鬼と天狗

篠川翠

文字の大きさ
上 下
100 / 196
第二章 尊攘の波濤

虎落笛(5)

しおりを挟む
 源太左衛門が探索に出していた岡と味岡あじおかが城下に戻ってきたのは、年の瀬も押し迫った頃である。丁度今年度の扶持米が給付される日のことで、大広間には明るい空気が漂っていた。それにも関わらず、味岡は事の成り行き上、予定を越えてはるばる江戸まで足を運んできたらしく、疲れた顔をしていた。
「両御仁とも、御苦労であった。後で、掛かった費用を勘定方に申し出られよ」
 源太左衛門が労いの言葉を掛けると、味岡が少し頭を下げた。
「して、上野こうずけなどでは水府浪士がしきりに出入りしているとの由だが、間違いないか」
「間違いございませぬ。桐生きりゅうの商人が嘆いておりました」
 味岡は、力強く肯いた。
 味岡が桐生で聴き込んできたところによると、幕府は物価騰貴の原因として庶民の生活奢侈しゃしを強調し、万事天保の改革の折の布達に倣って、質素倹約に務めるよう指示したというのである。天保の改革と言えば鳴海が子供の頃の話ではないかと、番頭の席で報告を聞いている鳴海ですら呆れる思いだった。時代錯誤にも程がある。
 そもそも桐生は、江戸の中頃から京の西陣の絹織物と張り合ってきたほどの絹織物の産地である。近年は開港により諸外国向けの絹織物を輸出することで、ますます顕著な発展を遂げてきた。その一方で、開港のために絹織物の原料となる生糸の価格が暴騰し、土地の生業である絹織物の生産にも支障をきたしているというのである。確かに二本松でも、最近では生糸を横浜へ回すことが多く、桐生に売りに行くのは稀であった。その方が生糸の生産地の利が上がるからなのだが、桐生では生糸と木綿の太物である柳川紬やながわつむぎまで、高騰しているのだという。
 それを知ったのが、藤田小四郎らに代表される水府浪士達だった。彼らは一旦は先の一橋慶喜の東下に従って帰府していたが、再度上洛して幕府の横暴さを朝廷に訴えようとする計画を持ち上げた。だが、水戸藩執政の一人である山国兵部にこの計画を訴えたところ、強く慰留されたのだという。だが、それに凝りずに彼らは江戸で新たに活動を開始した。
 彼らが立てた新たな計画とは、八月十八日の政変後に有栖川宮が攘夷監察使として東下する予定に乗じて、因幡(鳥取)・備前(岡山)両藩の有志数百名がこれに随従し、幕府に攘夷を迫ろうという計画であった。
「因幡や備前にまで同志を求めておるのか……」
 一学が、呆れたように呟いた。両藩の藩主が水戸藩出身だからその伝手を頼ろうという魂胆なのだろうが、荒唐無稽な計画にも聞こえる。
「それだけではございませぬ」
 報告する味岡の顔も、渋い。
 同じく藤田らは、武州にも足を伸ばして同志を募っていた。秋には江戸に出てきていた武州血洗島ちあらいじまの豪農である渋沢一族らと、二度に渡って会談したという。この渋沢一族の一人が、明治期に入ってから二本松の生糸産業にも間接的に関わる渋沢栄一なのだが、この頃はまだ、尊攘過激派の一人に過ぎなかった。栄一らは隣村にいた桃井可堂に弟子入りしていたが、同族の渋沢喜作や従兄弟の尾高兄弟らと共に天朝組(慷慨こうがい組)を結成し、変事の計画を立てていたのだという。計画の内容は、十一月に渋沢らが赤城山で挙兵して高崎城を占拠し、武器や資金を手に入れた後、直ちに横浜へ押し出して横浜の洋館を焼き討ちにしようというものだった。後に「天朝・慷慨組の変」と言われる陰謀だが、結局渋沢らが師と仰いでいた桃井が自首したことで陰謀が露呈し、計画は未遂に終わった。
「今は冬場故、蚕の時期も終わっておりますが、春蚕はるかいこの時期になれば、また水府の過激派らが騒ぎ出すかもしれませぬな」
 浅尾も、眉を顰めている。同席している郡代らの顔も一様に渋く、とりわけ和左衛門はそっぽを向いたままだ。それにしても、水府浪士らは随分と事を急いているものだと感じる。
「水戸藩では、何か手を打っておらぬのか?」
 源太左衛門は、岡の方に顔を向けた。
「今の味岡殿のお話の続きになりますが、藤田小四郎という者が、執政の一人である武田伊賀守様に攘夷実行を再度迫ったという噂が、水戸城下で流れておりました」
「武田伊賀守様か……」
 江口三郎右衛門が、呟いた。どうやら、知っている人物の名前のようである。
「確か、烈公家督の際にご尽力された御方であろう。烈公の遺志を継がんとしておると聞いたことがある」
「ふむ……」
 一学が、小さく吐息を漏らした。
 さすが、三郎右衛門も長く家老を務めているだけのことはあり、近隣他藩の主要人物の名は聞き知っているようだ。ちなみに烈公とは、水戸藩九代藩主の徳川斉昭のことである。
「水戸烈公の話は、今の我々には関係ありますまい」
 種橋が、苛立たしげに首を振った。
「ですが、種橋様。武田殿は今の水戸藩において最も人望のある御仁。武田殿と小四郎のお父上である東湖様は、肝胆相照らす仲だったと聞き及んでおります。武田殿が小四郎を戒めておらなかったら、もっと早くに水府から火の手が上がっていたことでしょう。烈公の御名は、水戸家中では神の如くの扱い。その神の信頼が厚かったのが、藤田東湖殿と武田伊賀守殿でござる」
 岡は、苦々しげに吐き捨てた。 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

処理中です...