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伊藤左近の提言
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そうこうするうちに、図書亮も少しずつ城中に顔見知りが増えていった。
現在、図書亮が伺候しているのは大河のほとりにある「峯ヶ城」だ。別名、伏見館。文字通り、伏見岩の上にあり逢隈川が臨め、その岸壁は切り立った断崖となっている。
その峯ヶ城の隣に、美濃守は新しく為氏の館を作らせていた。こちらは「岩間」と呼ばれる土地であり、現在、母屋を始めとする建物を造らせている最中である。何かことがあれば、美濃守が為氏の元へすぐに駆けつけられる体制だ。
そこから数丁離れたところには和田館があり、こちらの方は目の前に平地が開けている。峯ヶ城と比較すると平らな土地であり、どこかのんびりした空気が漂っている。美濃守は「こちらに軒を用意してやる」と決め、新参者も含めて多くの旗本がこちらに屋敷や仮寓を構えた。
和田館に仮居を構えた図書亮は、鎌倉にいた頃からの馴染みである忍藤兵衛や倭文半内と共に行動することが多い。だが、流れとして時折峯ヶ城にも伺候しなければならず、直属の上司となった須田美濃守の一門とも、度々顔を合わせた。何せ、二階堂家に次ぐ版図を持つ一族だから、その縁者もまた多いのである。
須田一族の長である美濃守は、四十路に手が届くところだ。りくの伯父である安房守と特に仲がいいようで、二人でよく談笑しているのを見かける。
須田家の惣領として、図書亮を二階堂氏に引き合わせてくれた安藤綱義の他に、その息子である安藤帯刀(左馬助)、服部監物、小板橋丹波がよく側に付き従っている。惣領というだけあって、家臣の数は他の兄弟よりも多いようである。
次男である佐渡守秀泰は、三十五歳。彼は市之関や小作田を差配し、温厚篤実な性格だ。地元衆の旗本として江藤、小林、柳沼といった者たちを使いながら、二階堂一族に遠く縁があるという樫村も、彼の配下だった。最近では、鎌倉からの下向の際に二階堂家の「旗本」に加わった相生兄弟も、彼と一緒にいることが多い。
三男の三郎兵衛尉秀房は、三十歳。袋田を支配し、四天王の一人である遠藤雅楽守とともに、会津への牽制役も兼ねている。遠藤雅楽守の差配する「山寺」からは北の方向に会津街道が伸びており、安積郡の伊東、そしてそこから北西に山を越えれば会津の蘆名氏が領地を構える。そのためか、どこか神経質な印象を受けた。彼には、永瀬角之介がつけられている。
その他に、二十七歳になる四男の紀伊守秀幹は、石川氏への備えとして竜崎を任され、末息子の源蔵秀顕は、浜尾の一部や江持、堤を任されている――。
「――というのが、うちの大まかな支配図だ」
須賀川の地図を丁寧に指しながら、図書亮と同い年だという源蔵は説明してくれた。側には、三島木右膳・治郎太という家臣がついている。三島木も、古くから須田に仕えている家柄らしい。
「二階堂の本家より、支配領域が大きいのでは?」
苦笑しながら、図書亮は答えた。よく、それで主君が妬かないものだと感じたのだ。
「そんなことはないさ。二階堂家は西衆との分も合わせれば、会津の蘆名と国境を接しているからな」
どうやら、「行村公」の系統は岩瀬郡でも西部に領地を持つ一族が多く、それらは「西衆」と呼ばれているとのことだった。確かに、初日にあの「治部大輔」の非をあげつらっていた「矢田野左馬允」などは、会津の蘆名と国境が近い辺りを差配しているらしい。
美濃守に対してはまだ苦手意識が拭えないが、その弟たちは年が近いこともあり、中でも五男の源蔵とはうまが合った。
「それにしても、あそこまで治部大輔殿が天狗になっているとは思わなかった」
源蔵がぼやく。
「お知り合いで?」
源蔵があまり治部に敵愾心を見せていないのは、意外だった。
「お知り合いも何も。子供の頃には治部殿に抱かれたこともある」
つまり、二階堂家と須田家は体裁としては臣下の礼を取っているものの、実質的には対等にも近い密接な関係なのだろう。源蔵の説明によると、両家とも岩瀬に土着したのは鎌倉時代に源頼朝が奥州を征伐したのがきっかけだったという。
「やっぱり、あの永享の乱から色々と狂ったように思う」
それは、図書亮も同感だった。自分もあの戦いで父が自害しなければ、名門一色家の嫡子として、今でも鎌倉に住んでいただろうから。
「ところで一色殿は、鎌倉にいた時はうちの安藤と縁があったというが?」
「そうです。やはり永享の乱の折に、式部少輔殿に近所の誼で命を救われました」
安藤も幾人か同姓がいるから、都度呼び方を工夫しないとならず、ややこしい。
「安藤の爺も、困っている者は見捨てておけない性質だから」
そう言うと、源蔵はからからと笑った。
それにしても。
