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25 キュウリ
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今日は議題が満載なので、私は場が温まるのを待つことなく、注文が済んですぐに思いついたことから口に出した。
「ねえ和気さん、笑う門には福来たる、ってほんと?」
「あー、なんか科学的な根拠があるって説も聞いたことあるけどね。表情筋をそういう形にしてやることで脳が騙されるとか、あと、コメディーを見てゲラゲラ笑った人たちの方がそうじゃない人たちよりも何とかホルモンが多く出たとか、そういうの」
「ふーん」
「まあ実際のところは結局、笑うっていう行為よりも、ポジティブ思考のことを言ってるような気がするけどね」
「出た、ポジティブ」
「うん。そう、いつかのネガポジ談義に戻るけどさ、なんつーか、不満とか憎悪みたいなネガティブな感情を誇張する癖を脳ミソがつけちゃうと、せっかく喜ばしい現象が起きたり、他の感情とか発想が湧いても気付けなかったりするんだよね」
「あー」
「なんか嫌だなぁと思っただけで済んでればまだ脳ミソに空間が残ってるけどさ、なんでこんなことが起きるんだ、そういえばあの時もそうだった、いつもそうなんだ、どうせ私なんか、ってグルグルやってると、脳ミソがそれで満タンになっちゃって」
「うん」
「例えばね、キュウリの漬け物を買いに行ったとするでしょ、スーパーに」
「キュウリ」
「うん、まあ何でもいいんだけど。で、行ってみたら、いつものお気に入りな漬け物が売り切れてた」
「あー、ヘコむ」
「うん。わざわざそれだけを買いに行ってたらなおさらだよね。そこでああ許せないどうしてくれようか、って怒り心頭な人は、イライラして店を飛び出して、右左も見ないで道を渡っちゃうかもしれない」
「……轢かれる」
「そう。でもその一方でね、ああ今日はないのかあ、まあいっか、また今度で、って人もいるわけ」
「うん」
「そういう人は、でもせっかく来たからちょっと他のもの見てこうかなあなんて、店内を物色する」
「あー、そしたら、なんと豚バラが特売でした!」
「そういうこともあるよ、きっと。そんで豚バラゲットしてルンルンでレジに行こうとしたら、すれ違った人のカゴに、キュウリが入ってた。生の」
「生キュウリ」
「それを見てピカーンとひらめくわけ。そうだ、いつもの漬け物はなかったけど、これを機に自分で漬けてみちゃおっかなーなんて」
「へぇー」
「家帰って、いざやってみたら大成功」
「マジか」
「そんで、嬉しいからどっかに写真載っけたりとかしてさ、『いいね』してくれた人が、私はこないだこんなのやってみたよーとか教えてくれたりして」
「広がる」
「そうなんだよ。でもさっきの怒り心頭さんは、あやうく車に轢かれかけて家帰ってもまだブツクサ言ってるから、何食べてもおいしくない」
「……うん」
「いつものあの漬け物はね、理想だったよ、そりゃ。でも、それが与えられなかったことを嘆いても、決して得にはならない」
「うん、ならない」
「足るを知るって言葉があるけどさ、あれは別に贅沢をするなとか我慢しろって意味じゃないと思うんだよね。何か不満を抱いた時に、残念だけどまあよしとする。そうすると、脳ミソが不満モードから切り替わって、目線が変わるでしょ? その結果、何か別のもので代用したりとか、レベル的に妥協したりみたいなことを思いついて、やってみたらすっかり心から満足しちゃってたわっていう。もしかしたら当初こだわってた希望なんかよりずっといい結果になるかもしれない」
「うん」
「そのスタンスはつまり、幸福のハードルを下げることなわけだから、例の何とかホルモンがもうドバドバ出ちゃうわけ」
「そっか。ちなみに和気さんの福レベルは、いかほどですか?」
「福レベル? は……うん、まあ悪くないと思うけど」
「そう。ならいいけど」
和気さんの手が、殻入れの縁からこぼれた枝豆の殻を拾う。
「和気さんは……」
「うん」
「私がいなくても、生きていけますか?」
「……うん。いけるだろうね」
「余裕で?」
「余裕かどうかはともかく、可否で言ったら可だろうなぁ」
若い頃に連れ合いを亡くしている和気さんにこんな質問をするのは残酷だとわかっていた。でも、この人は私がいないと生きていけないんじゃないだろうか、という勘違い由来の不安を、和気さんならきっぱりと拭い去ってくれるとわかっていたし、拭い去られる現場にちゃんと立ち会いたかった。私自身のために。
