丸藤さんは推理したい

鷲野ユキ

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あの子が欲しい

あの子が欲しい-2

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せまい居間の、薄い座布団。
その上にかしこまった様子でちょこんと座ってたのは、かっちりとしたスーツを身にまとったおじさんだった。
もちろん僕はその人に見覚えなどなくて、困惑気味に会釈する。

「紹介するわね、この人は松倉さん」
「はあ、……どうも、初めまして」

アンタも座りなさい、と母に促されて、ちゃぶ台の隅の方に僕は座った。
ばあちゃんは気を使ってかテレビの音量を下げて、僕と同じように肩身をすくめている。

「急に申し訳ありません。私は、益田さんの離婚調停をしていた弁護士でして」

低く響く声で、男の人――松倉さん、が会釈した。
弁護士。確かにスーツの胸元に、ドラマで見たようなバッヂが輝いている。
そう言われれば、妙にかしこまった格好も、きれいに撫でつけられた頭も、いかにもそれっぽい。

「松倉さんには良くしてもらって。おかげで、アイツとは本当にこれでおさらばよ」

勝ち誇ったように言い放って、母親は男の人に冷蔵庫の麦茶を差し出した。
カラン、とコップの中で氷が転がる。それをおいしそうに飲む弁護士の横顔を眺めながら、僕の頭の中で言葉が響いていた。

離婚。そうか。
そうだ、確かに丸藤さんはあの男を追い払ってはくれた。僕たちに二度と近づかないようにしてくれた。

けれど、それだけじゃ駄目だったんだ。本当にまるっきり、縁を切らなければ。それをこの人がやってくれたのか。頑なに、僕らを放そうとしなかったアイツの手から。

「これで法的にも、益田家のみなさんと彼は全くの他人となります。万一彼があなた方に接触しようとするならば、それは刑罰の対象となります」

僕たちが、逃げるようにこっちにやって来たのは、アイツが僕らを手放そうとしなかったからだ。
まっとうに関係を断ち切ることもできず、罪人のように、ただ逃げるしかできなかった。

でもこれで。
母親が嬉しそうに笑っている。
僕らを苦しめた人間から、本当に解放されたのだと。その様子に僕も安堵する。

その一方、なんだか虚しい気もした。なんだ、それじゃあ丸藤さんがいなくても、弁護士がどうにかしてくれたってことじゃないか。
なんでもっと早く、なんとかしてくれなかったんだ。

「まあ、万一あなた方に近づくだなんて、私が許しませんけどね」
力強く言って、松倉さんが笑った。目じりにしわが寄って、堅物の印象がやさしい物へと変わる。

「こっちに戻ってきて、それでもアイツが追って来たから、なんとかしなきゃって思って」
母が、目を伏せて呟いた。今でも足首を掴まれた感覚が残っているのだろうか、不安げに足元のあたりを見つめている。

「でも、警察は当てにならないし、弁護士に相談しようって思って。で、そしたらたまたま担当してくださった松倉さんも、もともと天草の方の人で東京に出て、また戻って来たっていうじゃない」
まるで同じような境遇で、すっかり意気投合したのだと言う。

「それで、ほんなこつ松倉さんには良うしてもらって」
「いえ、すみません。私が勝手にしたことやけんし」

地元の言葉で話す二人は、まるで旧知の仲のようだった。特に母さんの方は、目を細めて、眩しい何かを見るかのように松倉さんに視線を向けている。そりゃあ、母さんにとっては恩人みたいなものだろう。悪い奴を追い払ってくれた、正義の味方みたいな。

でも。あの時僕らを守ってくれたのは、あの神様なのに。

「どうにも、あなた方を放っておけなくて」
やさしい視線を母親に向けて、しんみりしたように弁護士が言った。 
「じつは私も、子供の頃に離婚しましてね」
まあ、あなた方と似たような境遇でして、と彼は呟く。
「だから、なんとなく皆さんに親近感があるのかもしれません」
頭を掻きながら、松倉さんが笑った。

「でも、出会いがあれば別れがあるのは当然のことです。私も、母が離婚したのは正しかったと思います」
だからでしょうか、今こんな仕事をしているのは、と少し誇らしげな様子で彼は言う。
「なんて、私の話はこのくらいで。とりあえず、今日はそのご報告に伺っただけですから、これで」

そう丁寧に頭を下げて、松倉さんが締めくくる。では、と腰を浮かせる弁護士に、
「そうだ、良かったら松倉さん、お昼まだでしょう?」
と母が声を掛けた。
「ねえ、みんなで一緒にどこかに食べに行かない?」
みんな、と言う言葉にアクセントを置いて彼女は言う。
「松倉さんのおかげで、私たちみんな自由になったんだもの。お祝いに何かおいしい物でも食べに行きましょうよ」

「ごめん、わたし友達と遊ぶ約束してて」
とっさに僕の口から、そんな言葉が飛び出た。自分でもびっくりするくらいにきっぱりと。
「お昼、その子と一緒に食べるから」

本当は、そう持ち掛けられただけで本当に約束したわけじゃない。むしろ、断ろうとしてたところだ。なのに、僕の口からは嘘ばかりが飛び出てくる。

「わたし、もう行かなきゃだから」
「あら、そうなの?」
残念そうに、と言うよりは、疑うように目を向けて彼女は呟いた。
いや、そう思うのは僕に後ろめたいことがあるからなんだろうけど。だってそうだろう、今まで友達と遊んでくるなんて、母に言ったことがない。

「そうですよ、皆さん予定がおありでしょう、急に押しかけてしまって、本当にすみませんでした」
席を立つ僕に、松倉さんがほほ笑みかける。申し訳なさそうに、目じりを下げて。
その表情に、僕は息苦しさを覚える。別に、あなたを困らせたかったわけではないのだけれど。

でも、自分でもよくわからないけれど、何かが嫌だった。

「わかったわ、行ってらっしゃい」
松倉さんの態度を見て、母親も諦めたようだった。
「ごめんね、急に」
「ううん、こっちこそ、ごめんなさい」
そう頭を下げて、僕は逃げるように部屋に戻り、スマホを見る。吹き出しはその後増えていなくて、僕は恐る恐る文字を打つ。

『ごめん、ちょっとバタバタしてて』
こちらが無視する形で途切れたLINE。果たして、まだ彼女は相手をしてくれるのだろうか。不安に思いながら家を出、僕は続けた。
『返事遅くなっちゃったけど』

こんな、自分が行くところが無くなったからって。
一緒にどこか行く?
なんて、都合が良すぎやしないだろうか。

結局最後の一文が打てなくて、僕は力なく近くの公園のベンチに背をもたれる。
夏休みの最後の日曜。こうやって、僕は時間を無駄にして。

馬鹿みたいだ。

ピコン。慰めるように、手に握りしめたままのスマホが静かに主張する。恐る恐る僕は画面をタップした。

『うん、全然いいよ。てかこっちから急に誘ったんだし』
『どこ行く?うち、パンケーキ食べたいんだけど』
『ナオ、お昼もう食べちゃった?』

さっきまで鬱陶しかったはずの吹き出しが、妙に嬉しかった。

『ううん、まだ。どこに行けばいい?』
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