直違の紋に誓って

篠川翠

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第二章 焦土

敗戦

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 坂下ばんげに着いたのは、四つ刻(午後一〇時)だった。さすがに人々は寝静まっているが、そもそも人気が少ない。
「ここだ」
 石川が、とある庄屋の家の前で馬を止めた。
「これは、石川様」
 家の主が、目をしょぼつかせながら出てきた。
「丸山四郎右衛門様が、士道を掛けてお守りしようとしているお子たちだ。丁重にな」
「へえ」
 主は柔順に従った。
「まずは、床を延べましょう」
 剛介と豊三郎は、頭を下げた。
 二本松を出てから、このように落ち着いて、布団で眠るのは初めてではないだろうか。

 だが、束の間の平安は、長く続かなかった。西軍は母成峠を陥落させた勢いそのままに、二十二日には日橋川にっぱしがわにかかる十六橋じゅうろくきょうを渡り、翌二十三日には、遂に会津城下に攻め入った。
 石川は、二十二日にまだ猪苗代にいるはずの丸山の元に戻ろうとしたが、十六橋が敵の手に落ちたために戻れず、すごすごと引き返すしかなかった。
 主の命令とは言え、他の藩の子弟をどうしたものか。
 悩んだ末に、石川は、若松城に向かった。
「秋月様はおられますか」
 城の中でもてんやわんやだというのに、このような私事のために、重臣である秋月悌次郎あきづきていじろうを呼び立てて良いものか迷ったが、石川も既にあの二人を何が何でも守ってやる気になっていた。ここで見捨てては、会津の名折れである。
「どうした」
 強清水こわしみずの戦いから戻ってきたばかりの悌次郎は、戦塵で真っ黒だった。
 実は、と石川は事情を打ち明けた。
(父上も、酔狂な)
 悌次郎はそう思わないでもなかった。今は、会津のことで精一杯である。だが、父の言うように、会津のために二本松が死力を尽くしてくれたのは事実だ。その恩義に報いるのが、まことの武士であろう。
「分かった」
 悌次郎は、頷いた。
「父上の仰るように、城下で匿うのでは危険すぎる。また、越後口も敗れた今、坂下もどうなるか分からぬが、まずはその辺りの子供のように振る舞わせよ。そして、そちが命を賭して、その少年たちを守れ」
 石川はほっとした。やはり、藩の俊才と言われただけのことはある。確かに、坂下の地で他藩の子がいるのは目立ちすぎた。
「畏まりました」
「どの道、多くの者が逃げているだろう。その庄屋に申し付けて風体を改めさせ、お主も含めて縁者ということで、よく言い含めよ」
 
 坂下へ戻った石川は、悌次郎の指示を剛介らに伝え、着物を改めさせ、髪も農民の子供のように結わせた。もちろん刀は身に着けられないが、脇差しだけは護身用として、隠し持つことを認めて貰った。
 だが、ほっと出来たのはそこまでだった。
 二十三日に、家の主が「若松の城下が燃えている」と、目を血走らせて報告してきた。
「何でも城内に入れなかった方々は、西兵の手で辱められるよりは、と多くの方々がご自害されたそうじゃ」
 剛介と豊三郎は、その話を聞いて真っ青になった。
 自分たちの母も、同じような道を辿ってはいないだろうか。
「子供に酷い話を聞かせるな」
 石川が叱った。
「ですが……」
 黙れ、と石川が睨んだ。
「もう、この子たちは十分地獄を見てきたのだ」
 それで、あらかたの事情を察したのだろう。二本松の落城の知らせは、この坂下にも届いていた。主は、それ以上特に言うことはなかった。
 そしてその四日後には、坂下にも砲声が響いた。
「片岡まで西軍が来ているようです」
 主は、がたがたと震えた。片岡は坂下から一里半のところにある村邑で、川を挟んで会津軍と西軍が対峙しているという。
「もう、好きにしてくだせえ」
 怖くなったのだろう。家の主は、とうとう逃げていってしまった。
「石川様……」
 剛介も震えた。ここまでか。
「諦めてはなりませぬ」
 石川は、小声で叱咤した。
「この闇夜で逃げ出しても追われるだけです。いっそ、やり過ごしましょう」
 そして、屋根裏に二人を追い立てると、自分も梯子をするすると上り、梯子を引き揚げて天井板を嵌めた。
 唇に、人差し指を当てる。絶対に、声を出すな。
 そう言うと、屋根裏の端に身を寄せさせた。
 間もなく、西軍の兵が入ってきた。だが、家財がほとんどないのを見ると、あからさまにがっかりしたのだろう。羽目板の隙間から、乱暴狼藉を働いている様子が手に取るように見える。
「おい、人の気配がしないか」
 西軍の兵士の一人が、首を傾げた。
 その言葉に、剛介は歯の根が合わなくなった。
「誰か確かめてみろ」
 ぶすりという音と共に、何度か槍の穂先が天井に刺さった。眼の前一尺程の距離にある板に穂先が刺されたのを見た時は、文字通り、息が止まりかけた。
「気のせいか」
 やがて、気の抜けた声で呟くと、西軍兵らは入ってきたときと同じように騒々しく出ていった。
 どれくらい時間が経っただろう。やがて、完全に撤収したのを見届けて、石川はふーっと息を吐き出した。
 