和田館はまずまず居心地がいいが、どことなく鎌倉が恋しくなる。そもそも、「和田」の地名からして、あの有名な「和田合戦」で当地に流されてきた「和田平太胤長」が、自分の名字をこの土地に残したという。そればかりか、和田館のある場所には、なぜか六体の仏まで掘られているのだった。この大仏は、一説によると弘法大師が彫ったという。図書亮も人並みには信心を持っているが、伏見館に伺候する途中で仏像を見上げると、目が合ってぎょっとすることがある。なかなかよく出来ており、源蔵によると、「いつ掘られたのか正確な年代はわからないが、子供の頃からあった」のだそうだ。
また、乳不足の夫人が大仏の胸を削り、それを粉にして煎じて飲むと、乳が出るようになるのだといい、仏像の胸の辺りはわずかに抉れていた。
二階堂家の旗本に加わった以上、それなりに働かなくてはならない。そんな図書亮に割り当てられたのは、源蔵と共に須田の差配している領地を見回る仕事だった。まだ当地には馴れていないだろうし、地理を把握していない以上戦力にならないからだろうが、同い年の源蔵が「物頭格」の仕事を任されているのを見ると、少し悔しい。
そんな図書亮だが、今日も仕事を終えて小屋へ戻ると、安房守の姪の「りく」がいた。どうやら、いつでも戦に出られるように、先日の戦いで少々綻びていた具足の修繕をしてくれていたらしい。
「一色様、お帰りなさいませ」
「ただ今帰りました」
図書亮も、軽く肯く。夫婦ではないので、彼女の世話が少々うっとおしいと感じることもある。そのためか、二人の関係は至極あっさりとしたものだった。
「お食事も用意しておきました」
夕食といっても、飯に汁、そして芋を煮たもの。正直なところ、一色家の京風の味に慣れ親しんだ図書亮の舌には、りくの作る料理はやや辛すぎるのだった。だが、上げ膳据え膳何とやらで、作ってもらえるだけでも独り身には有り難い。
いつもだったらここでりくは図書亮が食事を終えるのを待って、その後片付けをすると、木舟への道を帰っていく。さすが安房守の姪とでもいうのか、馬に乗るのもお手のもののようで、よく馬に乗ってやってきていた。
ところが今日は給仕をしながら、落ち着かない様子だった。
「りく殿。どうされた」
「いえ。一色様がお帰りになる少し前に、見知らぬ男が来たもので」
図書亮は、眉を顰めた。家中の者とは、和田館か峯ヶ城で顔を合わせば用が事足りる。独り身の図書亮のところへわざわざ訪うこと自体が、奇異なのだ。
この須賀川の地に、為氏に付き従ってきた者以外の知り合いなどいるはずがなかった。
「りく殿は、その男に心当たりは?」
りくは、首を横に振った。だが同時に、あ、と声を漏らした。
「ご伝言がありました。『左の字と言えば、図書亮にはわかる』と」
「左の字……」
さあっと血の気が引くのが、自分でも分かった。あの男か――。
「りく殿。この事、どうぞご内密に」
絶対に、この訪問が外部に漏れてはまずいのだ。そんな図書亮の様子に、りくは困惑しているようだった。
「ですが、伯父上や美濃守様には……」
今は、治部大輔のことで皆が神経を尖らせている。たとえ女子供でも、怪しい者を見かけたら報告するのが当然だった。
「私から皆様に話します。りく殿にご迷惑をおかけするような事は致しません」
言いながら、嘘くさいな、と自分でも思った。だが、話すに話せない事情がある――。
りくが帰ってから一刻もしないうちに、ほとほとと小屋の戸が叩かれる音がした。辺りを窺い、人目がないのを確認して、戸を開ける。
何か言おうとした男を制して、口に人差し指を当てる。誰かに声を聞かれたら困るのだ。
相手もそれを察して、黙って小屋に入ってくる。雨戸も締め切り、音が漏れないようにしてから、図書亮はようやく息をついた。
「何をしに来た」
図書亮は、来訪者をじろりと睨みつけた。
「久しぶりに朋友に会ったというのに冷たいじゃないか、図書亮」
男は、にやにやと笑っている。
「馬鹿を言え。相手の迷惑も考えずにやってくる者のどこが朋友だ」
憎まれ口を叩くが、相手の言う事もあながち間違いではない。
男は鎌倉にいた頃からの幼馴染、伊藤左近太夫だった。だが、この男は現在、治部大輔の配下にいるのである。元々は安積郡の伊東氏の縁戚であり、その縁で、彼は図書亮より早く二階堂家に接近していたのだった。
「お前がもう女を作っているとは、思わなかったぞ」
図書亮の緊張をほぐそうとしているのか、左近は軽口を叩いた。図書亮の留守中に、りくが来ていたことを指しているのだろう。だが、図書亮はとてもそんな気分ではない。
「馬鹿。あの人は、ただの世話役だ」
今のところは、そうとしか形容しようがない。だが、彼女がどこまで信用できるか。今にも父である下野守に告げて、早々と手打ちの兵がやってくるのではないかと気が気ではなかった。
「まあ、お前に会えて嬉しいのは本当だ」
先程までの軽薄な態度とは打って変わり、左近はしみじみと述べた。確かに元は幼友であるから、その想いは嘘では無いだろう。まさか、一年前には敵味方に別れることになるとは思わなかったが。
左近の言葉に絆され、図書亮は寝酒用の酒を出してやった。冷酒だが、幸い、左近は気にしていないようだ。
杯を重ね酔いが廻るごとに、左近の口は滑らかさを増していった。
