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第三章 若木萌ゆ
不穏
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一〇日ほど家を空けただけだというのに、案の定、早くも会津には雪が積り始めていた。やはり、二本松より雪が早い。
「お帰りなさいませ」
伊都が、いつものように手をついて出迎えてくれた。戊辰の役が終わったときはわずか一〇歳だったが、このようなところが、やはり武家の娘だと思う。
「ご家族の方々にはお会いできましたかな」
清尚が、笑いかける。だが、清尚には剛介の様子から答えはとうに分かりきっていた。
「ご心痛をおかけしました。皆息災で、下長折で暮らしておりました」
伊都は、やや目を見開いた。夫の心からの笑顔は、滅多に見たことがない。よほど二本松への帰郷が嬉しかったのだろう。
「それは良かった」
「父が、礼を述べたいと申しておりました」
剛介は、深々と頭を下げた。
「私も、いつか武谷様にお目にかかりたいものですな」
義理の息子に対して、清尚は非常に丁寧な喋り方をする。一緒に暮らして八年になるが、未だにどこか「二本松からの預かり物」という意識があるらしかった。
ふぇぇと、小さな泣き声が上がった。貞信が起きたようだ。
「どれ」
剛介は、貞信を抱き上げた。小さな手が、剛介の頭に伸ばされた。貞信が、剛介の短い髪を掴んで引っ張る。
こらこら、痛いじゃないか。
そう言いながらも、剛介は上機嫌で息子をあやし続けた。
***
貞信を寝かしつけるために、伊都が隣の部屋へ息子を連れていってしまうと、清尚は剛介を手招きした。
「永岡殿のことを聞いたか」
永岡久茂は、先ごろまで斗南藩の会津藩士の殖産のために、小参事として駆け回っていた人物である。どうやら、剛介が二本松に帰郷している間に、変事があったようだ。
「萩の前原一誠と、共謀していたらしい」
義父の言葉に、剛介は愕然とした。
「そんな馬鹿な」
「静かに。貞信が起きる」
清尚が剛介をたしなめた。
永岡は維新の後、前原一誠と知り合いその人物に感服し、意気投合して肝胆相照らす仲になったという。
一〇月二十八日、元参議の前原一誠が約三〇〇名を集めて殉国軍を結成し、山口県庁を襲撃しようとした。その際、前原の一味は永岡に「ニシキノミセビラキ」(錦の店開き)という電報を送った。この電報を受け取った永岡は、同志十八名と共に東京新富座で合流。前原と東西で呼応するべく、千葉県庁を襲撃しようとした。だが、永岡は千葉に乗り込む前に、密偵を放っていた警視局に一連の動きを察知されていた。当時、既に危険人物として監視の対象になっていたのである。
二十九日払暁、永岡は東京思案橋から千葉に向かおうとしたところ、その場にいた警吏が永岡に気付いた。そのため、乱闘となり、永岡は傷を負って捕縛された。千葉で事を起こそうとしたのは、ここに会津出身者の知己が多かったからである。後に、十年一月に、永岡は獄中で病死した。
永岡は、斗南藩運営の代表者の一人だった。その斗南藩も結局は廃藩置県で消滅してしまい、「何のために北の地で辛苦を舐めてきたのか」と、恨む者もいた。会津の者同士でも内紛があったとも言える。
「これで、また会津の傷が一つ増えたな」
清尚は、ため息をついた。その通りである。世間では、「これだから会津の者は」と見る向きも出てくるだろう。
「ですが元を正せば、薩摩や長州の私闘ではございませんか」
剛介の口調がきつくなる。
確かに、二本松の半左衛門がいみじくも言ったように、戊辰の時と似ている。薩長の力に物を言わせて鎮圧させようというやり方は、あの頃から変わっていない。御一新を掲げたは良いが、強引な手法も随分と目につく。特に士族は割りを食った。藩が廃止され、俸禄もなくなった。知行地も、強制的に国に取り上げられ、苦労している者も多い。おかしなもので、そうした不満は、特に西南の地で渦巻いているようだった。
もっとも士族の生活が苦しいのは、会津も同じだ。それどころか、会津は不平を言うことすら許されていない。剛介から見れば、所詮、元官軍同士の内輪揉めで何をしているのかと言いたいところである。
