鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

出陣(7)

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 千人溜には、既に組の子らが集結していた。出陣の人数が大所帯であるからか、今回は両社山の禰宜である安藤がわざわざこの場所に呼ばれて、出陣祈願の支度をしている。仮の祭壇の前には、床几がいくつか並べられていた。既に最前の床几には、総大将の源太左衛門がゆったりと腰掛けている。その表情はいつも通りであるが、源太左衛門の装いは昔から着慣れているかの如くりゅうとした着こなしで、総大将たる頼もしさを感じさせた。
 源太左衛門の後ろに並べられた二つの床几のうち、鳴海は右手に腰掛けた。左隣に座るのは、与兵衛である。与兵衛の装いは鳴海と似たようなもので、違うのは陣羽織の色くらいだった。こちらは、陣羽織も黒である。
「水戸の御方らがご覧になれば、そなたらを親子と見紛うかもしれぬな」
 源太左衛門の冗談に、鳴海は思わず与兵衛と顔を見合わせて笑い声を立てた。二人の後ろに並べられた、郡代や物頭らの物頭からの床几からも、戦前とは思えないほのぼのとした笑い声がさざめいてくる。
 祝詞が上げられ、続けて三宝に載せられた三献が運ばれてきた。素焼きの土器かわらけに酒が注がれる。それを三度に分けて飲み干すと、源太左衛門がちらりと振り返り、鳴海や与兵衛に視線を送った。それに鳴海と与兵衛が肯き返すと、一同は床几から腰を上げた。源太左衛門が前に進み出て、一同に向き合う。
「御一同。これより常州の奸賊らを成敗しに参る。二本松の武士もののふの武勇が如何なるものか、彼の者等にとくと知らしめよ」 
 源太左衛門の檄が、朗々と響き渡る。源太左衛門はそのまま、手にした土器を地面に叩きつけた。パリン、と澄んだ音が響く。
 いつもの扇ではなく見慣れぬ軍扇を広げ、源太左衛門が「えい、えい」と声を張り上げると、「応!」という藩士らの勇声が、地を轟かせた。
 
 ***

 一同が松坂門をくぐり新丁坂を下って大檀口の関門を通り越した辺りから、ぽつぽつと雨粒が落ち始めた。のみならず、時折強い風が吹き付ける。どうやら、よりにもよって野分(台風)の襲来と出陣の日程が重なったらしかった。今年の夏から秋にかけてはいつになく雨天の日が多かったのだが、せっかくの出陣の日だというのに、またしても雨模様である。 
 杉田川を渡り、さらに百日川を渡って本宮組領内に差し掛かった頃には、既に大雨となっていた。
「これでは、弾薬が雨に濡れるな」
 鳴海の側に馬を寄せてきたのは、十右衛門だった。源太左衛門付きの砲術指南役として、彼もまた出陣の一員に名を連ねていたのだった。
「菰や筵で雨除けはしてあるのだろう?」
 雨音に負けじと大声を張り上げた鳴海の言葉に、十右衛門は首を振った。
「してはおるが、必要な糧食や兵器は我が藩から持参せよとの命令が出ているからな。常州に着く前にそれらが駄目になってしまっては、元も子もない。本日は郡山まで進む予定と聞いておったが、後々のことを考えれば、本宮の本陣で雨除けをした方が良い」
「ふむ……」
 鳴海は、政之進を呼び寄せた。
「政之進殿。今ほどの十右衛門の言葉を御家老にお伝えしてして、御指図を伺ってきて欲しい。この人数が一度に泊まれるとすれば、郡山の手前では本宮しかないだろうからな」
「畏まりました」
 五番組の使番の一人である政之進は、はきはきと答えて馬首を後方にいるはずの源太左衛門らの方へ向けた。
 政之進はすぐに源太左衛門の下知を受けて戻ってきた。源太左衛門の判断も十右衛門と同じで、当初の予定が変わることになるものの、一旦本宮に宿泊するということだった。幸い、幕府から宇都宮に赴くように指定された日までには、まだ余裕がある。
「然らば鳴海様。それがしも先行し、郡奉行の方々と一緒に宿の手配に当たって参りましょう。本宮には、我が妻女の伝手もございますので」
 そう申し出たのは、笠間市之進だった。本来は糠沢組の代官だが、今回は五番組が出陣を拝命したということで、妻方の義兄に急遽代官役を代わってもらったという。
「笠間殿の御妻女は、確か浦井家の息女であったな」
 鳴海の言葉に、市之進がにこりと笑った。市之進の妻の実家である浦井家は、そもそも本宮の商家の親族である、また、市之進自身も糠沢組代官を務めている関係で、本宮本陣宿を任せられている北町の大内家とは顔馴染みである。
「御家老も助かるだろう。頼む」
 鳴海の言葉に、市之進が跨っている馬の腹を軽く蹴った。先回りして本宮に赴き、宿の折衝に当たってくるつもりだろう。
 それにしても、酷い雨である。鳴海は天を見上げた。この分だと、どこかで出水が発生するのではないか。これからの戦途を暗示するかのような大雨に、鳴海の顔は険しさを増した。
 本宮町の北町にある本陣に腰を落ち着けると、鳴海はほっと息をついた。主の大内が挨拶のために顔を見せると、鳴海と与兵衛は揃って頭を下げた。本宮にも縁が深いということで、市之進も陪席を許されている。
「大雨の入に、急な迷惑を掛けて済まぬな」
 与兵衛の挨拶に、大内は強張った顔で首を振った。
「何かの兆しでございましょうか……。ここ近年、これほどの大雨に見舞われた試しはございませぬ」
 鳴海は、その言葉に眉根を寄せた。大内の言葉には、鳴海も同感である。本陣から阿武隈川はそれほど遠くなく、阿武隈川の堤が決壊すれば大変なことになるだろう。
「我らも出陣の最中ではあるが、宇都宮で集合するように伝えられた日まで、些かのゆとりはある。万が一の事があれば、夜半でも遠慮なく申し出よ」
 市之進が、こちらに視線を送って寄越した。それに鳴海も肯いて返す。事後承諾の形ではあるが、反対する理由は見当たらなかった。元々糠沢組代官である市之進が本宮の出水を心配するのは、当然だろう。
 その夜、慣れぬ戦装束のまま、鳴海は板の間に敷かれた筵にうつらうつらと体を横たえていた。ふっと何かの物音がした気がして、目が覚めた。明り取りの窓の外の様子を伺うと、辺りはまだ真っ暗である。この暗さであれば、現在の時刻は夜明け前卯の刻くらいか。
 ごおっと、水が勢いよく流れ込んでくる音がする。その音に、鳴海の顔色が変わった。
「明かりを持って参れ」
 鳴海は、慌てて下男に命じた。直ちに提灯が運ばれて来ると、鳴海はそれを手にして宿の二階に上がり、窓を開けた。
 ざあっという音と共に、風雨が鳴海の身に降り掛かる。同時に鼻をついたのは、辺り一面を満たす泥水の生臭い匂いだった。
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