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第二章 尊攘の波濤
江戸震撼(6)
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鳴海と十右衛門は連れ立って、三浦家の裏手にある千手観音の境内に足を向けた。ここまでくれば人影もなく、話し声も聞こえない。
「――済まぬな、鳴海殿」
十右衛門は、嘆息した。どうやら十右衛門も、権太夫と清介の議論に付き合わされるのは辟易していたとみえる。
「お主も、気苦労が絶えないな」
ようやく気兼ねなく話せるようになり、鳴海もほっとして軽口を叩いた。そして、先程の会話中で気になったことを、思い切って尋ねてみた。
「あれから守山の平八郎殿は、二本松には?」
「お主の方が、平八郎殿と鉢合わせた回数は多いかもしれんぞ。一時はしきりに文を寄越しておったようだが、守山も助郷騒動がまだ続いておるようだし、上洛の騒ぎもあったからか、近頃は消息を聞かぬ」
十右衛門の言葉であれば、間違いはないだろう。鳴海も、その言葉に肯いた。確かに、守山藩も自藩のことで大童のはずであり、二本松にちょっかいを掛ける余裕はないと考えられる。
「それにしてもお主、随分と尊攘の動きに通じておるようだな。いつの間に?」
半ば感心し、半ば呆れたように十右衛門が鳴海に問うた。鳴海も、首筋を揉みながら答える。
「意識しているわけではないのだがな……。守山の三浦殿との因縁が続いた関係で、中屋の黄山殿にも教示をしてもらっている」
「なるほど、黄山殿ならば合理的な示唆をくれるだろうな」
この男ならば、たとえ身内であっても軽々しく口にはしないだろう。うっかり漏らせば、今度こそ三浦家の浮沈に関わるからである。
しばし沈黙が流れた後、十右衛門はためらいがちに口を開いた。
「……お主は、いずれ二本松が戦に巻き込まれると思うか?」
十右衛門は、藩の砲術指南者としての顔も持つ。特に弟子を取っていないが、砲術に関する知識は藩の中でも抜群の知見者であるからか、やはり政局は気になるらしかった。
「黄山殿によると、守山藩の者らも上洛一行に加わっていたそうだ。守山や水戸の動きによっては、戦の火種が二本松にも飛んでくるやもしれぬ」
さらに一月に京都で水戸藩の尊攘派有志を中心に会合があったらしいという黄山からの報告を伝えると、十右衛門は眉を曇らせた。
「義彰の奴は、虎の尾を踏みかけたな」
言われてみて鳴海も気がついたが、権太夫が江戸で猿田と会っていたというのが昨年暮の話である。猿田は、もしかしたら京の会合に権太夫を勧誘しようと目論んでいたのかもしれなかった。あの権太夫のことである。猿田に誘われるままに上洛していたら、本格的に二本松が尊攘の波濤に巻き込まれていた可能性は、否定できなかった。それを思うと、背筋が凍る思いがする。短気な丹波のことだから、そこまで思慮して権太夫の逮捕に踏み切ったとは思わないが、結果としては、やはり危ないところだったと鳴海も思わざるを得ない。
鳴海は武辺者ではあるが、藩の行く末を思えば、戦をせずに勝つ方法を模索して行かねばならない。それが、民の撫育を藩是とする二本松なりの戦い方である。
二本松が富津や江戸へ派兵しているのは諸外国からの攻撃を想定してのことであるが、本当に二本松が戦乱に巻き込まれるとなれば、その敵は案外内乱という形で顔を覗かせるのではないか。
「権太夫殿は、芳之助と仲が良かったのか?」
鳴海の言葉に、十右衛門は肯いた。
「あれに影響を与えたのは、守山の三浦殿ばかりではない。芳之助も、中川道場に試合を申し込みに来るついでに、よく我が家に立ち寄っておった。藩政に不満を持つ者同士、通じるところがあったのだろう」
