丸藤さんは推理したい

鷲野ユキ

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帰る道

帰る道-8

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ガタン、と音が聞こえた気がして目が覚めた。手元の携帯を確認したら、一時近く。隣の布団はまだ空だった。
疲れたため息が壁越しに聞こえる。どうやら母親が帰って来た様だった。

いつもに比べると足音が大きい気がする。もしかしたら、お酒を飲んできたのかもしれない。あんまり疲れた時だとか、嫌なことがあった時。母さんはあまり得意でもないのにお酒を飲んでいた。ビールとか焼酎とか、苦いばっかりで嫌いだって言ってたのに。
僕は寝苦しい部屋のなかで静かに寝返りを打った。コロンと黒い石が胸に当たる。絶対に無くすなと言われたから、とりあえず風呂に入るとき以外は身に着けることにした。
石なんだから当たり前なんだろうけれど、不思議とひんやりとしていて、特に夏の夜には心地いい。それを握りしめて再び目を瞑る。

あまり酔っぱらった母親とは顔を合わせたくない。自分たちのために働いてくれているのに申し訳ない気持ちはあった。それでも、ばあちゃんみたいに帰りを待ちわびる、みたいな気持ちもなかったかもしれない。
だって、そもそもあの人が――。

そう思ったときに、もう一度ガタン、と音がした。さっきよりも大きい音。扉を力ずくで開けたような音だった。どうしたんだろう、母さんはさっき帰って来たばかりだ。一体、誰が扉を開けた?
寝起きの頭でぼんやり疑問を感じたところに、今度は鋭い女の叫び声が響いた。
「きゃあああああああっ!」
そして、バラバラと何かが落ちる音と、重いものが倒れる音。
「母さん?」

普通人はそんなに叫んだりしないものだ。叫ぶときは、誰かに助けを求めているということだ。頭ではそう理解している。けれど深夜に響く金切り声は僕の身をひどく強張らせてしまった。早く起きて、行かないと。けれど身体は嫌だと言っている。
だって。僕は布団の中で身体を縮こまらせる。だって。

怖いのは、僕だってもう嫌だ。

「翔子、どぎゃんした?」
僕がモタモタしている間に、ばあちゃんの声が聞こえた。それに焦って、僕は嫌がる心を鼓舞して、ようやく布団から立ち上がる。
逃げてばかりじゃ駄目だって、あれだけ自分に言い聞かせたのに。
お前が助けなくて、何かあったらどうするんだ。僕の中の僕が言う。もし、なにかよくないものがいるのだとしたら。
何かあったら、お前のせいだ。お前がいるから、こんなことに。

「大丈夫?」
頭に響く声を振り払うように、僕は精いっぱいの大声を出した。けれどそれは思っていたよりだいぶ掠れていて、やっぱり弱々しかった。その声をかき消すかのように、悲鳴が上がる。
「何か……誰かが」

誰かがいるのだ。この寝苦しい夜に、鳥肌が立つのを感じた。何かがいる。それは、扉を押し開けて、この平和であるはずの僕らの家にやってきた。
その何かに足を取られたのか、母親は狭い廊下に這いつくばっていた。逃げるように手を伸ばし、けれど立ち上がることもできず、懸命に這って何かから逃げようとしていた。その行く手を、散乱してしまったバックの中身が邪魔をする。

あけ放たれた玄関の先、蛍光灯が影を作る。その中に、確かに何かがいる。

恐ろしくて、身体が震えた。そいつを直視することもできない。けれどそれはゆっくりと、ああ、暗くたって僕にはわかる、きっとそうだ、ニタニタといやらしい笑みを浮かべて……ずるずると身体を引きずって、その生臭い息を撒き散らかすのだ。
腰を抜かして床を這う母親を助けることもできず、驚いて立ちすくむ祖母に声を掛けることもできず。僕はただ身体を硬直させて、自分の身体を抱きしめるくらいしかできなかった。僕が馬鹿みたいに突っ立っているあいだにも、アイツはずるずるとこちらへ向かってくる。

床を這う母親が僕の足元で体勢を立て直し、立ち上がろうと藻掻く。その腕が、僕の脚を掴んだ。湿った母の手。脚にくさびが打ち込まれたように、僕は動くことすらできない。
彼女は、わざとそうしたのだろうか?僕が逃げないように。
僕をあいつに襲わせるために?

闇のなかから、大蛇のような太いものが伸びてくる。荒い獣のような息遣いが聞こえる。ハアハアとよだれを垂らして、ソイツは僕を狙っている。
「イヤアァァァッ!」
気づけば恐怖のあまり叫んでいた。そうしたからって、化け物が消えるわけでもない。それでも僕が出来るのはそれくらいだった。
誰か助けて!
心の中で思ったのはそんなことだった。無意識にだろうか、貰ったばかりの胡散臭いお守りさえきつく抱きしめて。
ああ、結局誰かを縋るしか、僕は出来ない。お守りだろうがなんだっていい、アイツをどこかにやってくれさえすれば!

「ウグゥッ……!」
まさかその願いが届いたわけでもないだろうけれど、急に黒い影がうめき声をあげてうずくまった。ジジ、と傍観していた蛍光灯がかすかに声を上げる。その音に誘われるように何か虫がやってきて、興味なさそうに怯える僕らと黒い影を覗いて去っていった。
そして、それについていくかのように、忌まわしい影がよろよろと扉の外へと向かっていく。泥の塊のような巨躯を折り曲げて、何か苦痛を誤魔化すかのようにずるずると去っていく。

そしてそれらが消えてなくなって、無機質な光の先に禍々しい血の色を見た気がして、僕は慌てて扉を閉めた。さび付いた扉が断末魔のような悲痛な声を上げて、そしてようやくあたりは静かになった。

夜だというのにどこか遠くでカラスの鳴き声が聞こえた。
もしかしたら夜明けが近いのかもしれない。
時間の流れがひどくめちゃくちゃな気さえした。一瞬のようで、永遠に恐怖が続いていたような気もしていた。

ずるずると扉に背をもたせ、僕は床にへたり込んだ。ひどく汗をかいていた。
あの首にかけたペンダントだけが、ひどく冷ややかだった。
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