  ***

 剛介と豊三郎が一番身の危険を感じたのは、その時だったかもしれない。
 後は、時折城下から西軍が越後街道を進軍していくのも見かけたが、坂下の者に手出ししている暇がないのか、剛介らを見ても、怪訝そうな顔をするだけだった。どうやら先の兵は、越後口から進行してきた別の隊を迎えにいったようである。また、一度は逃げた主も再び戻ってきて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
 だが、若松の戦はまだ続いている。そして、九月半ばに差し掛かった頃だろうか。
 猪苗代で送り出してくれた丸山四郎右衛門が、坂下に姿を見せた。
「丸山様!」
 二人を見て、丸山はちらりと笑った。
「ご無事でしたか。さすがに二本松の御子は強い」
 剛介も、命の恩人が無事なのが嬉しかった。
「お二人に、お伝えせねばならぬことがありましてな。城をようやっと抜け出してきました」
 剛介と豊三郎は、背筋を正した。そう言えば、二本松の方々はあれからどうなったのだろうか。
「米沢から、会津にも降伏するよう使者が参っております」
 
「それは、どのような意味でしょうか」
 豊三郎が、堅い声で訊ねた。
 意を決したように、丸山老人が述べた。
「米沢に滞在されていた丹羽左京大夫様は、先日、謝罪恭順の意をしたためた嘆願書を提出され、それが受理された由。間もなく、二本松にお帰りになり、当面謹慎処分となられるでしょう」
 謝罪恭順。
 その言葉の意味を飲み込むのに、しばらく時間がかかった。
「では、会津も……?」
 石川が、恐る恐るという様子で訊ねた。
「恐らく。悌次郎らが、西郷殿や佐川官兵衛殿らを説得している」
 剛介の体から、力が抜けていく。
 とうとう、賊軍の汚名を跳ね返すことが出来ずに、戦が終わってしまった。しかも、自分がいるのは二本松ではない。異郷だ。
 会津を助けることも、叶わなかった。
 豊三郎が、そっと手を握ってくる。
 いつもだったら、兄代わりとして握り返してやるのだが、その手を乱暴に払い除けた。
「うわあ!」
 剛介は、床に伏して大声で泣いた。いつまでも、いつまでも。

