74 / 92
第4章 苦悩
74 恋の嵐
しおりを挟む
八月二十六日。夏休み中の夕方。千尋は、がらんとした大学に来ていた。頭の中は相変わらずモヤモヤしていたが、空はよく晴れていた。
日中の気温は三十度を超えていたが湿度は低く、蝉の声さえなければ暑さもさほど苦にならなかったかもしれない。
浅葉と電話で話してからどれぐらい経つだろう。千尋としても電話を待っていたのは確かだが、こんなことを続けて先々どうするのか、長期的にはどうしたいのか、と自問してしまい、いざかかってくると冷たくあしらってしまう。そんなことが何度か続き、千尋は自分でも嫌になっていた。
昨日、久々にかかってきた浅葉の携帯からの電話をついに無視した。自分がもっと機嫌のいい時に、冷静に今後のことを話し合いたかった。
図書館で資料を探していると、バッグの中の電話が振動し始めた。その着信が珍しく「非通知」と表示されたことで、出なければいけない気にさせられた。しかしかかってくる当てといえば……。
ちょうど周囲には誰もいない。千尋は口元を片手で覆い、小声で電話に出た。
「はい」
「千尋」
怒っても慌ててもいない、いつも通りの声。
「はい」
「元気?」
「はい」
「ごめんな、しばらく話せなくて」
昨日電話に出ず、かけ直しもしなかったのは千尋の方だが、それには浅葉は触れないつもりらしい。
何も言えずにいると、再び浅葉の声が聞こえた。
「いつ……会えるかなと思って」
責める口調にならないよう気を遣っているのがわかる。千尋だって会いたいのはやまやまだったが、またいつかのように、会って体を交えたはいいがその結果もっと苦しくなる、という事態を恐れた。
こんな不安を抱えたまま付き合い続けてどうするのかという思いが捨て切れない。浅葉のせいにしたくはないが、心が疲れていた。
(忙しいんでしょう、無理しないで)
思わず言ってしまいそうになり、口をつぐんだ。千尋が黙っていると、
「最近、どう? バイトとか、順調?」
苛立った様子もなく、いつも通りの落ち着いた声が問いかける。その声だけでわだかまりを融かしてしまう浅葉のことを、ずるいと思った。
天の邪鬼な自分の陰に隠れていた正直な感情が、一気に掘り起こされるのを感じた。話などしたくない。そんなことより黙って抱いて、と言ってしまいそうになる。
会えばやるだけ、という付き合い方はもともと軽蔑していたし、他ならぬ浅葉との関係がそんなところへ転落していくのは嫌だった。かといって、欲しくないふりをすることなど、もはやできそうにない。
浅葉への気持ちが全て愚かな肉欲に取って代わられたような気がし、千尋はそんな自分が憎かった。
いつまでも黙り込んでいる千尋のモヤモヤを察したかのように、浅葉が言った。
「ねえ、今どこ? 行っていい?」
車の中から掟破りの業務用携帯で電話している浅葉が目に浮かんだ。はっとするほどの深さを持った瞳が、恋人の姿を求めている……。想像の中の浅葉は、逆らい難い力で千尋の心を揺さぶった。
「図書館です。大学の」
「そっか。じゃあ、裏門でどう? 六時半には着く」
自分の中の醜い思いが、何事もなかったように発されたその言葉に洗われていくようだった。今なら素直になれそうな気がした。
「うん、待ってます」
時間を見計らい、資料を片付けて裏門に向かうと、街灯の下には既にその姿があった。
助手席のドアにもたれて立っていた浅葉は、門の先に千尋を見付けると足早に歩み寄った。何か言わなければ、と言葉を探した千尋を、迷いのない両腕が包み込む。忘れかけていた、ずっと恋しかった温もりが一気に押し寄せた。
千尋は全てを忘れてその胸にかじり付いていた。みるみる込み上げてくる涙をどうすることもできなかった。たかだか二ヶ月弱会えない程度のことに耐えられない女だと思われたくなかったが、隠すことすらできず、ただ子供のようにしゃくり上げた。