どうやら彼も、内心ではこの無益な争いに心を痛めているらしい。
「――だから、治部大輔殿は叛逆の意図は全くない。俺はそう思う」
何の根拠があるのか、先程から左近はそればかりを繰り返している。
「私は、危うく命を落としかけたがな」
酒を注いでやりながらも、図書亮は冷ややかに答えた。まったく、須賀川に来て早々と矢を射掛けられた身にも、なってほしい。
「だから、治部殿が今首を差し伸べて降参したとしてもだ。為氏公はともかく、ご一門衆や四天王の方々に首を刎ねられ、その首を獄門に晒されるのではないかと、お疑いになっている」
「ふん」
それは、武士としての当然の覚悟が有るべきではないか。治部大輔という男には会ったことがないが、和田衆の間では悪の権化のように思われているのは間違いない。
「治部大輔殿が出家でもしたらどうだ」
冷たく言い放ってやると、左近は頭を振った。この地に来たばかりのお前には何も分かっていない、とでも言いたげだ。
「たとえ治部殿が出家されたとしても、お前たち和田衆の者には何の益もないだろう」
「いや、あるさ。須賀川城に入れるという大義名分が」
それは、鎌倉府からも言われていることだった。須賀川・岩瀬地方の主は為氏であることを内外共に、広く知らしめなければならない。
「ご一門衆や四天王の方々は、納得されまい。例え治部殿が夜に紛れて城を落ち延び、世に背を向けられたとしてもだ。ゆくゆくは治部殿の運命は極まり、死を遁れることは出来まい」
図書亮の脳裏を、あの美濃守の謹厳そのものの顔が過った。確かに、あの御方は納得するまい。それに――。
「城内の兵の結束は、なかなかのものだしな」
それは、わずかながら戦った図書亮でも感じるものだった。そもそも烏合の衆であれば、治部大輔があれほどの戦差配をするのは無理だろう。嫌な男なのかもしれないが、一廉の人物なのは間違いなかった。
「それにしても、お前。この和田館に来るということは、それなりの覚悟を決めてきているのだろうな」
図書亮は治部云々よりも、そちらの方が気になった。りくには口止めをしたが、恐らく彼女は伯父に告げるだろう。いや、その前に須田一門の者にこの来訪を嗅ぎつけられる方が、早いかもしれない。
いざとなったら、自分の手でこの幼馴染みを斬る。内心、そこまでの覚悟を決めつつある図書亮とは反対に、左近は寛いだ雰囲気を崩さなかった。
「もちろん。俺がここで腹を切ったとしてだ。それで須賀川の城中の者が助かるわけでもないし、せいぜい為氏公の鬱憤が多少晴らされるくらいだろう」
左近は、ゆったりと笑った。
「では、何をしにきた」
図書亮は次第に腹が立ってきた。どうも、左近は降参しに来たわけでもないらしい。早く降参してくれて命を全うしてくれればいいのにと願いつつも、いっそこのまま須田一門の者にこの男を引き渡そうかと考えたときである。左近は思いがけない情報を口にした。
「なあ、図書亮。お前、治部殿に姫がいらっしゃるのを知っているか?」
「それは、初耳だ」
それも当然で、図書亮は先日須賀川に来たばかりである。敵方の内情まで知るわけがなかった。
「確か、為氏公は十三だという話だったな」
左近は、身を乗り出して図書亮の目を見つめた。
「姫は十二になられる。お似合いだと思わないか」
段々、左近の言わんとしている画図が見えてきた。
「つまり、その姫を為氏公の御台に迎えよ……と?」
「そうだ」
確かに、悪い話ではない。だが、民部大輔の失策の話が頭に引っかかっていた。
「どのような姫なんだ?」
すると、左近は滔々と語りだした。名は三千代姫といい、見目形は、正に楊貴妃や西施も形なしであり、世に並ぶほどのない美女であると、城内や城下でも評判らしい。まだ幼少の身でありながらも、先の聖人の書を鑑賞し、歌道にも長けているという。その教養の深さは、彼女の兄である行若にも劣らない程だった。また、父母に尽くす孝心を失わず、憐れみ深いお人柄。人に深い情けをかけられる優しい御方でありながら、愛嬌もあり、素直なご気性であられる。この姫を、治部大輔は掌中の珠玉の如く、大切にされている。
この自慢話は、どこかで聞き覚えがある。あの、安房守や遠藤雅楽守が「若君」を自慢していた様子に、そっくりなのだった。
ということは、どこまで信用して良いものやら疑ってかからねばなるまい。
「……まあ、悪い話ではないかもしれんな」
たとえ相手は幼馴染みとは言え、現在は敵方の人間だ。言葉尻を取られないように、図書亮は慎重に答えた。
「だろう?為氏公のお人柄は、こちらにも聞こえてきている」
意気込んで、左近は身を乗り出してきた。その息は、やや酒臭い。酔っ払いの戯言なのだろうか。
「もしこの婚礼が成立すれば、為氏公と治部殿は聟舅の仲となられる。そうなれば、たとえ今啀み合っているとしても、和睦の空気に持っていきやすくなるのは間違いない」
「ふむ」
そういえば、為氏は一族同士の悪口を好まないらしい。彼もまだ年少の身でありながら、一族の長として、何とかこの同族同士の争いを鎮めたいに違いなかった。