「だが、そういう考えではいつか、また身を滅ぼすと私は思う」
そういう清尚も、実は薩長嫌いである。上の息子は鶴ヶ城の籠城戦に加わり、下の息子は白虎隊として熊倉の戦いで命を落とした。薩長への憎悪は、少なからず清尚も持っていた。会津では、ごく一般的な感情である。
「私も、薩長は嫌いだ。だが、好き嫌いのみで大局を見失っては、身を滅ぼす元であろう」
「大局を見失うとは?」
「武士は、確かに生活の糧を奪われた。だが、その不満を述べて乱を起こしては、外の諸国に後れを取るばかりであろう」
会津は、開国直前は蝦夷地防衛の任務にも当たっていた。多くの藩士を極寒の蝦夷地に送り、ロシアの侵略に備えたのである。
「木戸や大久保は外の国々の恐ろしさを知っているから、家名に囚われずに優秀な人材を登用したい。だからこそ、大局の見えぬ戦好きの者から距離を取っているのであろう」
そう言うと、清尚はため息をついた。
「では、義父上は此度の永岡様の挙動は無謀だったとお考えなのですか?」
剛介の言葉に、清尚が渋々といった体で頷く。
「永岡殿の気持ちも分かるがな……」
翌日、署へ出勤して上司や同僚に長期休暇の礼を言いに行くと、やはり話題は萩の乱と思案橋の件だった。
だが、剛介はそれを冷ややかに受け流した。どこかで今さら、という思いがある。二本松に帰郷し、かつての同胞
年末になると、義兄の敬司が会津に戻ってきた。この兄と酒を共にするのも久しぶりである。
敬司は、甥っ子の成長ぶりに目を細めて、抱き上げたままなかなか手放そうとしなかった。親馬鹿ならぬ、伯父馬鹿である。
そんな兄に呆れて、伊都はやっとのことで息子を奪い返し、隣の部屋へ連れて行ってしまった。伊都は、男同士の難しい話には加わりたがらない。会津では、男女で受ける教育内容に大きく隔たりがあり、伊都が政局などの論を聞いてもよく理解できないからであろう。
「東京はいかがです?」
伊都に聞こえないように気遣いながら、剛介は、敬司に訊ねた。
「九州がきな臭いと、大蔵省でも噂になっている」
敬司が首を振る。
「私学校を掌中に収めるか。それとも火を自らの手で起こさせるか」
「……」
剛介は、顔を顰めた。やはり、戊辰のときと同じ手口だ。戊辰でも、会津が恭順の意を示していたのにも関わらず、無下に撥ねつけて、会津を亡国に追いやったではないか。
「それよりも私が気になるのは、川路殿のお考えだな」
「川路様?」
義兄の言う川路とは、警視庁を創設した川路利良のことだろう。剛介は地方警察の所属だから直接の縁はないが、剛介にとっては遥かに上の統率者でもある。もっとも、その川路とて薩摩の人なのだが。
「佐賀の乱の経験を踏まえて、最初から武芸に通じた者を選抜して事に当たらせるつもりではないか。そのような話が聞こえてくる」
「ですが、徴兵がいるでしょう」
剛介の疑問は、もっともだった。四年前に徴兵令が制定され、条件に適合するものは、一定期間軍隊に所属することになった。もっとも、戸主やその世嗣、官吏などは除外されているので、剛介の周りではまだ従軍したという話は聞いたことがない。
敬司は首を横に振った。
「九州全体に反乱が広がるとすれば、徴兵の人数だけでは足りないだろう。それに、反乱を起こしているのは士族だった者たちだ。武器を手にしたことのない者等が、太刀打ちできるわけがない」
あり得ることだった。確かに、被害が九州全土に及ぶのであれば、徴兵した兵だけで、足りるわけがない。それに、薩摩の兵の手強さは剛介自身が身を持って知っていた。
「大久保などのお偉方は、西郷がどのように動くと考えていらっしゃるのでしょう」
ふむ、と敬司は唸った。
「一つは、船を使って東京や大阪に上陸する。二つ目は熊本と長崎の鎮台を制圧した後に、中央に進出するか。そして、三つ目は鹿児島で狼煙を上げ、密かに人心を掌握せしめ、いずれは政権を手に入れる」
義兄は、指を折りながら説明した。
(迷惑な)
剛介の思いを読み切ったかのように、敬司は苦り切った顔をした。
「鹿児島県令の大山綱良も、西郷を抑えきれぬそうだ。本当のところは、自分の利を守りたいがために、西郷にへつらっているかもしれんがね」