久々に見る浅葉は、圧倒的に大人だった。サークルの中では比較的落ち着いた雰囲気のある義則と比べても、ずっと。
職務を持ち、世のため人のため、時には命がけでそれを全うしている男が、休もうと思えばただ休んでもよいはずの貴重な時間を千尋のために割いて、今目の前にいる。
釣り合わない、と思った。私はあなたの気持ちに応えていない、と。あなたの日常を理解すらできていないし、支えるどころか掻き乱している。
ただ寂しいから、一緒にいてほしいから、癒してほしいから、甘えさせろと要求しているだけなのだ。それが果たして恋人のすることだろうか。
(なんで私のことなんか……)
理由がわかるぐらいなら苦労しないよ、という浅葉の苦笑が、千尋の涙をすり抜け、降り注ぐように蘇った。恋なんて、しなければよかった。されなければよかった。千尋は唇を噛んで、胸の痛みに耐えた。
ひとしきり泣き終えると、長いこと置き去りにされていた心と体の渇きが沸々と頭をもたげた。二人分の服の厚みが急に煩わしくなる。
ワイシャツの向こうに、浅葉の汗が感じられた。千尋は無意識のうちに、ボタンの間から手を滑り込ませていた。滑らかな胸が静かに脈打っている。
浅葉は、何かにけしかけられるように押し入ってきた千尋の手に動じることもなく、その全てを受け止めるようにそっと尋ねた。
「うち来る?」
違う、ただ傍にいてくれればいいの、と言おうとしたが、体の方が正直だった。千尋は、早る気持ちを抑え切れぬまま小さく二度頷いた。その頭を大きな手がぐるりと一周した。
「壁薄いから。お静かに願います」
と、千尋の口元に人差し指を当てる。浅葉らしい「セックス禁止令」解除宣言だった。
「でも、十時には出なきゃならない」
何と答えればよいというのだ。千尋は不満たっぷりのため息を漏らし、浅葉を運転席に押し込んだ。
日中の気温は三十度を超えていたが湿度は低く、蝉の声さえなければ暑さもさほど苦にならなかったかもしれない。
浅葉と電話で話してからどれぐらい経つだろう。千尋としても電話を待っていたのは確かだが、こんなことを続けて先々どうするのか、長期的にはどうしたいのか、と自問してしまい、いざかかってくると冷たくあしらってしまう。そんなことが何度か続き、千尋は自分でも嫌になっていた。
昨日、久々にかかってきた浅葉の携帯からの電話をついに無視した。自分がもっと機嫌のいい時に、冷静に今後のことを話し合いたかった。
図書館で資料を探していると、バッグの中の電話が振動し始めた。その着信が珍しく「非通知」と表示されたことで、出なければいけない気にさせられた。しかしかかってくる当てといえば……。
ちょうど周囲には誰もいない。千尋は口元を片手で覆い、小声で電話に出た。
「はい」
「千尋」
怒っても慌ててもいない、いつも通りの声。
「はい」
「元気?」
「はい」
「ごめんな、しばらく話せなくて」
昨日電話に出ず、かけ直しもしなかったのは千尋の方だが、それには浅葉は触れないつもりらしい。
何も言えずにいると、再び浅葉の声が聞こえた。
「いつ……会えるかなと思って」
責める口調にならないよう気を遣っているのがわかる。千尋だって会いたいのはやまやまだったが、またいつかのように、会って体を交えたはいいがその結果もっと苦しくなる、という事態を恐れた。
こんな不安を抱えたまま付き合い続けてどうするのかという思いが捨て切れない。浅葉のせいにしたくはないが、心が疲れていた。
(忙しいんでしょう、無理しないで)
思わず言ってしまいそうになり、口をつぐんだ。千尋が黙っていると、
「最近、どう? バイトとか、順調?」
苛立った様子もなく、いつも通りの落ち着いた声が問いかける。その声だけでわだかまりを融かしてしまう浅葉のことを、ずるいと思った。
