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天文二一年三月三日、織田弾正忠信秀死去。
末盛城にて頓死であった。享年四二。
かねてから病がちではあったとはいえ、あまりに呆気ない死の訪れだった。
嘆き悲しむ土田御前を慰めながら、信勝は静かに涙を流した。
戦場で首討たれたのではないのは、果たして幸福なのか不幸なのか。
暗澹たる思いが胸を覆っていく。父は跡継ぎを聢と定めず逝った。
ひと波乱あるだろう。
いや、必ずある。
母の肩を抱きながら、信勝は冷たい予感に唇を血の出るほどに噛み締めた。
信秀は生前万松寺という寺を建てていた。
葬儀は尾張国中の僧侶を集め、盛大に行った。折から関東に上り下りする旅の修行僧たちも多数参加し、その数は三〇〇人にも及んだという。
実質尾張の大名といえる信秀に相応しい式であった。
信長には四長である林秀貞、平手正秀、青山信昌、内藤勝介らが供として従った。
信勝は、やはり宿老の柴田勝家、佐久間盛重、佐久間信盛、長谷川宗兵衛、山田弥右衛門を供とて従えた。
信勝の従える面々は、嫡男の信長と変わらぬばかりか、もしや勢力は上かもしれない。
もう少し控え目にすれば良かっただろうか。
しかし、自身の配下に恥を掻かせるわけにもいかない。
その加減が、信勝には酷く難しかった。
割と何でも卒なくこなしていると思われがちな信勝だが、その実とても不器用だった。
すべてにおいて当たり障りなくを心掛け、却って失敗することも多い。
今も堅実に努めようとし、却って目立ってしまっている。
いや寧ろ目立っているのは兄信長なのだが、その隣に居る以上、対比されるのは仕方のないことなのであって。
葬儀の席であっても、信長は長束の太刀と脇差を藁縄で巻き、髪は相変わらずの茶筅髷、袴も穿きはしない。
そして胡坐をかいてどっかりと座っている。
うつけ、とは誰が呟いたのか。
対して信勝は折り目正しい肩衣、袴を着用し、礼にかなった作法であった。
そんな風にしか、自分は在れない。
何がうつけか。
その堂々たる振る舞いは、まさしく国を治めるに相応しい風格ではないか。
信勝がそんな風に思って居るなど、この場の誰が知ることができよう。
隣の兄さえ知りはしまい。
正座した膝に手を添えて、静かに睫毛を伏せ、父を悼むその姿は一種清らかで。
誰が見ても、跡目に相応しいのは信勝の方であった。
普通の感性の持ち主であれば、だが。
そんな気配を首筋にジリジリと感じ、信勝はますます暗い思いに捕らわれていく。
視線が痛い。突き刺さる様だ。
足許にぽっかりと穴があいて、そこへ吸い込まれて行くような心持ちだった。
胃の腑がきゅっと掴まれるようで、頭の中がぐらぐらと揺れた。
目には霞がかかっているようだった。暗いのに妙に白っぽい。
読経が、何処か遠い所で響いているように思える。
まるで波の音の様だ。
遠く近く。深く浅く。重なる声の妙なるかな。
これは夢ではないかと。
夢ならば早く醒めると良いと。
愚にもつかぬことを思う不甲斐無さに、我がことながら情けなくて涙が出る。
肩に圧し掛かる重みは、耐えるのがやっとだ。
己の器の小ささが悔しかった。
寺では土田御前、その隣に濃姫。そして大勢の父の妾らや、異母兄弟らが、行儀よく並んで涙している。
小さな子らは、何が起こっているのかよくわからずに、きゃらきゃらと笑い遊んでいて。
それが余計に切なく胸に染みた。
「ご焼香を」
僧侶の言葉に、隣の信長がすっくと立ち上がった。
迷いのない動作だった。
一歩一歩を踏み締めるかの如く。信長は足音高く仏前に向かう。
兄は、どのような表情をしているのだろう。
信勝は顔を上げ、そして次の瞬間、その場の誰もが目を剥いた。
「喝!」
大音声で叫び、信長は父の位牌に抹香を掴み、投げつけたのである。
しんと静まり返ったかと思うと、小波の様に動揺が広がった。
ざわつく場を物ともせず、信長はそのまま走り去ってしまった。
土田御前はあまりのことに震えながらその場に突っ伏し、濃姫はその隣で大きな目をまんまるに見開いていた。
市はまだ幼く、ことの次第をよくわかっていないのだろう。