「聟舅の仲となられたならば、いくら治部殿でも為氏公を須賀川の城へお迎えしないわけにはいかないだろう。そこで、為氏公は聟君として無傷で入城できる。治部大輔殿は領内の搦手の境にでも屋敷を移されて要害を守って頂く。実質的には隠居だな。そこで一門の弓馬のご指導でもしていただこうではないか。そうなれば、御領内は安泰となろう」
すっかり酔いが回っているのか、左近は嬉しそうに夢物語を語っている。それを聞き流しながら、図書亮も、この案は悪くないと思い始めていた。
夢物語のようではあるが、確かに左近の言うような姫だとすれば、似合いの婚礼には違いなかった。まだ十三歳とは言え、為氏にはいずれ二階堂家の惣領として、妻も持たせなければならない。何を考えているか分からない周辺の豪族の姫を貰い受けるよりも、同族の姫の方が一門衆や四天王の賛同を得やすいのは、間違いなかった。
「それに、もしもお二方の間に御曹司がご誕生になってみろ。聟舅の仲はますます深まるだろう。そうなれば、二階堂家は繁昌安泰となる」
もはや、左近はうっとりと夢見る乙女のような心地で、気持ちよさそうに語っている。
「お前、女が恋物語を語っているようだぞ」
すっかり酔いが回っている幼馴染を、ついからかってやりたくなった。どうやら、左近より一足遅れて自分も酔いが回ってきたらしい。
「たわけ。この地にやってきて、早々と女を連れ込んでいるお前と一緒にするな」
思わぬ反撃を受け、図書亮は酒に噎せた。再びりくのことを蒸し返さなくてもいいではないか。
「だから、あの人はただの世話役だと言っただろう」
そうは言いつつも、どこかで胸の奥が痛んだ。自分より遥かに年下の主の婚礼が決まるかもしれないというのに、自分には一向に春がやってきてくれそうにもない。唯の世話役とはいえ、一里半の道をせっせと通ってきてくれるりくを「ただの女」扱いするのは、何だか申し訳ないような気もしてきた。
「それに、だ」
酔った勢いで、左近の呂律は段々と怪しくなりはじめていた。
「今は、天下が半ば乱れ一日も安全に暮らすことが出来ない。岩瀬や安積と隣合っている田村の領地は広く、兵の数は多い。今や田村は、安積郡の大概を手に入れて麾下に治めている」
呂律が回らないながらも、左近はさらりととんでもない事を述べた。
「そうなの……か?」
その情報は、どこからもたらされたものか。須賀川城内だけではなく、隣地の伊東一族からこっそり流されてきた情報なのかもしれなかった。
まったく、この男はとんでもない情報を持ってきたものだ。だが、四天王の心、とりわけ美濃守の心を動かすとすれば、こちらの情報かもしれない。
「田村は、次は岩瀬郡を目掛けて虎視眈々とこの争いを眺めているに違いない。今は攻め時を待っているだけだ。鴫と蛙の双方が睨み合い疲れているのをな。その隙に乗じて、攻めてくるに違いないだろう」
図書亮の頭からは、先程の浮かれた気分は既に吹き飛んでいた。左近は、酔った振りをしているだけではないのか。
幼馴染みの言うように、隣国の田村とよく小競り合いが起きているというのは、美濃守や源蔵からも説明があった。須賀川の北東にある守山や谷田川は田村領であり、確かに、須賀川の同門同士の争いは田村も関心を抱いているに違いない。
酔っ払ってはいるが、左近の言い分は的を得ていた。
ふと気づくと、戸を叩く音がする。図書亮は、顔を青ざめさせた。佩刀を引き寄せ、窓の格子の隙間から外の様子を窺う。
「図書亮。誰か居るだろう」
声の主を確認して、ほっとした。相手は、忍藤兵衛と倭文半内だった。二人とも、左近とは面識がある。
「今開ける」
図書亮は小声で答えると、細く戸を開けた。その隙間から室内に入ってきた二人は、左近の姿を認めて絶句している。
簡単に二人に左近太夫の持ってきた話をしてやると、二人も考え込んでいる様子だった。
「――確かに、御屋形のためにも悪い話ではないと思う」
藤兵衛も、左近の案には賛成のようだった。
「俺たちも、できればそろそろ和田衆に認められないといけないしな」
半内も、肯く。半内も、元々は名を上げることには熱心だ。鎌倉にいた時分から、図書亮や藤兵衛はそれはよく知っていた。勿論、左近も。
武功を立てるというのとは違うが、この話がまとまれば、和田衆の家中の者として認められるに違いなかった。
「まずは明日にでも、美濃守様に話を通そう」
図書亮は、腹を括った。あの人は怖いが、思慮深い人だ。己の感情だけでこの話を判断することはないだろう。
だがその一方で、左近に釘を差すのを忘れなかった。
「左近。今日のところは見逃してやる。だが、婚礼が成立するまでは、二度と和田の地に足を踏み入れるな」
図書亮の言葉に、へにゃりと左近は眉を下げた。情けないような、泣き出しそうな、そんな表情である。
「そこまで言うことはないだろう……」
まだ酔いが残っているのか、このまま泣き上戸に化けそうな左近であった。
「いや、図書亮の言う通りだ。お前の訪問が須田一門の衆に見つかってみろ。須賀川の間諜と疑われ、俺たち皆が殺されても文句は言えない」
藤兵衛の言葉に、左近は肩を震わせた。