「であろうな」
鳴海は足元の小石を蹴飛ばすと、そのまま観音堂の石段に腰を下ろした。
丹波らの懸念はもっともである。尊攘過激派の言うままに鎖港を実行されれば、二本松の財政は大打撃を受ける。だがその一方で、その丹波の傲慢さが若手の不満の一因ともなっている。不満が大きなうねりとなり、かつ黄山が伝えてきたように、二本松にも朝廷から朝命が下される可能性があるとなれば、佐幕の立場を取る者と朝廷を奉じる者とで、藩論は割れるだろう。先程の清介の言葉は、それを示唆したものに違いなかった。やがて、鳴海もいずれの立場に立つか選択を迫られるかもしれない。
「――芳之助は、悪い風体になっていた」
鳴海の独り言に、十右衛門が顔をこちらへ向けた。
「月代が伸び、老け込んでいた。あれは、思いの外水戸でも粗末な扱いを受けており、今は己の寄る辺がいずこが正しかったのか、迷いが生じていたのかもしれぬ」
鳴海の処置が誤っていたとは思わないのだが、芳之助が脱藩した折の三浦平八郎の言葉とは反対に、芳之助が冴えない顔をしていたのが、鳴海の中でずっと引っかかっていた。二本松の武士は、本来他藩の者の指図を嬉々として受けるはずがなく、誇り高い。仮に一時的に尊攘の激情に流されたとしても、幼い頃から「藩公のために尽くす」ように教育されて育ってきたのである。それは、祖父の代から二本松に移り住んできた芳之助も同じはずであった。
芳之助は、時代が産んだ鬼子なのかもしれない。それを思うと、自らの手で芳之助を追放したとはいえ、暗澹たる気分になった。
「権太夫殿はいささか癖があるかもしれぬが、第二の芳之助にしてはならぬ」
鳴海が権太夫を気に入っているかといえば、微妙なところではある。だが、藩内一和を図り不満の芽を抑えるには、丹波とは異なる方法を考えねばならない。
鳴海がそう言い切ると、十右衛門は笑顔を見せた。
「お主であれば、義彰も信用しよう」
「だと良いのだがな。あれ以上の尊攘の論議は御免被るぞ」
二人は、共に笑った。
「――済まぬな、鳴海殿」
十右衛門は、嘆息した。どうやら十右衛門も、権太夫と清介の議論に付き合わされるのは辟易していたとみえる。
「お主も、気苦労が絶えないな」
ようやく気兼ねなく話せるようになり、鳴海もほっとして軽口を叩いた。そして、先程の会話中で気になったことを、思い切って尋ねてみた。
「あれから守山の平八郎殿は、二本松には?」
「お主の方が、平八郎殿と鉢合わせた回数は多いかもしれんぞ。一時はしきりに文を寄越しておったようだが、守山も助郷騒動がまだ続いておるようだし、上洛の騒ぎもあったからか、近頃は消息を聞かぬ」
十右衛門の言葉であれば、間違いはないだろう。鳴海も、その言葉に肯いた。確かに、守山藩も自藩のことで大童のはずであり、二本松にちょっかいを掛ける余裕はないと考えられる。
「それにしてもお主、随分と尊攘の動きに通じておるようだな。いつの間に?」
半ば感心し、半ば呆れたように十右衛門が鳴海に問うた。鳴海も、首筋を揉みながら答える。
「意識しているわけではないのだがな……。守山の三浦殿との因縁が続いた関係で、中屋の黄山殿にも教示をしてもらっている」
「なるほど、黄山殿ならば合理的な示唆をくれるだろうな」
この男ならば、たとえ身内であっても軽々しく口にはしないだろう。うっかり漏らせば、今度こそ三浦家の浮沈に関わるからである。
しばし沈黙が流れた後、十右衛門はためらいがちに口を開いた。
「……お主は、いずれ二本松が戦に巻き込まれると思うか?」
十右衛門は、藩の砲術指南者としての顔も持つ。特に弟子を取っていないが、砲術に関する知識は藩の中でも抜群の知見者であるからか、やはり政局は気になるらしかった。