敬司は、鼻を鳴らしてせせら笑った。理由がある。大山綱良は、かつて奥羽鎮撫総督府の総司令官だった。結局鎮撫という名の元に奥州を好き放題荒らし、県令としても幾つもの失策を犯した。あらゆる面で三流であったということか。
まあ、表向きのことは我々が論じても仕方があるまい。そんな剛介の思いを汲み取ったかのように、敬司は話題を変えた。
「それはそうと、剛介。二本松に帰ってきたそうだな」
「はい」
敬司にも、二本松への里帰りは書面で報告してあった。本当は、その事を話し合いたかったのである。義父には切り出しにくいが、半左衛門の今村家への養子の話や、水野の話も気になっていた。遠藤家の現在の戸主は、敬司が東京にいるため、未だ清尚のままだった。遠藤家の世嗣である敬司と、まずは腹を割ってみるか。
剛介は、二本松で分家を継ぐ話があることや、水野の話を説明した。
「お主はどうしたい」
「迷っています」
「だろうな」
敬司が頷いた。
剛介は未だに迷っていた。義父や義兄への義理も果たしたい。だが、二本松で見た父母は老いていた。兄が当地にいるとは言え、やはり肉親の情は捨てがたいものである。
そんな剛介の決断を、敬司はできる限り尊重するつもりだった。義理の弟は、よくやってくれていると思う。仮に二本松に戻るとなれば、伊都や貞信を二本松に連れて行くことになるかもしれないが、そのときは、自分が会津に戻れば良い。剛介は、会津への恩義は十分に返したのではないか。
「そもそも、お前自身が巡査に向いていない」
敬司がからかうように、笑った。ムッとした剛介を嗜めるように、敬司は手を振った。
「いや、気質の問題だ」
「どのような意味でしょう」
「お前、未だに薩長を憎んでいるだろう」
図星だった。戊辰の怨みは、ずっと抱えている。
「それは、お前だけではない。会津の人間も同じだ。だが、賊軍の汚名を晴らすためには、ときにはその薩長の官軍に従って、獅子身中の虫を退治役となることも、厭ってはならぬ。そう考えている者も、多いだろうな。佐川様などは、その筆頭だ」
佐川官兵衛は、戊辰戦争で活躍した会津の武将だった。あの戦いから随分経ったが、未だに会津の英雄の一人である。その人気に目をつけ、政府は佐川を宥めすかして大警部の地位を与えた。郷里の士族たちの仕官の責任もある。佐川は、同郷の士族を救済する意図もあり、これを引き受けた。
「薩長は、腹黒い。我々の思惑を読み切った上で、尚も、我々の信義を逆手に取って利用しようとする者も多いだろう。だが、巡査を続ける限り、薩長の下について手足となって働かざるを得ない」
敬司はきっぱりと言った。
痛いところをつかれた。勤務は地元であっても、上に昇り詰めるには、必ず薩長閥の壁にぶつかる。
「お前が、汲々として薩長の手足になりたがるとは思えないがな」
敬司は苦笑している。剛介は、悄然とうなだれた。
「だが、地元で教師をやるというのならば、巡査よりは薩長閥の影響も少なかろう。お前は賢い。朋友が助けを求めているのであれば、それに応えるのも、お前らしい選択だと私は思う」
義兄は、そのように自分を評価していたのか。武士の子として育てられてきて、藩の為に尽くすことしか頭になかったから、教師という選択肢は考えてもみなかった。
襖の向こうから聞こえる二人の会話に、伊都はじっと耳を傾けていた。
夫の事はそれなりに理解しているつもりだったが、わからなくなった。
伊都が一〇歳の時に、夫は会津へ逃れてきた。二本松では十四で銃や刀を手にして戦い、母成峠の戦いから逃れてくる際に丸山様に保護されたのだという。
夫は優しいが、どこか茫洋として掴みどころがない。それでも口数は少ないながらも、父の清尚に礼節を尽くし、伊都や貞信を守ってくれている。夫としては家を大切にしてくれるだけ満足するべきなのだろうが、時折、もっと胸襟を開いてほしいと思うことがあった。
その夫が、先日、二本松に帰郷してきた。それ以来、輪をかけて伊都との会話が少なくなっていた。夫は何を思っているのか。伊都も二本松の話を聞いてみたいのに、いつも蚊帳の外である。
(どうして、剛介様と距離があるのかしら……)
貞信のことは可愛がってくれるが、夫婦でありながら、どこか自分に心を許していないところがある。いや、自分だけでなく会津の者全般に対して。
伊都は密かにそう感じていた。
