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第三章 常州騒乱
対峙(2)
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ふと思いついて、鳴海は戸祭に尋ねてみた。
「戸祭殿から御覧になられた主水正様は、どのような御方でござるか?」
鳴海の質問に、戸祭はしばし首を傾げていた。
「民を思う心はございましょう。現に助川城下の水道も整備し、民には評判がよろしゅうございます。ですが、若き頃は活発なご気性だったと伺っておりましたが、その割に、優柔不断なところがお有りとでも申しましょうか」
その口調には、微かな苛立ちが感じられた。
「大体、ご家来の一人である大津彦之丞が大炊頭様の手に加わるような真似をしなければ、我らとて山野辺の殿に弓を引くことにはならなかったと存じます」
それを抑えきれなかったのならば、やはり主水正に罪があるといわんばかりの、戸祭の言い分だった。
地理的に鑑みても、大沼海防陣屋は助川海防戦線の拠点の一つであるはずだった。戸祭としても、できれば山野辺主水正に弓を引くような真似はしたくなかったのだろう。だが、現執政でありかつ幕閣とつながりの深い市川や筧の命令には、逆らえない。そんな戸祭の迷いが透けて見えた。だが、それを口にすれば己の首を締めることになりかねない。元博徒だという寺門を取り立て、その不遜な行為にも目を瞑っているのは、そのような鬱屈した感情が反映されているのかもしれなかった。
(これらを束ねよ……と)
鳴海は、ちらりと隣に座る九右衛門に視線を送った。九右衛門の顔にも、困惑の色が浮かんでいる。
一通り昼食を取り終わると、鳴海は家人に頼んで井上を呼んでもらった。
「皆、食事は済んだか」
「済みましてございまする」
「そうか」
鳴海も、膳に箸を置いた。二本松では見かけない魚を焼いたものがつけられていたが、じっくり味わうだけの心のゆとりはなかった。
「日が暮れる前に、下孫に向かう。戸祭殿、何が変事かあれば遠慮なく二本松陣営に参られよ」
鳴海の言葉に、戸祭は「かたじけない」と頭を下げた。
下孫陣屋に到着してそれぞれの割り振りを終えると、ようやく長かった一日が終わった。
「皆、ご苦労であった」
夕食後、陣屋の大広間に上士らを集めた鳴海の言葉に、一同が頭を下げる。鳴海の脇には、昼食を共にした九右衛門、そして井上が控えていた。
「これからしばらくは、我らは水藩の戸祭殿や寺門殿の手勢と行動を共にすることになろう。だが……」
そこで、鳴海はしばらく言い淀んだ。言いづらい。だが、伝えねば今後に支障が出る。
「水藩側からの饗応は、出来るだけ遠慮せよ。特に酒の饗応は厳に慎むように」
「鳴海様。それはあまりではござらぬか」
どこからともなく、不満の声が上がった。無理もない。戦場で一日中緊張に晒された後の楽しみは、晩酌くらいしかないではないか。元々、番頭が鳴海に変わってから何となく五番組の風紀も鳴海に倣い、誰が言うともなく、密かな女遊びすら厳禁となった。それ故に、せめて酒くらいは……と思う者も、少なくないはずなのである。鳴海は、助けを求めるように九右衛門に視線を送った。
渋々といった体で、九右衛門が説明を補足する。
「水藩の寺門殿は、酒が入らねば気が狂う病だとのこと。実際、拙者や鳴海様がこの目でそれを確かめて参った。だが我らがそれに倣うようなことがあっては、御家老の御手勢や六番組、引いては国元にも迷惑がかかる。以上」
しばし絶句する一同を置き去りにして、鳴海は自室へ引き揚げた。
後ろ手で襖を閉めると、鳴海は大きく息を吐きだした。
「――よく、申し渡されましたな」
ああいう宣言を出した以上は、鳴海も酒を控えなければならない。それを悟った井上は、気を遣ったものか、膳方に命じて茶を運んできてくれた。井上の慰める声には、微かに笑いが含まれていた。
「まことに損な役回りですな、皆の長というものも。嫌な内容も、忌憚なく皆に伝えなければならぬ」
後からやってきた九右衛門も、苦笑を浮かべている。
「寺門殿の酒癖は、皆にも伝えねば双方の混乱の元になろう」
そう言いながらも、鳴海は憂鬱な気分が晴れなかった。今まで、あのような手合の人間は身近にいたことがない。果たして、どこまで信用できるのか。
「大島殿などが、騒いでおりました。酔っ払いと共に戦うなど、真っ平だと」
「成渡ならば、そう言うであろうな」
本音を言うならば、鳴海とて同感である。が、番頭の立場としては安易にそれを口にできない。水藩との協力関係に水を差す形になってしまう。
「御家老や小川殿も、無理難題を申される」