「黄山殿によると、守山藩の者らも上洛一行に加わっていたそうだ。守山や水戸の動きによっては、戦の火種が二本松にも飛んでくるやもしれぬ」
さらに一月に京都で水戸藩の尊攘派有志を中心に会合があったらしいという黄山からの報告を伝えると、十右衛門は眉を曇らせた。
「義彰の奴は、虎の尾を踏みかけたな」
言われてみて鳴海も気がついたが、権太夫が江戸で猿田と会っていたというのが昨年暮の話である。猿田は、もしかしたら京の会合に権太夫を勧誘しようと目論んでいたのかもしれなかった。あの権太夫のことである。猿田に誘われるままに上洛していたら、本格的に二本松が尊攘の波濤に巻き込まれていた可能性は、否定できなかった。それを思うと、背筋が凍る思いがする。短気な丹波のことだから、そこまで思慮して権太夫の逮捕に踏み切ったとは思わないが、結果としては、やはり危ないところだったと鳴海も思わざるを得ない。
鳴海は武辺者ではあるが、藩の行く末を思えば、戦をせずに勝つ方法を模索して行かねばならない。それが、民の撫育を藩是とする二本松なりの戦い方である。
二本松が富津や江戸へ派兵しているのは諸外国からの攻撃を想定してのことであるが、本当に二本松が戦乱に巻き込まれるとなれば、その敵は案外内乱という形で顔を覗かせるのではないか。
「権太夫殿は、芳之助と仲が良かったのか?」
鳴海の言葉に、十右衛門は肯いた。
「あれに影響を与えたのは、守山の三浦殿ばかりではない。芳之助も、中川道場に試合を申し込みに来るついでに、よく我が家に立ち寄っておった。藩政に不満を持つ者同士、通じるところがあったのだろう」
「であろうな」
鳴海は足元の小石を蹴飛ばすと、そのまま観音堂の石段に腰を下ろした。
丹波らの懸念はもっともである。尊攘過激派の言うままに鎖港を実行されれば、二本松の財政は大打撃を受ける。だがその一方で、その丹波の傲慢さが若手の不満の一因ともなっている。不満が大きなうねりとなり、かつ黄山が伝えてきたように、二本松にも朝廷から朝命が下される可能性があるとなれば、佐幕の立場を取る者と朝廷を奉じる者とで、藩論は割れるだろう。先程の清介の言葉は、それを示唆したものに違いなかった。やがて、鳴海もいずれの立場に立つか選択を迫られるかもしれない。
「――芳之助は、悪い風体になっていた」
鳴海の独り言に、十右衛門が顔をこちらへ向けた。
「月代が伸び、老け込んでいた。あれは、思いの外水戸でも粗末な扱いを受けており、今は己の寄る辺がいずこが正しかったのか、迷いが生じていたのかもしれぬ」
鳴海の処置が誤っていたとは思わないのだが、芳之助が脱藩した折の三浦平八郎の言葉とは反対に、芳之助が冴えない顔をしていたのが、鳴海の中でずっと引っかかっていた。二本松の武士は、本来他藩の者の指図を嬉々として受けるはずがなく、誇り高い。仮に一時的に尊攘の激情に流されたとしても、幼い頃から「藩公のために尽くす」ように教育されて育ってきたのである。それは、祖父の代から二本松に移り住んできた芳之助も同じはずであった。
芳之助は、時代が産んだ鬼子なのかもしれない。それを思うと、自らの手で芳之助を追放したとはいえ、暗澹たる気分になった。
「権太夫殿はいささか癖があるかもしれぬが、第二の芳之助にしてはならぬ」
鳴海が権太夫を気に入っているかといえば、微妙なところではある。だが、藩内一和を図り不満の芽を抑えるには、丹波とは異なる方法を考えねばならない。
鳴海がそう言い切ると、十右衛門は笑顔を見せた。
「お主であれば、義彰も信用しよう」
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