信勝の元にとことこと走って来て、
「あにうえさまはなにをおこっていたの?」
などと、袖を小さく引いて小首を傾げている。
「兄上は、怒っていたのではないよ。きっと悲しみを、溜めこんではおれなかったのだろうね……」
そっと抱き寄せて頭を撫でてやれば、にこにこと微笑んで頬を寄せてくる。
温かさにますます涙がこみ上げる。
「なんたること…」
「これでは国が保てまい…」
「やはり廃嫡を…」
「勘十郎さまこそ家督を継ぐに相応しい…」
今度こそ、確かな囁き声が信勝の耳にも届く。
嗚呼、と信勝は哀しげに吐息した。
父が死んだというのに。
跡目の心配が一番か。
いや、それは当然のこと。
自分だけではなく、一族、家族を守っていかねばならないのだから。
立場というものがどれほど大切なのか、信勝は知っている。
知っているつもりだった。
「勘十郎様、ご焼香を」
促す僧侶に頷き立ち上がると、信勝は父の位牌にそっと手を合わせた。
このままでは、弾正忠家は二つに割れてしまう。
だけならばまだしも、信長と対するのは同母弟の自分だけではない。
恐らくは叔父の信光、信次、そして庶兄とはいえ長子の信広らが、当主の座を狙うだろう。
宿老たちも反旗を翻し、乗っ取りを企むやもしれない。
下剋上は戦国の世の常だ。
だが、それだけではことは済まない。
今までは織田信秀が、実質的な尾張の大名であった。周囲に睨みを利かせ、どうにか国を守って来た。
しかし信秀という大きな砦を失った弾正忠家は、このままでは守護代の伊勢守家、そして大和守家に呑み込まれ、潰されるだろう。
それはきっと呆気なく。
更に事は尾張一国では済まない。
美濃には斎藤道三。駿河に今川義元。
織田が、一族が。家族が……。跡形もなく踏み躙られるであろう未来が、信勝の眼裏を過った。
このままではいけない。
守らなくては。
目を開ければ、父の位牌が静かに佇んでいる。無論のこと、何も言ってくれはしない。
ゆっくりと頭を垂れる。深く、深く。
きゅっと唇を噛み締め、顔を上げた。
位牌に背を向け、歩き出す。
そしてその日。信勝は兄に謀反を起こすことを決めたのだ。
末盛城にて頓死であった。享年四二。
かねてから病がちではあったとはいえ、あまりに呆気ない死の訪れだった。
嘆き悲しむ土田御前を慰めながら、信勝は静かに涙を流した。
戦場で首討たれたのではないのは、果たして幸福なのか不幸なのか。
暗澹たる思いが胸を覆っていく。父は跡継ぎを聢と定めず逝った。
ひと波乱あるだろう。
いや、必ずある。
母の肩を抱きながら、信勝は冷たい予感に唇を血の出るほどに噛み締めた。
信秀は生前万松寺という寺を建てていた。
葬儀は尾張国中の僧侶を集め、盛大に行った。折から関東に上り下りする旅の修行僧たちも多数参加し、その数は三〇〇人にも及んだという。
実質尾張の大名といえる信秀に相応しい式であった。
信長には四長である林秀貞、平手正秀、青山信昌、内藤勝介らが供として従った。
信勝は、やはり宿老の柴田勝家、佐久間盛重、佐久間信盛、長谷川宗兵衛、山田弥右衛門を供とて従えた。
信勝の従える面々は、嫡男の信長と変わらぬばかりか、もしや勢力は上かもしれない。
もう少し控え目にすれば良かっただろうか。
しかし、自身の配下に恥を掻かせるわけにもいかない。
その加減が、信勝には酷く難しかった。
割と何でも卒なくこなしていると思われがちな信勝だが、その実とても不器用だった。
すべてにおいて当たり障りなくを心掛け、却って失敗することも多い。
今も堅実に努めようとし、却って目立ってしまっている。
いや寧ろ目立っているのは兄信長なのだが、その隣に居る以上、対比されるのは仕方のないことなのであって。
葬儀の席であっても、信長は長束の太刀と脇差を藁縄で巻き、髪は相変わらずの茶筅髷、袴も穿きはしない。
そして胡坐をかいてどっかりと座っている。
うつけ、とは誰が呟いたのか。
対して信勝は折り目正しい肩衣、袴を着用し、礼にかなった作法であった。
そんな風にしか、自分は在れない。
何がうつけか。
その堂々たる振る舞いは、まさしく国を治めるに相応しい風格ではないか。
信勝がそんな風に思って居るなど、この場の誰が知ることができよう。