思わず口をついて出た鳴海の愚痴にも、九右衛門や井上は黙って苦笑を浮かべているばかりだった。
「戸祭殿から御覧になられた主水正様は、どのような御方でござるか?」
鳴海の質問に、戸祭はしばし首を傾げていた。
「民を思う心はございましょう。現に助川城下の水道も整備し、民には評判がよろしゅうございます。ですが、若き頃は活発なご気性だったと伺っておりましたが、その割に、優柔不断なところがお有りとでも申しましょうか」
その口調には、微かな苛立ちが感じられた。
「大体、ご家来の一人である大津彦之丞が大炊頭様の手に加わるような真似をしなければ、我らとて山野辺の殿に弓を引くことにはならなかったと存じます」
それを抑えきれなかったのならば、やはり主水正に罪があるといわんばかりの、戸祭の言い分だった。
地理的に鑑みても、大沼海防陣屋は助川海防戦線の拠点の一つであるはずだった。戸祭としても、できれば山野辺主水正に弓を引くような真似はしたくなかったのだろう。だが、現執政でありかつ幕閣とつながりの深い市川や筧の命令には、逆らえない。そんな戸祭の迷いが透けて見えた。だが、それを口にすれば己の首を締めることになりかねない。元博徒だという寺門を取り立て、その不遜な行為にも目を瞑っているのは、そのような鬱屈した感情が反映されているのかもしれなかった。
(これらを束ねよ……と)
鳴海は、ちらりと隣に座る九右衛門に視線を送った。九右衛門の顔にも、困惑の色が浮かんでいる。
一通り昼食を取り終わると、鳴海は家人に頼んで井上を呼んでもらった。
「皆、食事は済んだか」
「済みましてございまする」
「そうか」
鳴海も、膳に箸を置いた。二本松では見かけない魚を焼いたものがつけられていたが、じっくり味わうだけの心のゆとりはなかった。
「日が暮れる前に、下孫に向かう。戸祭殿、何が変事かあれば遠慮なく二本松陣営に参られよ」
鳴海の言葉に、戸祭は「かたじけない」と頭を下げた。
下孫陣屋に到着してそれぞれの割り振りを終えると、ようやく長かった一日が終わった。
「皆、ご苦労であった」
夕食後、陣屋の大広間に上士らを集めた鳴海の言葉に、一同が頭を下げる。鳴海の脇には、昼食を共にした九右衛門、そして井上が控えていた。
「これからしばらくは、我らは水藩の戸祭殿や寺門殿の手勢と行動を共にすることになろう。だが……」
そこで、鳴海はしばらく言い淀んだ。言いづらい。だが、伝えねば今後に支障が出る。
「水藩側からの饗応は、出来るだけ遠慮せよ。特に酒の饗応は厳に慎むように」
「鳴海様。それはあまりではござらぬか」
どこからともなく、不満の声が上がった。無理もない。戦場で一日中緊張に晒された後の楽しみは、晩酌くらいしかないではないか。元々、番頭が鳴海に変わってから何となく五番組の風紀も鳴海に倣い、誰が言うともなく、密かな女遊びすら厳禁となった。それ故に、せめて酒くらいは……と思う者も、少なくないはずなのである。鳴海は、助けを求めるように九右衛門に視線を送った。
渋々といった体で、九右衛門が説明を補足する。
「水藩の寺門殿は、酒が入らねば気が狂う病だとのこと。実際、拙者や鳴海様がこの目でそれを確かめて参った。だが我らがそれに倣うようなことがあっては、御家老の御手勢や六番組、引いては国元にも迷惑がかかる。以上」
しばし絶句する一同を置き去りにして、鳴海は自室へ引き揚げた。
後ろ手で襖を閉めると、鳴海は大きく息を吐きだした。
「――よく、申し渡されましたな」
ああいう宣言を出した以上は、鳴海も酒を控えなければならない。それを悟った井上は、気を遣ったものか、膳方に命じて茶を運んできてくれた。井上の慰める声には、微かに笑いが含まれていた。
「まことに損な役回りですな、皆の長というものも。嫌な内容も、忌憚なく皆に伝えなければならぬ」
後からやってきた九右衛門も、苦笑を浮かべている。
「寺門殿の酒癖は、皆にも伝えねば双方の混乱の元になろう」
そう言いながらも、鳴海は憂鬱な気分が晴れなかった。今まで、あのような手合の人間は身近にいたことがない。果たして、どこまで信用できるのか。
「大島殿などが、騒いでおりました。酔っ払いと共に戦うなど、真っ平だと」
「成渡ならば、そう言うであろうな」
本音を言うならば、鳴海とて同感である。が、番頭の立場としては安易にそれを口にできない。水藩との協力関係に水を差す形になってしまう。
「御家老や小川殿も、無理難題を申される」
思わず口をついて出た鳴海の愚痴にも、九右衛門や井上は黙って苦笑を浮かべているばかりだった。
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