君の思い出

生津直

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第2章 再会

16 日常

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 十月十五日。一限から四限までみっちりと授業がまっているところへ、ファミレスのバイト仲間が風邪をひき、千尋が急遽きゅうきょ代わりに呼び出された。いつになく慌ただしい水曜日。

 ようやくシフトを終えての帰り道。千尋は電車に揺られながら、携帯の画面を見ているようで見ていなかった。

 別れぎわに浅葉から「不安になるのは無理もない」と言われた時にはぴんと来なかったが、確かに千尋はあれ以来、精神的に安定しているとは言えなかった。

 何となく落ち着かない日々が続き、食欲が落ち、体重も三キロほど減っている。自分が命を狙われたという事実によるものか、初めて聞いた本物の銃声のせいか、それとも……。

 幸い、近所とはいえ、あの公園は通るまいと思えば通らずに済む位置にある。なるべく思い出さないように努め、どうしてもあの時の恐怖がよみがえってしまう時には、駆け付けてくれた浅葉の姿を急いで脳内に呼び戻すようにしていた。

(今頃どうしてるかな……きっと私のことなんか忘れて、他の仕事で忙しくしてるよね)

 一ヶ月経っても落ち着かないようなら……という最後の日の言葉。あれから五週間が過ぎていた。

 生活自体は間もなく日常を取り戻し、夏休みの残りの期間はバイトに明け暮れた。

 十月に入り後期の授業が始まると、千尋のカレンダーは再び授業とサークル活動、バイト、そして飲み会に埋め尽くされた。しかし、完全に落ち着いたかと聞かれれば、やはりそうとは言いがたい。

 友達とはしゃいでいる時でさえも、の自分とは何かが違うことに気付かされる。家事もテキパキとは進まず、あまりにも日常とかけ離れたあの一週間を断片的に思い出しながら、浅い眠りにつく日々が続いていた。



 帰宅して携帯を取り出し、千尋はあの番号を見つめた。

 あの日、浅葉が千尋の電話に打ち込んだのは、携帯の番号だった。それを千尋は「例の」という名前で登録していた。

 専用の相談窓口と浅葉は言っていたが、それはいわゆるPTSDだとか、そういった深刻なケースを想定してのことだろう。この苛立いらだちとも心細さともつかぬ妙な落ち着かなさが、果たして相談するほどの症状だろうか。それに、こんなつかみどころのない心情について相談したところで、誰が何をしてくれるというのだ。

 しかし、疲れた体に熱いシャワーを浴びているうちに、お世話になった警察組織への挨拶あいさつがてら、かけるだけかけておくか、という気持ちが芽生めばえた。役に立たなかったとしても、今より悪くはなりようがない。

 濡れた髪をタオルで包み、携帯を開く。十一時を回っていた。こんな時間だし、どうせつながらない、と決め込んで、千尋はついに例の番号に電話をかけた。



 十月二十日。月曜は四限の後まっすぐ帰宅することが多いが、今日はレポートのための調べ物で少し遅くなった。図書館を出た千尋は、ぞろぞろと連れ立ってキャンパスの出口に向かうサークル仲間に出くわした。

「ね、千尋も行かない?」

と既にどうやらいい気分になっているのは、同じ二年の孝子たかこだ。

 月曜は練習がないから、四限明けか下手すれば昼過ぎから部室で飲み始める連中がいる。今日もそのパターンだろう。テニスサークルとは名ばかりで、練習はどちらかというとおまけのようなもの。メインの活動は飲み会、というのが実態だ。

「ごめん、レポート」

と、千尋は両手を合わせる。

「なーにお利口ちゃんぶってんの? そんなの飲んでからでいいじゃん」

「そう言ってて前期に落としたやつの再履さいりなんだよね」

「いいじゃん、そんなのもう。落としたもんなんか忘れて、次いきなよ、次!」

(そういえば……)

 千尋は、孝子が最近彼氏と別れたばかりなのを思い出した。このところつい飲みすぎるのもそのせいだろう。

「おいおい、そのぐらいにしとけ」

 孝子をたしなめたのは、三年の高遠義則たかとおよしのり。千尋は恐縮して言う。

「すみません、ヨシさん。孝子大丈夫かなあ、この後」

「いつかみたいに前触まえぶれなくパタンといかれるよりはいいかな。気を付けて見とくよ」

「ウーロンハイって言ってウーロン茶飲ませとけば、どうせわかりませんから」

「おっ、さすが専属調教師」

「シーッ」

と千尋は人差し指を立てながら笑いをこらえる。酔って荒れだした孝子は千尋がなだめるとおとなしくなる、という内輪うちわネタだが、孝子本人にはそんな自覚は全くないはず。

 皆と一緒に歩いて正門に着くと、居酒屋に向かう仲間たちが千尋に手を振った。

「じゃ、お疲れ」

「レポート頑張れ」

「うん、ごめんね、またね」

 集団の最後尾に残った義則が千尋に歩み寄る。

「気を付けてね。あんまり無理しないで。じゃあまた……あさって」

 千尋は笑顔でうなずき、駅に向かった。
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