 九月二十二日には会津藩も降伏し、奥羽の地における長かった戦争が終結した。
 降伏が決まると、直ちに若松城内にいた者達は猪苗代に送られ、そこで謹慎処分を待つことになった。丸山も同じである。
 息子の秋月悌次郎は戦争の責任者の一人として、重い処分が下されるだろうと、丸山は嘆息した。
 もっとも、猪苗代の郷士である石川は員数に数えられず、そのまま猪苗代を自由に闊歩できた。よって、石川の縁戚という体で、剛介たちは再び猪苗代に戻ってきていた。
 季節は、既に冬である。
「四郎右衛門様。あの子らは、大丈夫でしょうか」
 石川は、心配そうに剛介と豊三郎を見つめた。今、大勢の会津の人々に囲まれて食事をしているが、どうにも周りの者と馴染めていない様子だった。
 特に剛介は、およそ表情というものが見られないのである。言われれば食事も取るし、頼めば用事も難なくこなす。だが、それだけだった。
「無理もない。国が亡くなったのだからな」
「自刃するようなことはないでしょうか」
 せっかく助かったのだ。自ら命を絶つような真似は、できれば避けてほしかった。
 それはない、と丸山老人は首を振った。
「あの子らは、自分たちが二本松の大切な種子であることを知っている。だからこそ、苦しんでいるのだろう」
 自暴自棄になって自害することもかなわないが、二本松に戻れば追われる身である。子供と言えども、武士として戦の場に立ったからには、どのような処分が待っているか分からない。二本松は城も城下も焼かれ、眼の前で友や恩師が死んだ。時勢は既に明治と改元され、元の暮らしに戻ることはないだろう。
 
 そして、ある日。
「剛介さん。二本松に帰らないの?」
 豊三郎が、剛介に訊ねた。
 剛介は、黙って首を横に振った。
 周りの大人たちの情報から、あの三春が二本松に入って民政を統治しているのは、聞いていた。そして、領外に逃れた人たちが城下に戻りつつあるらしい。
 だが、今さらどうしてあの地に戻れるだろうか。命だけは拾ったが、最後まで公の為に尽くすことが出来なかった。そして、二本松に戻ったところで、待っている人がいるか分からない。
「俺は、二本松に帰るよ」
 豊三郎が、きっぱりと言った。二本松へ行く人がいて、一緒に連れて行ってくれるという。
 剛介は黙ったままだった。
「……二本松に着いたら、消息を送ります」
 豊三郎はそう言うと、くるりと背を向けた。
 その日の夕餉に、豊三郎の姿はなかった。