「お帰りなさいませ」
伊都が、いつものように手をついて出迎えてくれた。戊辰の役が終わったときはわずか一〇歳だったが、このようなところが、やはり武家の娘だと思う。
「ご家族の方々にはお会いできましたかな」
清尚が、笑いかける。だが、清尚には剛介の様子から答えはとうに分かりきっていた。
「ご心痛をおかけしました。皆息災で、下長折で暮らしておりました」
伊都は、やや目を見開いた。夫の心からの笑顔は、滅多に見たことがない。よほど二本松への帰郷が嬉しかったのだろう。
「それは良かった」
「父が、礼を述べたいと申しておりました」
剛介は、深々と頭を下げた。
「私も、いつか武谷様にお目にかかりたいものですな」
義理の息子に対して、清尚は非常に丁寧な喋り方をする。一緒に暮らして八年になるが、未だにどこか「二本松からの預かり物」という意識があるらしかった。
ふぇぇと、小さな泣き声が上がった。貞信が起きたようだ。
「どれ」
剛介は、貞信を抱き上げた。小さな手が、剛介の頭に伸ばされた。貞信が、剛介の短い髪を掴んで引っ張る。
こらこら、痛いじゃないか。
そう言いながらも、剛介は上機嫌で息子をあやし続けた。
***
貞信を寝かしつけるために、伊都が隣の部屋へ息子を連れていってしまうと、清尚は剛介を手招きした。
「永岡殿のことを聞いたか」
永岡久茂は、先ごろまで斗南藩の会津藩士の殖産のために、小参事として駆け回っていた人物である。どうやら、剛介が二本松に帰郷している間に、変事があったようだ。
「萩の前原一誠と、共謀していたらしい」
義父の言葉に、剛介は愕然とした。
「そんな馬鹿な」
「静かに。貞信が起きる」
清尚が剛介をたしなめた。
永岡は維新の後、前原一誠と知り合いその人物に感服し、意気投合して肝胆相照らす仲になったという。
一〇月二十八日、元参議の前原一誠が約三〇〇名を集めて殉国軍を結成し、山口県庁を襲撃しようとした。その際、前原の一味は永岡に「ニシキノミセビラキ」(錦の店開き)という電報を送った。この電報を受け取った永岡は、同志十八名と共に東京新富座で合流。前原と東西で呼応するべく、千葉県庁を襲撃しようとした。だが、永岡は千葉に乗り込む前に、密偵を放っていた警視局に一連の動きを察知されていた。当時、既に危険人物として監視の対象になっていたのである。
二十九日払暁、永岡は東京思案橋から千葉に向かおうとしたところ、その場にいた警吏が永岡に気付いた。そのため、乱闘となり、永岡は傷を負って捕縛された。千葉で事を起こそうとしたのは、ここに会津出身者の知己が多かったからである。後に、十年一月に、永岡は獄中で病死した。
永岡は、斗南藩運営の代表者の一人だった。その斗南藩も結局は廃藩置県で消滅してしまい、「何のために北の地で辛苦を舐めてきたのか」と、恨む者もいた。会津の者同士でも内紛があったとも言える。
「これで、また会津の傷が一つ増えたな」
清尚は、ため息をついた。その通りである。世間では、「これだから会津の者は」と見る向きも出てくるだろう。
「ですが元を正せば、薩摩や長州の私闘ではございませんか」
剛介の口調がきつくなる。
確かに、二本松の半左衛門がいみじくも言ったように、戊辰の時と似ている。薩長の力に物を言わせて鎮圧させようというやり方は、あの頃から変わっていない。御一新を掲げたは良いが、強引な手法も随分と目につく。特に士族は割りを食った。藩が廃止され、俸禄もなくなった。知行地も、強制的に国に取り上げられ、苦労している者も多い。おかしなもので、そうした不満は、特に西南の地で渦巻いているようだった。
もっとも士族の生活が苦しいのは、会津も同じだ。それどころか、会津は不平を言うことすら許されていない。剛介から見れば、所詮、元官軍同士の内輪揉めで何をしているのかと言いたいところである。
「だが、そういう考えではいつか、また身を滅ぼすと私は思う」
そういう清尚も、実は薩長嫌いである。上の息子は鶴ヶ城の籠城戦に加わり、下の息子は白虎隊として熊倉の戦いで命を落とした。薩長への憎悪は、少なからず清尚も持っていた。会津では、ごく一般的な感情である。
「私も、薩長は嫌いだ。だが、好き嫌いのみで大局を見失っては、身を滅ぼす元であろう」
