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第三章 常州騒乱
野総騒乱(4)
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木戸を閉め切ってしまうと、昼間でありながら茶室の中は薄暗い。茶室の土間の片隅にあるへっついのところから燧石を取り上げ、炭や焚付用の付け木を腕に抱えると、鳴海は草鞋を脱いで居間に上がった。
居間の囲炉裏に炭を並べてその上に付け木を乗せる。燧石で火を起こし、付け木の下で炭が赤く染まり始めたのを見ると、鳴海はほっとした。龍泉寺から駆けてきた短時間の間に、二人の身体はかなり濡れてしまっている。
くしゅん、とりんがくしゃみをした。
「失礼いたしました」
りんが、恥ずかしそうに俯いた。鳴海は少し笑ったが、自分も鼻がむずむずしたと感じた途端に、派手なくしゃみが出た。思わず二人で顔を見合わせ、どちからともなく笑い声を立てる。
鳴海は羽織を脱ぎ、続けて帯も解いて着物を脱いだ。その鳴海の姿を見て、りんが目を見開く。鳴海は、長襦袢だけの姿になっていた。
「囲炉裏の側で着物を乾かした方が良かろう。大丈夫だ」
郭内からは外れている場所のため、ここに人がやってくる心配はまずない。濡れた身体のままで風邪を引くよりもましである。鳴海の言葉に納得したのか、りんも何かを決意したかのように、帯を解いて着物を脱ぎ始める。
りんは自分の分と鳴海の着物を井桁に掛けたが、下着姿を気にしているのか、囲炉裏の中に視線を落としたままだ。元々、あまり口数の多くない者同士の夫婦である。決して沈黙が悪いわけではなかった。それでも何となく落ち着かず、鳴海は立ち上がって水屋にあった鉄瓶に水を汲み、囲炉裏の五徳の上に乗せた。やがて、しゅんしゅんと湯の沸く音がしてくる。この頃になるとようやく室内も暖まり、肌寒さも収まってきた。
「――茶を淹れてもらえるか」
鳴海がりんに茶を所望すると、りんはすっと席を立ち、茶棚から急須と茶葉、大小の湯呑みを持ってきた。客人をもてなすわけではないので、りんが淹れようとしているのは普通の煎茶である。
急須から茶を注ぐと、りんは大きい方の湯呑みをすっと鳴海に差し出した。
「不調法ですが、どうぞ」
「すまぬな」
鳴海は湯呑みに唇をつけた。新茶の爽やかな香りが、口の中一杯に広がる。茶の温みは、冷えた身体を内側から温めてくれた。
「先程そなたは今年の茶の出来は今ひとつと申しておったが、まずまずではないか」
鳴海がそう述べると、りんはようやく口元に笑みを浮かべた。
「鳴海様の御口に適いましたのならば、よろしゅうございました」
そして、りんはまた囲炉裏に目を落とした。妻が白い項を露わにし薄紅の長襦袢を纏っている姿は、妙に艶めかしい。二人が床を共にすることはあっても、それは夜の帳の中でのことであるから、鳴海が白昼にりんの襦袢姿をまじまじと見ることはないのだった。
何となく照れ臭くなり、鳴海も囲炉裏に視線を落とした。
「――先程の織部様のことですけれど」
不意にりんが口を開いた。その言葉に鳴海は顔を上げて、りんの方へ向けた。
「もしも御内儀も御子もいらっしゃらないまま二本松で亡くなられたのならば、今は織部様の血は残されていないことになりますわね」
「左様だな」
りんの言う通りだった。信州長沼藩は改易になったことであるし、織部自身は二十三歳の若さでありながら病死したために、信州佐久間家の血は絶えたことになる。
「それであれば、織部様がこの世に生きた証しは龍泉寺に残されているのみ。それではあまりにも儚く切ないと、鳴海様はお思いになりませんか?」
妻はいやに哲学的な問いを投げかけてくれる。鳴海は苦笑した。
「人の一生は、案外そのようなものかもしれぬではないか。武士であれば尚のことだ」
基本的には、主君のための戦いを生業とするのが武士の在り方である。この世に未練を残すのは禁忌であるし、二本松の武士は常日頃から死への決意固めも兼ねて、幼少の頃から切腹の作法を習う。鳴海もそのようにして育ってきた。
「ですが……」
りんはしばし口を噤み、やがて茶で口を湿らせた。
「この世に生を授かったならば、必ず何らかの意味があったはず。その血を残さずに儚くなってしまうのでは、あまりにも無念ではないかと私は思うのです」
そう言われて、鳴海は困惑した。二人の間には、未だ子供がいない。哲学的なことはさておき、現実問題として彦十郎家の血が絶えてしまうのは、鳴海も出来れば避けたかった。だが、子供がいないことで一番責めを負わされるとすれば、それは妻のりんである。二人の子が授からない原因は、分からない。だが、りんの胸中を思うと、鳴海は未だ子が出来ないでいることを口にはしたくなかった。