隣の兄さえ知りはしまい。
正座した膝に手を添えて、静かに睫毛を伏せ、父を悼むその姿は一種清らかで。
誰が見ても、跡目に相応しいのは信勝の方であった。
普通の感性の持ち主であれば、だが。
そんな気配を首筋にジリジリと感じ、信勝はますます暗い思いに捕らわれていく。
視線が痛い。突き刺さる様だ。
足許にぽっかりと穴があいて、そこへ吸い込まれて行くような心持ちだった。
胃の腑がきゅっと掴まれるようで、頭の中がぐらぐらと揺れた。
目には霞がかかっているようだった。暗いのに妙に白っぽい。
読経が、何処か遠い所で響いているように思える。
まるで波の音の様だ。
遠く近く。深く浅く。重なる声の妙なるかな。
これは夢ではないかと。
夢ならば早く醒めると良いと。
愚にもつかぬことを思う不甲斐無さに、我がことながら情けなくて涙が出る。
肩に圧し掛かる重みは、耐えるのがやっとだ。
己の器の小ささが悔しかった。
寺では土田御前、その隣に濃姫。そして大勢の父の妾らや、異母兄弟らが、行儀よく並んで涙している。
小さな子らは、何が起こっているのかよくわからずに、きゃらきゃらと笑い遊んでいて。
それが余計に切なく胸に染みた。
「ご焼香を」
僧侶の言葉に、隣の信長がすっくと立ち上がった。
迷いのない動作だった。
一歩一歩を踏み締めるかの如く。信長は足音高く仏前に向かう。
兄は、どのような表情をしているのだろう。
信勝は顔を上げ、そして次の瞬間、その場の誰もが目を剥いた。
「喝!」
大音声で叫び、信長は父の位牌に抹香を掴み、投げつけたのである。
しんと静まり返ったかと思うと、小波の様に動揺が広がった。
ざわつく場を物ともせず、信長はそのまま走り去ってしまった。
土田御前はあまりのことに震えながらその場に突っ伏し、濃姫はその隣で大きな目をまんまるに見開いていた。
市はまだ幼く、ことの次第をよくわかっていないのだろう。
信勝の元にとことこと走って来て、
「あにうえさまはなにをおこっていたの?」
などと、袖を小さく引いて小首を傾げている。
「兄上は、怒っていたのではないよ。きっと悲しみを、溜めこんではおれなかったのだろうね……」
そっと抱き寄せて頭を撫でてやれば、にこにこと微笑んで頬を寄せてくる。
温かさにますます涙がこみ上げる。
「なんたること…」
「これでは国が保てまい…」
「やはり廃嫡を…」
「勘十郎さまこそ家督を継ぐに相応しい…」
今度こそ、確かな囁き声が信勝の耳にも届く。
嗚呼、と信勝は哀しげに吐息した。
父が死んだというのに。
跡目の心配が一番か。
いや、それは当然のこと。
自分だけではなく、一族、家族を守っていかねばならないのだから。
立場というものがどれほど大切なのか、信勝は知っている。
知っているつもりだった。
「勘十郎様、ご焼香を」
促す僧侶に頷き立ち上がると、信勝は父の位牌にそっと手を合わせた。
このままでは、弾正忠家は二つに割れてしまう。
だけならばまだしも、信長と対するのは同母弟の自分だけではない。
恐らくは叔父の信光、信次、そして庶兄とはいえ長子の信広らが、当主の座を狙うだろう。
宿老たちも反旗を翻し、乗っ取りを企むやもしれない。
下剋上は戦国の世の常だ。
だが、それだけではことは済まない。
今までは織田信秀が、実質的な尾張の大名であった。周囲に睨みを利かせ、どうにか国を守って来た。
しかし信秀という大きな砦を失った弾正忠家は、このままでは守護代の伊勢守家、そして大和守家に呑み込まれ、潰されるだろう。
それはきっと呆気なく。
更に事は尾張一国では済まない。
美濃には斎藤道三。駿河に今川義元。
織田が、一族が。家族が……。跡形もなく踏み躙られるであろう未来が、信勝の眼裏を過った。
このままではいけない。
守らなくては。
目を開ければ、父の位牌が静かに佇んでいる。無論のこと、何も言ってくれはしない。
ゆっくりと頭を垂れる。深く、深く。
きゅっと唇を噛み締め、顔を上げた。
位牌に背を向け、歩き出す。
そしてその日。信勝は兄に謀反を起こすことを決めたのだ。
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