 豊三郎が消えてしまうと、剛介はますます無口になった。
 そして、会津藩の処分も決まった。二本松の領土半減よりもさらに厳しい処分が、会津には待っていた。多くの藩士が東京に送られて謹慎処分、後に、領土は斗南藩に移封と決まった。
 もっとも、老人などは会津に留まることを許されているので、丸山四郎右衛門は会津に残ることを決めていた。
「二本松が恋しくはないか」
 不意に、目の前に徳利が差し出された。
 剛介は、驚いて徳利の主を振り返った。自分よりやや年上の少年が、そこにはいた。
「まあ、一つやれ」
 そんなことを言われても、酒など呑んだことがない。父や兄は、時折付き合いで嗜んでいたようだが、家には酒瓶はなかった。
 剛介に構わず、相手は勝手に飲み始めた。
「私は、東京に行かなければならない。増上寺で謹慎しろと言われた」
 鳥羽伏見の戦いからずっと容保公に従って会津に入り、そのまま籠城戦に突入して近辺をお守りしてきた。そのため年の割に罪が重く、当面新政府の監視下に置かれるのだという。ただ、南花畑にある自宅はどうにか無事らしい。  
 それにしても、この男はよく舌が回る。言葉に会津の訛りが少なく、綺麗な江戸風の言葉だ。この喋り方には、どこか聞き覚えがあると、記憶を辿ってみた。
 思い出した。あの、新式の銃を見せびらかしていた、小沢幾弥の喋りに似ているのだ。剛介は、あまりの懐かしさに、久しぶりに笑みを浮かべた。
「何がおかしい」 
 相手が怪訝そうに、剛介の顔を覗き込んだ。
「いや。二本松の朋輩に話し方が似ていただけだ」
「そうか」
 そこへ、少年の父親らしき男が姿を表した。
「こら、敬司けいじ。どこからそんなものを持ってきた」
 敬司の手にある徳利を見て、呆れている。
「いいじゃありませんか。会津での酒も、これで飲み収めになりそうですし」
 そして、剛介の方を見た。
「愚息が大変失礼を致しました。二本松の武谷剛介様ですな。それがしは遠藤と申します」
 剛介は、遠藤に向かって黙って頭を下げた。
「父上も、一つ如何です?」
 早くも酔いが回ったのか、敬司の目はほんのりと縁が赤くなっている。
「仕方がないな」
 父親は舌打ちをすると、盃を持ってきた。敬司の手から徳利を取り上げると、その中身を注ぐ。親子揃って、酒に強いのだろう。
 ままよとばかりに、剛介も生まれて初めて、酒を口にした。
 胃の腑を熱いものが流れたと思ううちに、頭がぽうっとしてきた。何だか、ふわふわして気持ちがいい。
「お主。これからどうしたいのだ」
 敬司が訊ねた。
「……どうしたら良いのか、分からないのです」
 会津の地に来て初めて、剛介は本音をさらけ出した。これが、酒の力というものだろうか。
「今まで、公の前で死ぬのが当然と教えられてきました。ですがその公は東京に送られ、私は死ぬことも許されなかった。兄は須賀川に送られたきりで、どうなったか分かりません。父も、軍監として城下の布陣に加わっていましたから、恐らく……」
 遠藤も、息子の敬司も黙って剛介の話に聞き入っていた。
「恩師も友も、皆死にました。私一人が、どうして生きて二本松へ戻れましょう」
 敬司が鼻をすすり上げた。
「母御は?」
 剛介は首を横に振った。
「城下を離れるつもりはあるようでしたが、どちらへ向かったのかも分かりません。その前に、出陣してしまいましたから」
 気がつくと、剛介の目からも涙がこぼれていた。
「学問も半ばにして、戦に臨んでしまいました。敵に背を向けるな、他の者に後れを取るなという父の教えも、守れませんでした。あの世で合わせる顔がありません」
「それは違いますな」
 遠藤が静かに言った。
「たとえ武士であっても、我が子は可愛いものです。この敬司の弟も、熊倉の戦いで十五で討死しました」
 そう言うと、遠藤はきつく目を瞑った。
「残された子を、これ以上死なせるわけには参りませぬ。私はたとえ賊軍の汚名を着せられても、我が子に生きてほしいと思います」 
 剛介は黙って聞いた。あの猪苗代での離別の際、鳴海様は自分たちを「二本松の大切な種子」と仰ってくれた。主君を失い故郷を離れても、尚、生きることを許してもらえるだろうか。
「左様」
 さらに、別の声が聞こえてきた。丸山である。いつの間に来ていたのだろう。
「あの夜、猪苗代で送り出した者らは、皆がそう思っていたでしょう」
 丸山は、静かに述べた。
「武士の面目にかけて、この丸山は二本松の皆様方とお約束した。二本松の種子を、大切に預かると。我々は負け申したが、武士の約束を違えるわけには参りませぬ」
 どうして、会津の人はこんなにも優しいのだろう。確かに、自分たちは否応無しに会津の戦に巻き込まれたのかもしれない。それでも、会津の為に戦ってきたのは決して間違いではなかった。
 命を永らえていれば、いつか二本松に帰れる日も来るだろうか。
「とは言え、丸山の家もどうなるか分からぬな」
 丸山が苦笑いを浮かべた。何せ、次男の悌次郎が既に戦犯とされている家である。
「丸山殿」
 遠藤が、膝を進めた。
「遠藤の家も、それは同じこと。惣領の敬司は上京を命じられ、竜二も奪われた。会津の地に残されたのはこの老身と、娘だけです。それでも幸い家屋も無事ですから、城下に戻ればどうにか暮らせましょう。よろしければ、武谷殿を遠藤の家にお迎えさせて頂けないでしょうか」
「それは、重畳」
 丸山が手を叩いた。
「剛介殿。この遠藤殿は学に明るく、義に篤い。きっと会津の父親として、二本松の種を大切になさるでしょう」
「……よろしいのですか?」
 孤児となった自分を、会津で養育するのは容易いことではないだろう。
「会津武士の魂まで取られたわけではございませぬ」
 遠藤が微笑んだ。
「剛介といったな。私からも頼む。私の代わりに、父と妹を守ってくれないか」
 脇から、敬司も言い添えた。
「分かりました」
 遂に、剛介は頷いた。
「これからよろしくな、義弟よ」
 敬司が、少年らしい笑顔を開いた。

 ***
 
 翌日、剛介は遠藤に連れられて若松へ赴いた。
 その右手には、一〇歳になるという女の子の手が握られていた。
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