哀れだが、これもこの世の習いだ。まだ体に酔いが残っているのを感じながら、図書亮は気を引き締めた。
現在、図書亮が伺候しているのは大河のほとりにある「峯ヶ城」だ。別名、伏見館。文字通り、伏見岩の上にあり逢隈川が臨め、その岸壁は切り立った断崖となっている。
その峯ヶ城の隣に、美濃守は新しく為氏の館を作らせていた。こちらは「岩間」と呼ばれる土地であり、現在、母屋を始めとする建物を造らせている最中である。何かことがあれば、美濃守が為氏の元へすぐに駆けつけられる体制だ。
そこから数丁離れたところには和田館があり、こちらの方は目の前に平地が開けている。峯ヶ城と比較すると平らな土地であり、どこかのんびりした空気が漂っている。美濃守は「こちらに軒を用意してやる」と決め、新参者も含めて多くの旗本がこちらに屋敷や仮寓を構えた。
和田館に仮居を構えた図書亮は、鎌倉にいた頃からの馴染みである忍藤兵衛や倭文半内と共に行動することが多い。だが、流れとして時折峯ヶ城にも伺候しなければならず、直属の上司となった須田美濃守の一門とも、度々顔を合わせた。何せ、二階堂家に次ぐ版図を持つ一族だから、その縁者もまた多いのである。
須田一族の長である美濃守は、四十路に手が届くところだ。りくの伯父である安房守と特に仲がいいようで、二人でよく談笑しているのを見かける。
須田家の惣領として、図書亮を二階堂氏に引き合わせてくれた安藤綱義の他に、その息子である安藤帯刀(左馬助)、服部監物、小板橋丹波がよく側に付き従っている。惣領というだけあって、家臣の数は他の兄弟よりも多いようである。
次男である佐渡守秀泰は、三十五歳。彼は市之関や小作田を差配し、温厚篤実な性格だ。地元衆の旗本として江藤、小林、柳沼といった者たちを使いながら、二階堂一族に遠く縁があるという樫村も、彼の配下だった。最近では、鎌倉からの下向の際に二階堂家の「旗本」に加わった相生兄弟も、彼と一緒にいることが多い。
三男の三郎兵衛尉秀房は、三十歳。袋田を支配し、四天王の一人である遠藤雅楽守とともに、会津への牽制役も兼ねている。遠藤雅楽守の差配する「山寺」からは北の方向に会津街道が伸びており、安積郡の伊東、そしてそこから北西に山を越えれば会津の蘆名氏が領地を構える。そのためか、どこか神経質な印象を受けた。彼には、永瀬角之介がつけられている。
その他に、二十七歳になる四男の紀伊守秀幹は、石川氏への備えとして竜崎を任され、末息子の源蔵秀顕は、浜尾の一部や江持、堤を任されている――。
「――というのが、うちの大まかな支配図だ」
須賀川の地図を丁寧に指しながら、図書亮と同い年だという源蔵は説明してくれた。側には、三島木右膳・治郎太という家臣がついている。三島木も、古くから須田に仕えている家柄らしい。
「二階堂の本家より、支配領域が大きいのでは?」
苦笑しながら、図書亮は答えた。よく、それで主君が妬かないものだと感じたのだ。
「そんなことはないさ。二階堂家は西衆との分も合わせれば、会津の蘆名と国境を接しているからな」
どうやら、「行村公」の系統は岩瀬郡でも西部に領地を持つ一族が多く、それらは「西衆」と呼ばれているとのことだった。確かに、初日にあの「治部大輔」の非をあげつらっていた「矢田野左馬允」などは、会津の蘆名と国境が近い辺りを差配しているらしい。
美濃守に対してはまだ苦手意識が拭えないが、その弟たちは年が近いこともあり、中でも五男の源蔵とはうまが合った。
「それにしても、あそこまで治部大輔殿が天狗になっているとは思わなかった」
源蔵がぼやく。
「お知り合いで?」
源蔵があまり治部に敵愾心を見せていないのは、意外だった。
「お知り合いも何も。子供の頃には治部殿に抱かれたこともある」
つまり、二階堂家と須田家は体裁としては臣下の礼を取っているものの、実質的には対等にも近い密接な関係なのだろう。源蔵の説明によると、両家とも岩瀬に土着したのは鎌倉時代に源頼朝が奥州を征伐したのがきっかけだったという。
「やっぱり、あの永享の乱から色々と狂ったように思う」
それは、図書亮も同感だった。自分もあの戦いで父が自害しなければ、名門一色家の嫡子として、今でも鎌倉に住んでいただろうから。
「ところで一色殿は、鎌倉にいた時はうちの安藤と縁があったというが?」
「そうです。やはり永享の乱の折に、式部少輔殿に近所の誼で命を救われました」
安藤も幾人か同姓がいるから、都度呼び方を工夫しないとならず、ややこしい。
「安藤の爺も、困っている者は見捨てておけない性質だから」
そう言うと、源蔵はからからと笑った。
それにしても。
和田館はまずまず居心地がいいが、どことなく鎌倉が恋しくなる。そもそも、「和田」の地名からして、あの有名な「和田合戦」で当地に流されてきた「和田平太胤長」が、自分の名字をこの土地に残したという。そればかりか、和田館のある場所には、なぜか六体の仏まで掘られているのだった。この大仏は、一説によると弘法大師が彫ったという。図書亮も人並みには信心を持っているが、伏見館に伺候する途中で仏像を見上げると、目が合ってぎょっとすることがある。なかなかよく出来ており、源蔵によると、「いつ掘られたのか正確な年代はわからないが、子供の頃からあった」のだそうだ。