居間の囲炉裏に炭を並べてその上に付け木を乗せる。燧石で火を起こし、付け木の下で炭が赤く染まり始めたのを見ると、鳴海はほっとした。龍泉寺から駆けてきた短時間の間に、二人の身体はかなり濡れてしまっている。
くしゅん、とりんがくしゃみをした。
「失礼いたしました」
りんが、恥ずかしそうに俯いた。鳴海は少し笑ったが、自分も鼻がむずむずしたと感じた途端に、派手なくしゃみが出た。思わず二人で顔を見合わせ、どちからともなく笑い声を立てる。
鳴海は羽織を脱ぎ、続けて帯も解いて着物を脱いだ。その鳴海の姿を見て、りんが目を見開く。鳴海は、長襦袢だけの姿になっていた。
「囲炉裏の側で着物を乾かした方が良かろう。大丈夫だ」
郭内からは外れている場所のため、ここに人がやってくる心配はまずない。濡れた身体のままで風邪を引くよりもましである。鳴海の言葉に納得したのか、りんも何かを決意したかのように、帯を解いて着物を脱ぎ始める。
りんは自分の分と鳴海の着物を井桁に掛けたが、下着姿を気にしているのか、囲炉裏の中に視線を落としたままだ。元々、あまり口数の多くない者同士の夫婦である。決して沈黙が悪いわけではなかった。それでも何となく落ち着かず、鳴海は立ち上がって水屋にあった鉄瓶に水を汲み、囲炉裏の五徳の上に乗せた。やがて、しゅんしゅんと湯の沸く音がしてくる。この頃になるとようやく室内も暖まり、肌寒さも収まってきた。
「――茶を淹れてもらえるか」
鳴海がりんに茶を所望すると、りんはすっと席を立ち、茶棚から急須と茶葉、大小の湯呑みを持ってきた。客人をもてなすわけではないので、りんが淹れようとしているのは普通の煎茶である。
急須から茶を注ぐと、りんは大きい方の湯呑みをすっと鳴海に差し出した。
「不調法ですが、どうぞ」
「すまぬな」
鳴海は湯呑みに唇をつけた。新茶の爽やかな香りが、口の中一杯に広がる。茶の温みは、冷えた身体を内側から温めてくれた。
「先程そなたは今年の茶の出来は今ひとつと申しておったが、まずまずではないか」
鳴海がそう述べると、りんはようやく口元に笑みを浮かべた。
「鳴海様の御口に適いましたのならば、よろしゅうございました」
そして、りんはまた囲炉裏に目を落とした。妻が白い項を露わにし薄紅の長襦袢を纏っている姿は、妙に艶めかしい。二人が床を共にすることはあっても、それは夜の帳の中でのことであるから、鳴海が白昼にりんの襦袢姿をまじまじと見ることはないのだった。
何となく照れ臭くなり、鳴海も囲炉裏に視線を落とした。
「――先程の織部様のことですけれど」
不意にりんが口を開いた。その言葉に鳴海は顔を上げて、りんの方へ向けた。
「もしも御内儀も御子もいらっしゃらないまま二本松で亡くなられたのならば、今は織部様の血は残されていないことになりますわね」
「左様だな」
りんの言う通りだった。信州長沼藩は改易になったことであるし、織部自身は二十三歳の若さでありながら病死したために、信州佐久間家の血は絶えたことになる。
「それであれば、織部様がこの世に生きた証しは龍泉寺に残されているのみ。それではあまりにも儚く切ないと、鳴海様はお思いになりませんか?」
妻はいやに哲学的な問いを投げかけてくれる。鳴海は苦笑した。
「人の一生は、案外そのようなものかもしれぬではないか。武士であれば尚のことだ」
基本的には、主君のための戦いを生業とするのが武士の在り方である。この世に未練を残すのは禁忌であるし、二本松の武士は常日頃から死への決意固めも兼ねて、幼少の頃から切腹の作法を習う。鳴海もそのようにして育ってきた。
「ですが……」
りんはしばし口を噤み、やがて茶で口を湿らせた。
「この世に生を授かったならば、必ず何らかの意味があったはず。その血を残さずに儚くなってしまうのでは、あまりにも無念ではないかと私は思うのです」
そう言われて、鳴海は困惑した。二人の間には、未だ子供がいない。哲学的なことはさておき、現実問題として彦十郎家の血が絶えてしまうのは、鳴海も出来れば避けたかった。だが、子供がいないことで一番責めを負わされるとすれば、それは妻のりんである。二人の子が授からない原因は、分からない。だが、りんの胸中を思うと、鳴海は未だ子が出来ないでいることを口にはしたくなかった。
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