「大局を見失うとは?」
「武士は、確かに生活の糧を奪われた。だが、その不満を述べて乱を起こしては、外の諸国に後れを取るばかりであろう」
会津は、開国直前は蝦夷地防衛の任務にも当たっていた。多くの藩士を極寒の蝦夷地に送り、ロシアの侵略に備えたのである。
「木戸や大久保は外の国々の恐ろしさを知っているから、家名に囚われずに優秀な人材を登用したい。だからこそ、大局の見えぬ戦好きの者から距離を取っているのであろう」
そう言うと、清尚はため息をついた。
「では、義父上は此度の永岡様の挙動は無謀だったとお考えなのですか?」
剛介の言葉に、清尚が渋々といった体で頷く。
「永岡殿の気持ちも分かるがな……」
翌日、署へ出勤して上司や同僚に長期休暇の礼を言いに行くと、やはり話題は萩の乱と思案橋の件だった。
だが、剛介はそれを冷ややかに受け流した。どこかで今さら、という思いがある。二本松に帰郷し、かつての同胞
年末になると、義兄の敬司が会津に戻ってきた。この兄と酒を共にするのも久しぶりである。
敬司は、甥っ子の成長ぶりに目を細めて、抱き上げたままなかなか手放そうとしなかった。親馬鹿ならぬ、伯父馬鹿である。
そんな兄に呆れて、伊都はやっとのことで息子を奪い返し、隣の部屋へ連れて行ってしまった。伊都は、男同士の難しい話には加わりたがらない。会津では、男女で受ける教育内容に大きく隔たりがあり、伊都が政局などの論を聞いてもよく理解できないからであろう。
「東京はいかがです?」
伊都に聞こえないように気遣いながら、剛介は、敬司に訊ねた。
「九州がきな臭いと、大蔵省でも噂になっている」
敬司が首を振る。
「私学校を掌中に収めるか。それとも火を自らの手で起こさせるか」
「……」
剛介は、顔を顰めた。やはり、戊辰のときと同じ手口だ。戊辰でも、会津が恭順の意を示していたのにも関わらず、無下に撥ねつけて、会津を亡国に追いやったではないか。
「それよりも私が気になるのは、川路殿のお考えだな」
「川路様?」
義兄の言う川路とは、警視庁を創設した川路利良のことだろう。剛介は地方警察の所属だから直接の縁はないが、剛介にとっては遥かに上の統率者でもある。もっとも、その川路とて薩摩の人なのだが。
「佐賀の乱の経験を踏まえて、最初から武芸に通じた者を選抜して事に当たらせるつもりではないか。そのような話が聞こえてくる」
「ですが、徴兵がいるでしょう」
剛介の疑問は、もっともだった。四年前に徴兵令が制定され、条件に適合するものは、一定期間軍隊に所属することになった。もっとも、戸主やその世嗣、官吏などは除外されているので、剛介の周りではまだ従軍したという話は聞いたことがない。
敬司は首を横に振った。
「九州全体に反乱が広がるとすれば、徴兵の人数だけでは足りないだろう。それに、反乱を起こしているのは士族だった者たちだ。武器を手にしたことのない者等が、太刀打ちできるわけがない」
あり得ることだった。確かに、被害が九州全土に及ぶのであれば、徴兵した兵だけで、足りるわけがない。それに、薩摩の兵の手強さは剛介自身が身を持って知っていた。
「大久保などのお偉方は、西郷がどのように動くと考えていらっしゃるのでしょう」
ふむ、と敬司は唸った。
「一つは、船を使って東京や大阪に上陸する。二つ目は熊本と長崎の鎮台を制圧した後に、中央に進出するか。そして、三つ目は鹿児島で狼煙を上げ、密かに人心を掌握せしめ、いずれは政権を手に入れる」
義兄は、指を折りながら説明した。
(迷惑な)
剛介の思いを読み切ったかのように、敬司は苦り切った顔をした。
「鹿児島県令の大山綱良も、西郷を抑えきれぬそうだ。本当のところは、自分の利を守りたいがために、西郷にへつらっているかもしれんがね」
敬司は、鼻を鳴らしてせせら笑った。理由がある。大山綱良は、かつて奥羽鎮撫総督府の総司令官だった。結局鎮撫という名の元に奥州を好き放題荒らし、県令としても幾つもの失策を犯した。あらゆる面で三流であったということか。
まあ、表向きのことは我々が論じても仕方があるまい。そんな剛介の思いを汲み取ったかのように、敬司は話題を変えた。
「それはそうと、剛介。二本松に帰ってきたそうだな」
「はい」
