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◆無感情、その理由①
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生まれたときから俺は“日下”ではなかった。
“樋口” ――それが元々の俺の名字だ。
「来人、行ってらっしゃい。今日はおやつに来人の好きなシュークリーム作っておくわね」
「やったー! じゃあ、早く帰ってくるね!」
小学三年生で九歳だった俺は、普通の家庭で育つ無邪気な子供だった。
小さいころから俺はよその子と比べると勉強はできるほうで、いつもテストの点数がよく、母親がそれをよろこんでくれるのがなによりうれしかった。
母は普段から明るく笑う人だった。
よく頑張ったねと頭を撫でてくれて、ご褒美としてシュークリームを手作りしてくれる。
俺はそのシュークリームが大好きで、この日の朝もそれを楽しみにしながら登校した。
学校が終わって家に帰ったら最高のおやつが待っている。
急いで洗面所で手を洗い、シュークリームにかぶりつく俺に笑みを向けながら母が紅茶を淹れる。
いつもと同じようにそんなひとときを迎えられると、呑気にそう思っていた。
だけどこの日は違った。家に帰ると、どこもかしこも静まり返っている。
「お母さーん!」
声をあげて呼んでみたけれど、なにも反応が返ってこず、家の中はシンとしたままだ。
母がいない。スーパーに買い物にでも行ったのだろうか。
リビングのソファーに手提げ鞄をポンと放り、母がいつもいるキッチンに足を向けた。
なんとはなしに冷蔵庫を開けると、俺の目当てのソレが白いお皿の上で綺麗に鎮座しているのが目に入る。
約束どおり、母はちゃんと作ってくれていたのだ。
うれしくて思わずそのまま手を伸ばして掴んでしまいたかったが、普段から母にきつく言われている言葉を思い出した。『手を洗ってからよ』と。
それに、いくら母が出かけているからと言って勝手に先に食べたら叱られるのではないだろうか。
少し買い物に出かけたくらいなら、すぐに戻ってくるだろう。
どうせならいつもみたいに温かい紅茶を淹れてもらって、母と話しながら一緒に食べたい。
俺はランドセルと手提げ鞄を自分の部屋に置いたあと、洗面所でていねいに手を洗い、ダイニングテーブルの椅子に座って母を待った。
だけどなかなか母は帰って来なかった。異変に気づいたのは、その数時間後だ。
「来人。なにをしてるんだ、電気がついていないから真っ暗じゃないか」
俺は母の帰りを待っているあいだに眠くなり、ダイニングの椅子に座ったままの状態で寝てしまったようだ。
いつの間にか夜になっていて、仕事から帰ってきた父親が驚いた顔で俺を見る。
「母さんは?」
父に尋ねられたけれど、わからないから無言で首を横に振ってうつむいた。
父がその場であわてて母の携帯番号に電話をかけたが繋がらないようだ。
そのあとバタバタと寝室へ向かった父が、数分後に苦渋の表情をして俺の元に戻ってきた。
「来人、母さんはもういない。これからは父さんとふたりだ」
どうやら出て行く旨を書いた手紙と離婚届を残し、母は身の周りの物を持って家を出て行ったらしい。
父が顔をしかめながら肩を落とす。
ガキの俺が泣いて喚こうが、父はただ深い溜め息を吐くだけだった。
この日の朝、玄関口で笑って学校へ送り出してくれた母の顔を思い出すと、余計に涙が止まらない。
考えてみたら、あの姿が……俺が見た母の最後の姿だ。
俺は冷蔵庫からシュークリームを取り出してラップをめくると、それを両手で掴んで貪りつくように頬張った。
鼻をすすり上げてボロボロと大粒の涙を流し、むせ返しながら。
手も口の周りもカスタードクリームでドロドロになっているけれど、そんなことはお構いなしに口の中に無理やり押し込めた。
泣いているせいか、いつもと味が違う。
いや……違わないのだろう。母が作るものは常に同じ味だから。