また、乳不足の夫人が大仏の胸を削り、それを粉にして煎じて飲むと、乳が出るようになるのだといい、仏像の胸の辺りはわずかに抉れていた。
二階堂家の旗本に加わった以上、それなりに働かなくてはならない。そんな図書亮に割り当てられたのは、源蔵と共に須田の差配している領地を見回る仕事だった。まだ当地には馴れていないだろうし、地理を把握していない以上戦力にならないからだろうが、同い年の源蔵が「物頭格」の仕事を任されているのを見ると、少し悔しい。
そんな図書亮だが、今日も仕事を終えて小屋へ戻ると、安房守の姪の「りく」がいた。どうやら、いつでも戦に出られるように、先日の戦いで少々綻びていた具足の修繕をしてくれていたらしい。
「一色様、お帰りなさいませ」
「ただ今帰りました」
図書亮も、軽く肯く。夫婦ではないので、彼女の世話が少々うっとおしいと感じることもある。そのためか、二人の関係は至極あっさりとしたものだった。
「お食事も用意しておきました」
夕食といっても、飯に汁、そして芋を煮たもの。正直なところ、一色家の京風の味に慣れ親しんだ図書亮の舌には、りくの作る料理はやや辛すぎるのだった。だが、上げ膳据え膳何とやらで、作ってもらえるだけでも独り身には有り難い。
いつもだったらここでりくは図書亮が食事を終えるのを待って、その後片付けをすると、木舟への道を帰っていく。さすが安房守の姪とでもいうのか、馬に乗るのもお手のもののようで、よく馬に乗ってやってきていた。
ところが今日は給仕をしながら、落ち着かない様子だった。
「りく殿。どうされた」
「いえ。一色様がお帰りになる少し前に、見知らぬ男が来たもので」
図書亮は、眉を顰めた。家中の者とは、和田館か峯ヶ城で顔を合わせば用が事足りる。独り身の図書亮のところへわざわざ訪うこと自体が、奇異なのだ。
この須賀川の地に、為氏に付き従ってきた者以外の知り合いなどいるはずがなかった。
「りく殿は、その男に心当たりは?」
りくは、首を横に振った。だが同時に、あ、と声を漏らした。
「ご伝言がありました。『左の字と言えば、図書亮にはわかる』と」
「左の字……」
さあっと血の気が引くのが、自分でも分かった。あの男か――。
「りく殿。この事、どうぞご内密に」
絶対に、この訪問が外部に漏れてはまずいのだ。そんな図書亮の様子に、りくは困惑しているようだった。
「ですが、伯父上や美濃守様には……」
今は、治部大輔のことで皆が神経を尖らせている。たとえ女子供でも、怪しい者を見かけたら報告するのが当然だった。
「私から皆様に話します。りく殿にご迷惑をおかけするような事は致しません」
言いながら、嘘くさいな、と自分でも思った。だが、話すに話せない事情がある――。
りくが帰ってから一刻もしないうちに、ほとほとと小屋の戸が叩かれる音がした。辺りを窺い、人目がないのを確認して、戸を開ける。
何か言おうとした男を制して、口に人差し指を当てる。誰かに声を聞かれたら困るのだ。
相手もそれを察して、黙って小屋に入ってくる。雨戸も締め切り、音が漏れないようにしてから、図書亮はようやく息をついた。
「何をしに来た」
図書亮は、来訪者をじろりと睨みつけた。
「久しぶりに朋友に会ったというのに冷たいじゃないか、図書亮」
男は、にやにやと笑っている。
「馬鹿を言え。相手の迷惑も考えずにやってくる者のどこが朋友だ」
憎まれ口を叩くが、相手の言う事もあながち間違いではない。
男は鎌倉にいた頃からの幼馴染、伊藤左近太夫だった。だが、この男は現在、治部大輔の配下にいるのである。元々は安積郡の伊東氏の縁戚であり、その縁で、彼は図書亮より早く二階堂家に接近していたのだった。
「お前がもう女を作っているとは、思わなかったぞ」
図書亮の緊張をほぐそうとしているのか、左近は軽口を叩いた。図書亮の留守中に、りくが来ていたことを指しているのだろう。だが、図書亮はとてもそんな気分ではない。
「馬鹿。あの人は、ただの世話役だ」
今のところは、そうとしか形容しようがない。だが、彼女がどこまで信用できるか。今にも父である下野守に告げて、早々と手打ちの兵がやってくるのではないかと気が気ではなかった。
「まあ、お前に会えて嬉しいのは本当だ」
先程までの軽薄な態度とは打って変わり、左近はしみじみと述べた。確かに元は幼友であるから、その想いは嘘では無いだろう。まさか、一年前には敵味方に別れることになるとは思わなかったが。
左近の言葉に絆され、図書亮は寝酒用の酒を出してやった。冷酒だが、幸い、左近は気にしていないようだ。
杯を重ね酔いが廻るごとに、左近の口は滑らかさを増していった。
どうやら彼も、内心ではこの無益な争いに心を痛めているらしい。
「――だから、治部大輔殿は叛逆の意図は全くない。俺はそう思う」
何の根拠があるのか、先程から左近はそればかりを繰り返している。