天の邪鬼な自分の陰に隠れていた正直な感情が、一気に掘り起こされるのを感じた。話などしたくない。そんなことより黙って抱いて、と言ってしまいそうになる。
会えばやるだけ、という付き合い方はもともと軽蔑していたし、他ならぬ浅葉との関係がそんなところへ転落していくのは嫌だった。かといって、欲しくないふりをすることなど、もはやできそうにない。
浅葉への気持ちが全て愚かな肉欲に取って代わられたような気がし、千尋はそんな自分が憎かった。
いつまでも黙り込んでいる千尋のモヤモヤを察したかのように、浅葉が言った。
「ねえ、今どこ? 行っていい?」
車の中から掟破りの業務用携帯で電話している浅葉が目に浮かんだ。はっとするほどの深さを持った瞳が、恋人の姿を求めている……。想像の中の浅葉は、逆らい難い力で千尋の心を揺さぶった。
「図書館です。大学の」
「そっか。じゃあ、裏門でどう? 六時半には着く」
自分の中の醜い思いが、何事もなかったように発されたその言葉に洗われていくようだった。今なら素直になれそうな気がした。
「うん、待ってます」
時間を見計らい、資料を片付けて裏門に向かうと、街灯の下には既にその姿があった。
助手席のドアにもたれて立っていた浅葉は、門の先に千尋を見付けると足早に歩み寄った。何か言わなければ、と言葉を探した千尋を、迷いのない両腕が包み込む。忘れかけていた、ずっと恋しかった温もりが一気に押し寄せた。
千尋は全てを忘れてその胸にかじり付いていた。みるみる込み上げてくる涙をどうすることもできなかった。たかだか二ヶ月弱会えない程度のことに耐えられない女だと思われたくなかったが、隠すことすらできず、ただ子供のようにしゃくり上げた。
久々に見る浅葉は、圧倒的に大人だった。サークルの中では比較的落ち着いた雰囲気のある義則と比べても、ずっと。
職務を持ち、世のため人のため、時には命がけでそれを全うしている男が、休もうと思えばただ休んでもよいはずの貴重な時間を千尋のために割いて、今目の前にいる。
釣り合わない、と思った。私はあなたの気持ちに応えていない、と。あなたの日常を理解すらできていないし、支えるどころか掻き乱している。
ただ寂しいから、一緒にいてほしいから、癒してほしいから、甘えさせろと要求しているだけなのだ。それが果たして恋人のすることだろうか。
(なんで私のことなんか……)
理由がわかるぐらいなら苦労しないよ、という浅葉の苦笑が、千尋の涙をすり抜け、降り注ぐように蘇った。恋なんて、しなければよかった。されなければよかった。千尋は唇を噛んで、胸の痛みに耐えた。
ひとしきり泣き終えると、長いこと置き去りにされていた心と体の渇きが沸々と頭をもたげた。二人分の服の厚みが急に煩わしくなる。
ワイシャツの向こうに、浅葉の汗が感じられた。千尋は無意識のうちに、ボタンの間から手を滑り込ませていた。滑らかな胸が静かに脈打っている。
浅葉は、何かにけしかけられるように押し入ってきた千尋の手に動じることもなく、その全てを受け止めるようにそっと尋ねた。
「うち来る?」
違う、ただ傍にいてくれればいいの、と言おうとしたが、体の方が正直だった。千尋は、早る気持ちを抑え切れぬまま小さく二度頷いた。その頭を大きな手がぐるりと一周した。
「壁薄いから。お静かに願います」
と、千尋の口元に人差し指を当てる。浅葉らしい「セックス禁止令」解除宣言だった。
「でも、十時には出なきゃならない」
何と答えればよいというのだ。千尋は不満たっぷりのため息を漏らし、浅葉を運転席に押し込んだ。
0
お気に入りに追加
121
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。
2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる