聡子は自分の仕事に自信がなくなってしまった。自分が相手しているのは本当に同じ人間なのだろうか。いや、人間でないからこそ、罪を免れる場合もあるのかもしれない。殺人を犯したのはヒトではなくてケモノです。ですからヒトの法は適用されません。そんなバカな。
そんなことを考えていたら、さらに気持ちが悪くなってしまった。だから彼女は大人しく、彼のもとに佇んでいた。
慧のそばに佇んでいたのは、実はこれ以上死んだ人間を見たくないという気持ちがそうさせたに過ぎない。もちろん、こんな残酷で刺激的なものなどこの子に見せるべきではない、と大人の判断も動いたのだと思いたいが。
「ごめんなさい、あまり覚えていないの」
彼女はそう答えるしかできなかった。戻ったら彼らに事のあらましをもう一度確認したほうが良いだろう。〈勇者〉についても。
「そう、ですか」
落胆したかのように、慧が肩を落とした。
「失望した?」
「正直。勇者についてなら、警察に聞くのが一番手っ取り早いと思ったから」
「お役に立てずごめんなさい」
「でもそうですよね、警視庁の刑事さんが、警視庁勇者課の勇者について話してくれるなんて、そんな都合のいい話ないだろうし。だってあなた方から見れば俺の姉は罪人なんでしょう?なんの罪を犯したのかは明らかにしてくれないけど」
あきらめたような、けれど怒りを隠し切れない声で彼はそう言った。
彼の姉が何者かによって殺されたのは事実だ。けれどなぜ彼は、その犯人をよりによって勇者だなどと思っているのだろう。
彼は以前、公園でレイプ犯を刀で殺した〈真の勇者〉を見たと言っていた。
それは本物なのだろうか。〈自称勇者〉ではなくて?姉の傷口がまるで刀に切られたようだったから。それに警察は姉を被疑者扱いしていたと。
だから〈真の勇者〉が犯人なんでしょう?彼はそう思っている。なぜ?
今の聡子の持ち得る情報では理解することは難しかった。けれどいかに今の彼がこのような状態とはいえ、検証する余地はあるだろう。そのために聡子は呼ばれたのだし。
ともかくは彼について知らなければなるまい。そこからだ、この事件を解決するのは。
だから聡子は一度態勢を立て直すことにした。今の私じゃ彼の味方にはなりえない。
それ以前に、彼には敵に見えているようだ、憎き勇者を擁護する警察の一員だと思われているのだから。そんな状態の私に心を開くはずもない。それでは私が呼ばれた意味がない。私は、どう動くべき?
「……なぜ私が、あなたのもとに来たかわかる?」
そんななぞかけのような聡子のセリフに、慧の心が少し動いたようだった。え?声にならないほどのかすかなささやきが彼の口から洩れるのを、彼女は聞き逃さなかった。
「あまり大きな声では言えないけれど、警察の中にもね、あまり勇者のことを良く思わない人間がいるの」
「そんな人、いるんですか?」
だって勇者は絶対で、犯罪率を下げて世の中を平和にしてくれる正義のヒーローなんでしょう?彼ののど元までその言葉が浮かんできたが、それを放つことはできなかった。いや、何が正義のヒーローだ。正義のヒーローが罪のない人間を殺したりするものか。
それならば。慧のように、そう思うまともな人間が警察にもいるというのだろうか。盲目的に従うのではなく、正義とは何かを自身に問いかけられる立派な大人が。
「私も本当の犯人を知りたいのよ。なぜあなたのお姉さんが殺されなければならなかったのか」
「だから、犯人もなにも、姉は〈真の勇者〉に殺された――」
「証拠はあるの?今までのあなたの話はすべて憶測でしかないわ。なら私が推理した、〈自称勇者〉による犯行だって成り立つじゃないの」
「だってあんたたち警察が言ってたじゃないか、『被疑者死亡』って。あなたもあの場にいたのに!」
「それは……ごめんなさい。けれど事実関係を確認することは出来るわ。本当にそういうやり取りがあったのか」
「そうですか。それは是非……確認をお願いします。俺は知りたいんだ、なんで勇者が姉を殺したのかを。そしてあいつの罪を罰してやりたい。だって姉は何もしていないのに」
「わかったわ。調べるのは私に任せて、あなたはとにかく一度休んだ方がいいわ」
今日はこのくらいが限界だろう、そう聡子は判断した。一度にあまり思い出させてはいけない。記憶が余計に混乱するだけだ。
「じゃあまた明日」
そう言って彼女は部屋を後にした。白々とした部屋に、慧だけが取り残される。
扉のしまる音を聞きながら、慧はぼんやりと時計を見上げた。チクタクという時を刻む音が耳に入る。
あれ、あの時計止まってたんじゃなかったっけ。時を止めていた時計は元気よく動いていた。
もしかしたら、今の刑事さんが気を効かせて電池を入れ換えてくれたのかもしれない。
さすがに洗濯機までは買い換えてくれないよな、どうしよう。
結局茜姉には言いそびれてしまった。いやそれを伝えていたからと言って、何かが変わっていたとも思えなかったけれど。
けれどそんなことより、色々あって疲れたのは確かだ。メール、返さなきゃ。何通か来ていた気がする。あれ、俺スマホどこにやったっけ。だめだなあ、いつもすぐに無くして。探さなきゃ。
でも身体がひどく重い。水を吸った服を着せられたかのような、気持ち悪い重さだ。
メールなんかの前に、ともかく着替えなきゃ、いや、機械的に俺はいつの間にか着替えていたらしい。無意識の産物。身にまとった白い寝間着。
こんなのこの家にあったかな。いや、あったような気もする。つい横着してスウェットばかり着てたけど、そういえばタンスの奥に仕舞い込まれていたじゃないか。白いパジャマ。姉が買ってきてくれたのだったか。そんなことも忘れてしまうだなんて。
ああもうだめだ、もう今日は寝てしまおう。そうすれば自動的に、時間が明日を連れてきてくれることを俺は知っている。
願わくはその明日が、かつて過ごしてきた日常でありますように。
そう慧は願わずにはいられなかった。せめてその平和な日々が夢で見られますように、とも。
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