「私は、危うく命を落としかけたがな」
酒を注いでやりながらも、図書亮は冷ややかに答えた。まったく、須賀川に来て早々と矢を射掛けられた身にも、なってほしい。
「だから、治部殿が今首を差し伸べて降参したとしてもだ。為氏公はともかく、ご一門衆や四天王の方々に首を刎ねられ、その首を獄門に晒されるのではないかと、お疑いになっている」
「ふん」
それは、武士としての当然の覚悟が有るべきではないか。治部大輔という男には会ったことがないが、和田衆の間では悪の権化のように思われているのは間違いない。
「治部大輔殿が出家でもしたらどうだ」
冷たく言い放ってやると、左近は頭を振った。この地に来たばかりのお前には何も分かっていない、とでも言いたげだ。
「たとえ治部殿が出家されたとしても、お前たち和田衆の者には何の益もないだろう」
「いや、あるさ。須賀川城に入れるという大義名分が」
それは、鎌倉府からも言われていることだった。須賀川・岩瀬地方の主は為氏であることを内外共に、広く知らしめなければならない。
「ご一門衆や四天王の方々は、納得されまい。例え治部殿が夜に紛れて城を落ち延び、世に背を向けられたとしてもだ。ゆくゆくは治部殿の運命は極まり、死を遁れることは出来まい」
図書亮の脳裏を、あの美濃守の謹厳そのものの顔が過った。確かに、あの御方は納得するまい。それに――。
「城内の兵の結束は、なかなかのものだしな」
それは、わずかながら戦った図書亮でも感じるものだった。そもそも烏合の衆であれば、治部大輔があれほどの戦差配をするのは無理だろう。嫌な男なのかもしれないが、一廉の人物なのは間違いなかった。
「それにしても、お前。この和田館に来るということは、それなりの覚悟を決めてきているのだろうな」
図書亮は治部云々よりも、そちらの方が気になった。りくには口止めをしたが、恐らく彼女は伯父に告げるだろう。いや、その前に須田一門の者にこの来訪を嗅ぎつけられる方が、早いかもしれない。
いざとなったら、自分の手でこの幼馴染みを斬る。内心、そこまでの覚悟を決めつつある図書亮とは反対に、左近は寛いだ雰囲気を崩さなかった。
「もちろん。俺がここで腹を切ったとしてだ。それで須賀川の城中の者が助かるわけでもないし、せいぜい為氏公の鬱憤が多少晴らされるくらいだろう」
左近は、ゆったりと笑った。
「では、何をしにきた」
図書亮は次第に腹が立ってきた。どうも、左近は降参しに来たわけでもないらしい。早く降参してくれて命を全うしてくれればいいのにと願いつつも、いっそこのまま須田一門の者にこの男を引き渡そうかと考えたときである。左近は思いがけない情報を口にした。
「なあ、図書亮。お前、治部殿に姫がいらっしゃるのを知っているか?」
「それは、初耳だ」
それも当然で、図書亮は先日須賀川に来たばかりである。敵方の内情まで知るわけがなかった。
「確か、為氏公は十三だという話だったな」
左近は、身を乗り出して図書亮の目を見つめた。
「姫は十二になられる。お似合いだと思わないか」
段々、左近の言わんとしている画図が見えてきた。
「つまり、その姫を為氏公の御台に迎えよ……と?」
「そうだ」
確かに、悪い話ではない。だが、民部大輔の失策の話が頭に引っかかっていた。
「どのような姫なんだ?」
すると、左近は滔々と語りだした。名は三千代姫といい、見目形は、正に楊貴妃や西施も形なしであり、世に並ぶほどのない美女であると、城内や城下でも評判らしい。まだ幼少の身でありながらも、先の聖人の書を鑑賞し、歌道にも長けているという。その教養の深さは、彼女の兄である行若にも劣らない程だった。また、父母に尽くす孝心を失わず、憐れみ深いお人柄。人に深い情けをかけられる優しい御方でありながら、愛嬌もあり、素直なご気性であられる。この姫を、治部大輔は掌中の珠玉の如く、大切にされている。
この自慢話は、どこかで聞き覚えがある。あの、安房守や遠藤雅楽守が「若君」を自慢していた様子に、そっくりなのだった。
ということは、どこまで信用して良いものやら疑ってかからねばなるまい。
「……まあ、悪い話ではないかもしれんな」
たとえ相手は幼馴染みとは言え、現在は敵方の人間だ。言葉尻を取られないように、図書亮は慎重に答えた。
「だろう?為氏公のお人柄は、こちらにも聞こえてきている」
意気込んで、左近は身を乗り出してきた。その息は、やや酒臭い。酔っ払いの戯言なのだろうか。
「もしこの婚礼が成立すれば、為氏公と治部殿は聟舅の仲となられる。そうなれば、たとえ今啀み合っているとしても、和睦の空気に持っていきやすくなるのは間違いない」
「ふむ」
そういえば、為氏は一族同士の悪口を好まないらしい。彼もまだ年少の身でありながら、一族の長として、何とかこの同族同士の争いを鎮めたいに違いなかった。
「聟舅の仲となられたならば、いくら治部殿でも為氏公を須賀川の城へお迎えしないわけにはいかないだろう。そこで、為氏公は聟君として無傷で入城できる。治部大輔殿は領内の搦手の境にでも屋敷を移されて要害を守って頂く。実質的には隠居だな。そこで一門の弓馬のご指導でもしていただこうではないか。そうなれば、御領内は安泰となろう」