「ねえ和気さん、笑う門には福来たる、ってほんと?」
「あー、なんか科学的な根拠があるって説も聞いたことあるけどね。表情筋をそういう形にしてやることで脳が騙されるとか、あと、コメディーを見てゲラゲラ笑った人たちの方がそうじゃない人たちよりも何とかホルモンが多く出たとか、そういうの」
「ふーん」
「まあ実際のところは結局、笑うっていう行為よりも、ポジティブ思考のことを言ってるような気がするけどね」
「出た、ポジティブ」
「うん。そう、いつかのネガポジ談義に戻るけどさ、なんつーか、不満とか憎悪みたいなネガティブな感情を誇張する癖を脳ミソがつけちゃうと、せっかく喜ばしい現象が起きたり、他の感情とか発想が湧いても気付けなかったりするんだよね」
「あー」
「なんか嫌だなぁと思っただけで済んでればまだ脳ミソに空間が残ってるけどさ、なんでこんなことが起きるんだ、そういえばあの時もそうだった、いつもそうなんだ、どうせ私なんか、ってグルグルやってると、脳ミソがそれで満タンになっちゃって」
「うん」
「例えばね、キュウリの漬け物を買いに行ったとするでしょ、スーパーに」
「キュウリ」
「うん、まあ何でもいいんだけど。で、行ってみたら、いつものお気に入りな漬け物が売り切れてた」
「あー、ヘコむ」
「うん。わざわざそれだけを買いに行ってたらなおさらだよね。そこでああ許せないどうしてくれようか、って怒り心頭な人は、イライラして店を飛び出して、右左も見ないで道を渡っちゃうかもしれない」
「……轢かれる」
「そう。でもその一方でね、ああ今日はないのかあ、まあいっか、また今度で、って人もいるわけ」
「うん」
「そういう人は、でもせっかく来たからちょっと他のもの見てこうかなあなんて、店内を物色する」
「あー、そしたら、なんと豚バラが特売でした!」
「そういうこともあるよ、きっと。そんで豚バラゲットしてルンルンでレジに行こうとしたら、すれ違った人のカゴに、キュウリが入ってた。生の」
「生キュウリ」
「それを見てピカーンとひらめくわけ。そうだ、いつもの漬け物はなかったけど、これを機に自分で漬けてみちゃおっかなーなんて」
「へぇー」
「家帰って、いざやってみたら大成功」
「マジか」
「そんで、嬉しいからどっかに写真載っけたりとかしてさ、『いいね』してくれた人が、私はこないだこんなのやってみたよーとか教えてくれたりして」
「広がる」
「そうなんだよ。でもさっきの怒り心頭さんは、あやうく車に轢かれかけて家帰ってもまだブツクサ言ってるから、何食べてもおいしくない」
「……うん」
「いつものあの漬け物はね、理想だったよ、そりゃ。でも、それが与えられなかったことを嘆いても、決して得にはならない」
「うん、ならない」
「足るを知るって言葉があるけどさ、あれは別に贅沢をするなとか我慢しろって意味じゃないと思うんだよね。何か不満を抱いた時に、残念だけどまあよしとする。そうすると、脳ミソが不満モードから切り替わって、目線が変わるでしょ? その結果、何か別のもので代用したりとか、レベル的に妥協したりみたいなことを思いついて、やってみたらすっかり心から満足しちゃってたわっていう。もしかしたら当初こだわってた希望なんかよりずっといい結果になるかもしれない」
「うん」
「そのスタンスはつまり、幸福のハードルを下げることなわけだから、例の何とかホルモンがもうドバドバ出ちゃうわけ」
「そっか。ちなみに和気さんの福レベルは、いかほどですか?」
「福レベル? は……うん、まあ悪くないと思うけど」
「そう。ならいいけど」
和気さんの手が、殻入れの縁からこぼれた枝豆の殻を拾う。
「和気さんは……」
「うん」
「私がいなくても、生きていけますか?」
「……うん。いけるだろうね」
「余裕で?」
「余裕かどうかはともかく、可否で言ったら可だろうなぁ」
若い頃に連れ合いを亡くしている和気さんにこんな質問をするのは残酷だとわかっていた。でも、この人は私がいないと生きていけないんじゃないだろうか、という勘違い由来の不安を、和気さんならきっぱりと拭い去ってくれるとわかっていたし、拭い去られる現場にちゃんと立ち会いたかった。私自身のために。
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