―― 俺はこの日を境に、シュークリームを一切口にしなくなった。
生まれたときから俺は“日下”ではなかった。
“樋口” ――それが元々の俺の名字だ。
「来人、行ってらっしゃい。今日はおやつに来人の好きなシュークリーム作っておくわね」
「やったー! じゃあ、早く帰ってくるね!」
小学三年生で九歳だった俺は、普通の家庭で育つ無邪気な子供だった。
小さいころから俺はよその子と比べると勉強はできるほうで、いつもテストの点数がよく、母親がそれをよろこんでくれるのがなによりうれしかった。
母は普段から明るく笑う人だった。
よく頑張ったねと頭を撫でてくれて、ご褒美としてシュークリームを手作りしてくれる。
俺はそのシュークリームが大好きで、この日の朝もそれを楽しみにしながら登校した。
学校が終わって家に帰ったら最高のおやつが待っている。
急いで洗面所で手を洗い、シュークリームにかぶりつく俺に笑みを向けながら母が紅茶を淹れる。
いつもと同じようにそんなひとときを迎えられると、呑気にそう思っていた。
だけどこの日は違った。家に帰ると、どこもかしこも静まり返っている。
「お母さーん!」
声をあげて呼んでみたけれど、なにも反応が返ってこず、家の中はシンとしたままだ。
母がいない。スーパーに買い物にでも行ったのだろうか。
リビングのソファーに手提げ鞄をポンと放り、母がいつもいるキッチンに足を向けた。
なんとはなしに冷蔵庫を開けると、俺の目当てのソレが白いお皿の上で綺麗に鎮座しているのが目に入る。
約束どおり、母はちゃんと作ってくれていたのだ。
うれしくて思わずそのまま手を伸ばして掴んでしまいたかったが、普段から母にきつく言われている言葉を思い出した。『手を洗ってからよ』と。
それに、いくら母が出かけているからと言って勝手に先に食べたら叱られるのではないだろうか。
少し買い物に出かけたくらいなら、すぐに戻ってくるだろう。
どうせならいつもみたいに温かい紅茶を淹れてもらって、母と話しながら一緒に食べたい。
俺はランドセルと手提げ鞄を自分の部屋に置いたあと、洗面所でていねいに手を洗い、ダイニングテーブルの椅子に座って母を待った。
だけどなかなか母は帰って来なかった。異変に気づいたのは、その数時間後だ。
「来人。なにをしてるんだ、電気がついていないから真っ暗じゃないか」
俺は母の帰りを待っているあいだに眠くなり、ダイニングの椅子に座ったままの状態で寝てしまったようだ。
いつの間にか夜になっていて、仕事から帰ってきた父親が驚いた顔で俺を見る。
「母さんは?」
父に尋ねられたけれど、わからないから無言で首を横に振ってうつむいた。
父がその場であわてて母の携帯番号に電話をかけたが繋がらないようだ。
そのあとバタバタと寝室へ向かった父が、数分後に苦渋の表情をして俺の元に戻ってきた。
「来人、母さんはもういない。これからは父さんとふたりだ」
どうやら出て行く旨を書いた手紙と離婚届を残し、母は身の周りの物を持って家を出て行ったらしい。
父が顔をしかめながら肩を落とす。
ガキの俺が泣いて喚こうが、父はただ深い溜め息を吐くだけだった。
この日の朝、玄関口で笑って学校へ送り出してくれた母の顔を思い出すと、余計に涙が止まらない。
考えてみたら、あの姿が……俺が見た母の最後の姿だ。
俺は冷蔵庫からシュークリームを取り出してラップをめくると、それを両手で掴んで貪りつくように頬張った。
鼻をすすり上げてボロボロと大粒の涙を流し、むせ返しながら。
手も口の周りもカスタードクリームでドロドロになっているけれど、そんなことはお構いなしに口の中に無理やり押し込めた。
泣いているせいか、いつもと味が違う。
いや……違わないのだろう。母が作るものは常に同じ味だから。
―― 俺はこの日を境に、シュークリームを一切口にしなくなった。
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