敬司にも、二本松への里帰りは書面で報告してあった。本当は、その事を話し合いたかったのである。義父には切り出しにくいが、半左衛門の今村家への養子の話や、水野の話も気になっていた。遠藤家の現在の戸主は、敬司が東京にいるため、未だ清尚のままだった。遠藤家の世嗣である敬司と、まずは腹を割ってみるか。
剛介は、二本松で分家を継ぐ話があることや、水野の話を説明した。
「お主はどうしたい」
「迷っています」
「だろうな」
敬司が頷いた。
剛介は未だに迷っていた。義父や義兄への義理も果たしたい。だが、二本松で見た父母は老いていた。兄が当地にいるとは言え、やはり肉親の情は捨てがたいものである。
そんな剛介の決断を、敬司はできる限り尊重するつもりだった。義理の弟は、よくやってくれていると思う。仮に二本松に戻るとなれば、伊都や貞信を二本松に連れて行くことになるかもしれないが、そのときは、自分が会津に戻れば良い。剛介は、会津への恩義は十分に返したのではないか。
「そもそも、お前自身が巡査に向いていない」
敬司がからかうように、笑った。ムッとした剛介を嗜めるように、敬司は手を振った。
「いや、気質の問題だ」
「どのような意味でしょう」
「お前、未だに薩長を憎んでいるだろう」
図星だった。戊辰の怨みは、ずっと抱えている。
「それは、お前だけではない。会津の人間も同じだ。だが、賊軍の汚名を晴らすためには、ときにはその薩長の官軍に従って、獅子身中の虫を退治役となることも、厭ってはならぬ。そう考えている者も、多いだろうな。佐川様などは、その筆頭だ」
佐川官兵衛は、戊辰戦争で活躍した会津の武将だった。あの戦いから随分経ったが、未だに会津の英雄の一人である。その人気に目をつけ、政府は佐川を宥めすかして大警部の地位を与えた。郷里の士族たちの仕官の責任もある。佐川は、同郷の士族を救済する意図もあり、これを引き受けた。
「薩長は、腹黒い。我々の思惑を読み切った上で、尚も、我々の信義を逆手に取って利用しようとする者も多いだろう。だが、巡査を続ける限り、薩長の下について手足となって働かざるを得ない」
敬司はきっぱりと言った。
痛いところをつかれた。勤務は地元であっても、上に昇り詰めるには、必ず薩長閥の壁にぶつかる。
「お前が、汲々として薩長の手足になりたがるとは思えないがな」
敬司は苦笑している。剛介は、悄然とうなだれた。
「だが、地元で教師をやるというのならば、巡査よりは薩長閥の影響も少なかろう。お前は賢い。朋友が助けを求めているのであれば、それに応えるのも、お前らしい選択だと私は思う」
義兄は、そのように自分を評価していたのか。武士の子として育てられてきて、藩の為に尽くすことしか頭になかったから、教師という選択肢は考えてもみなかった。
襖の向こうから聞こえる二人の会話に、伊都はじっと耳を傾けていた。
夫の事はそれなりに理解しているつもりだったが、わからなくなった。
伊都が一〇歳の時に、夫は会津へ逃れてきた。二本松では十四で銃や刀を手にして戦い、母成峠の戦いから逃れてくる際に丸山様に保護されたのだという。
夫は優しいが、どこか茫洋として掴みどころがない。それでも口数は少ないながらも、父の清尚に礼節を尽くし、伊都や貞信を守ってくれている。夫としては家を大切にしてくれるだけ満足するべきなのだろうが、時折、もっと胸襟を開いてほしいと思うことがあった。
その夫が、先日、二本松に帰郷してきた。それ以来、輪をかけて伊都との会話が少なくなっていた。夫は何を思っているのか。伊都も二本松の話を聞いてみたいのに、いつも蚊帳の外である。
(どうして、剛介様と距離があるのかしら……)
貞信のことは可愛がってくれるが、夫婦でありながら、どこか自分に心を許していないところがある。いや、自分だけでなく会津の者全般に対して。
伊都は密かにそう感じていた。
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『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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