1964年の魔法使い

鷲野ユキ

文字の大きさ
上 下
10 / 101

1964.8.9 中野 2

しおりを挟む
 扉を開くと、「おやおや、まあまあ」と愛嬌のある老婆が出迎えてくれた。前歯が一本欠けたこの婆さんに栄二は見覚えがあった。
「ツネ婆さんか?」
「おや、その憎たらしい声は栄二だね?まったく、今でこそアタシゃババアだけどね、あんたたちがここに来たころは花も恥じらう乙女だったんだよ」
「なにが乙女だ、俺たちが着た頃からツネ婆はツネ婆だっただろ」
 鼻で笑いながら、老婆を指さすのは矢野だった。
「そのえらそうな口の利き方は正志だね、で、ええと……」
 そこまでかつての子供らを特定してきたツネ婆が言葉に詰まる。じっと向けられた視線に困って、ぼさぼさ頭が答えた。
「僕は英紀です。菅野英紀」
「ああ、そうだった、そうだった。いつも机にかじりついてた英紀だね。ダメだねぇ最近物忘れがひどくって。さ、寮長がお待ちだよ、食堂においで」
 一人だけ名前を思い出せなかったのが気まずかったのか、ツネ婆はくるりと背を向けると栄二らを奥の食堂へと案内した。これから子供たちは食事なのだろう、扇風機が生ぬるい空気をかき回している厨房では、おばさんたちが汗だくになりながら昼食の準備をしていた。
「なんだか、お忙しい時間に来てしまってすみません」
 記憶の中のものより小さいテーブルに案内されると、氷の入った水をツネ婆が出してくれた。それに菅野が恐縮して礼を述べる間に、矢野はあっという間にコップの中身を飲み干したくせに文句を垂れる。
「ツネ婆、ケチくさいな。水しか出ないのかよ」
「お前は大人になってもそれじゃあやってけないよ。少しは英紀を見習ったらどうだい」
「そうだぜ。ツネ婆知ってるか?こいつ、電機メーカーで働いてんだぜ」
 まるで自分のことかのように栄二が自慢すると、「おやおや、そりゃあえらいねぇ」と歯の欠けた口を開いてツネ婆が笑った。突然称賛されて、テーブルで身を固くする菅野の姿が見えた。相変わらず相手が誰であろうと、褒められるのは苦手らしい。
「けれどお前もなんだかずいぶんときれいな格好じゃあないか。栄二は何をしてるんだい?」
「俺のことなんかどうでもいいだろ、それより小百合さんはまだなのか?」
 イライラした様子で栄二が胸元のポケットから紺色の煙草の包みを取り出すと、ツネ婆がそれを目ざとく見つけ、栄二の頭をはたいた。
「痛てっ」
「こら、こんなとこで煙草なんて吸わせないからね。まったく図体がデカくなったら、そんな身体に悪いもんになんか手を出して」
「別に変な薬に手を出したわけじゃないんだ、煙草ぐらいいいだろ」
 そう言いながらも煙草をケースにしまうと、代わりに出された水をぐいと飲んだ。
「ああ、確かにコカ・コーラが恋しいな」
 コップの中の水は冷えていて気持ちが良かったが、ひどく味気なかった。
「まあ、ずいぶんいいご身分だこと。あんたたちが普通に今を謳歌できる若者に育ってくれて、寮長もさぞかし喜んでるだろうよ」
「なんだよ、皮肉か?ツネ婆さん」
「とんでもない!寮長は純粋にそう思ってくれるさ」
「ああ、小百合さんならそう思ってくれるだろうさ。ツネ婆とは違ってね。それより小百合さんはどうしたんだ?」
「おやまあ、昔からあんたはずいぶんと寮長が好きだからねぇ、三井寮長はお忙しいんだ。ここを畳む準備に追われていてね」
 しきりに催促する栄二に、ツネ婆がさみしそうに答えた。
「畳むって……やっぱり本当に、ここを閉めてしまうんですか?」
「だからお前たちを呼んだんだろ。やだねぇ、世の中がお祭り騒ぎに湧いているなかで、ひっそりと消えて行くだなんて」
「でも、ここにいる子供たちはどうするんですか?」
 菅野が思わず席を立った時だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

お飾り公爵夫人の憂鬱

初瀬 叶
恋愛
空は澄み渡った雲1つない快晴。まるで今の私の心のようだわ。空を見上げた私はそう思った。 私の名前はステラ。ステラ・オーネット。夫の名前はディーン・オーネット……いえ、夫だった?と言った方が良いのかしら?だって、その夫だった人はたった今、私の足元に埋葬されようとしているのだから。 やっと!やっと私は自由よ!叫び出したい気分をグッと堪え、私は沈痛な面持ちで、黒い棺を見つめた。 そう自由……自由になるはずだったのに…… ※ 中世ヨーロッパ風ですが、私の頭の中の架空の異世界のお話です ※相変わらずのゆるふわ設定です。細かい事は気にしないよ!という読者の方向けかもしれません ※直接的な描写はありませんが、性的な表現が出てくる可能性があります

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

伝える前に振られてしまった私の恋

メカ喜楽直人
恋愛
母に連れられて行った王妃様とのお茶会の席を、ひとり抜け出したアーリーンは、幼馴染みと友人たちが歓談する場に出くわす。 そこで、ひとりの令息が婚約をしたのだと話し出した。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

私の部屋で兄と不倫相手の女が寝ていた。

ほったげな
恋愛
私が家に帰ってきたら、私の部屋のベッドで兄と不倫相手の女が寝ていた。私は不倫の証拠を見つけ、両親と兄嫁に話すと…?!

処理中です...