すっかり酔いが回っているのか、左近は嬉しそうに夢物語を語っている。それを聞き流しながら、図書亮も、この案は悪くないと思い始めていた。
夢物語のようではあるが、確かに左近の言うような姫だとすれば、似合いの婚礼には違いなかった。まだ十三歳とは言え、為氏にはいずれ二階堂家の惣領として、妻も持たせなければならない。何を考えているか分からない周辺の豪族の姫を貰い受けるよりも、同族の姫の方が一門衆や四天王の賛同を得やすいのは、間違いなかった。
「それに、もしもお二方の間に御曹司がご誕生になってみろ。聟舅の仲はますます深まるだろう。そうなれば、二階堂家は繁昌安泰となる」
もはや、左近はうっとりと夢見る乙女のような心地で、気持ちよさそうに語っている。
「お前、女が恋物語を語っているようだぞ」
すっかり酔いが回っている幼馴染を、ついからかってやりたくなった。どうやら、左近より一足遅れて自分も酔いが回ってきたらしい。
「たわけ。この地にやってきて、早々と女を連れ込んでいるお前と一緒にするな」
思わぬ反撃を受け、図書亮は酒に噎せた。再びりくのことを蒸し返さなくてもいいではないか。
「だから、あの人はただの世話役だと言っただろう」
そうは言いつつも、どこかで胸の奥が痛んだ。自分より遥かに年下の主の婚礼が決まるかもしれないというのに、自分には一向に春がやってきてくれそうにもない。唯の世話役とはいえ、一里半の道をせっせと通ってきてくれるりくを「ただの女」扱いするのは、何だか申し訳ないような気もしてきた。
「それに、だ」
酔った勢いで、左近の呂律は段々と怪しくなりはじめていた。
「今は、天下が半ば乱れ一日も安全に暮らすことが出来ない。岩瀬や安積と隣合っている田村の領地は広く、兵の数は多い。今や田村は、安積郡の大概を手に入れて麾下に治めている」
呂律が回らないながらも、左近はさらりととんでもない事を述べた。
「そうなの……か?」
その情報は、どこからもたらされたものか。須賀川城内だけではなく、隣地の伊東一族からこっそり流されてきた情報なのかもしれなかった。
まったく、この男はとんでもない情報を持ってきたものだ。だが、四天王の心、とりわけ美濃守の心を動かすとすれば、こちらの情報かもしれない。
「田村は、次は岩瀬郡を目掛けて虎視眈々とこの争いを眺めているに違いない。今は攻め時を待っているだけだ。鴫と蛙の双方が睨み合い疲れているのをな。その隙に乗じて、攻めてくるに違いないだろう」
図書亮の頭からは、先程の浮かれた気分は既に吹き飛んでいた。左近は、酔った振りをしているだけではないのか。
幼馴染みの言うように、隣国の田村とよく小競り合いが起きているというのは、美濃守や源蔵からも説明があった。須賀川の北東にある守山や谷田川は田村領であり、確かに、須賀川の同門同士の争いは田村も関心を抱いているに違いない。
酔っ払ってはいるが、左近の言い分は的を得ていた。
ふと気づくと、戸を叩く音がする。図書亮は、顔を青ざめさせた。佩刀を引き寄せ、窓の格子の隙間から外の様子を窺う。
「図書亮。誰か居るだろう」
声の主を確認して、ほっとした。相手は、忍藤兵衛と倭文半内だった。二人とも、左近とは面識がある。
「今開ける」
図書亮は小声で答えると、細く戸を開けた。その隙間から室内に入ってきた二人は、左近の姿を認めて絶句している。
簡単に二人に左近太夫の持ってきた話をしてやると、二人も考え込んでいる様子だった。
「――確かに、御屋形のためにも悪い話ではないと思う」
藤兵衛も、左近の案には賛成のようだった。
「俺たちも、できればそろそろ和田衆に認められないといけないしな」
半内も、肯く。半内も、元々は名を上げることには熱心だ。鎌倉にいた時分から、図書亮や藤兵衛はそれはよく知っていた。勿論、左近も。
武功を立てるというのとは違うが、この話がまとまれば、和田衆の家中の者として認められるに違いなかった。
「まずは明日にでも、美濃守様に話を通そう」
図書亮は、腹を括った。あの人は怖いが、思慮深い人だ。己の感情だけでこの話を判断することはないだろう。
だがその一方で、左近に釘を差すのを忘れなかった。
「左近。今日のところは見逃してやる。だが、婚礼が成立するまでは、二度と和田の地に足を踏み入れるな」
図書亮の言葉に、へにゃりと左近は眉を下げた。情けないような、泣き出しそうな、そんな表情である。
「そこまで言うことはないだろう……」
まだ酔いが残っているのか、このまま泣き上戸に化けそうな左近であった。
「いや、図書亮の言う通りだ。お前の訪問が須田一門の衆に見つかってみろ。須賀川の間諜と疑われ、俺たち皆が殺されても文句は言えない」
藤兵衛の言葉に、左近は肩を震わせた。
哀れだが、これもこの世の習いだ。まだ体に酔いが残っているのを感じながら、図書亮は気を引き締めた。
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