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第二章 尊攘の波濤
守山藩(8)
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「――膳が冷めましたな」
三浦らが引き払うと、錦見が思い出したように頭を下げた。膳役に改めて温め直させた膳を運ばせようとするのを、鳴海は止めた。喉の奥に、まだ微かに煮付けの塩気と脂気が残っていた。代わって、食後の茶を所望する。
「鯉の験は十分にあったと、膳所の者にお伝え願いたい」
気の利いた新十郎の言葉に、錦見も笑顔を浮かべた。きっと、庭先での騒動は、台所で働いていた者たちにも伝わっていただろう。
「今泉も、喜びましょう」
それにしても、どうして鳴海が郡山に来るたびに、こうも三浦平八郎との因縁が持ち上がるのか。
「鳴海殿。三浦殿は、このまま引き下がるとお思いになられますか?」
新十郎の言葉に、鳴海は首を横に振った。
先程、領民から親しげに呼びかけられた様子からすると、平素の平八郎は、代官としてはそれなりに領民に慕われているのだろう。だが、鳴海や新十郎が対峙しているのは、「尊皇攘夷の志士」としての平八郎である。鳴海としても、先程の言葉は当面の条件を付しただけであり、あの平八郎がこのまま大人しく二本松藩の動向を見過ごすとは思わなかった。
三浦平八郎らの云う攘夷を実行すれば、現在二本松藩の歳入を陰で支えている生糸の輸出が止まる。租税である米の不作が続いているのは二本松も守山と同じであり、米の不作による歳入不足を補っている生糸を輸出できなくなるのでは困るのだ。だが、それはたとえ鳴海が藩の上役だろうと、安易に口を挟めない国策の領域でもある。
「将軍公が京で帝や公卿の方々と話し合おうとされている今、その結果を待つしかあるまい」
鳴海は、考えつつそう述べた。二本松藩としては、横浜鎖港が実行されれば困ったことになるが、それは輸出で利殖を得ている藩はいずれも同じだろう。だとすれば、仮に幕府が「鎖港」を呼びかけたところで、安易にそれに従わない藩も出てくるのではないか。さすれば、なし崩し的に「鎖港」は立ち消えになる――。
将軍後見職である一橋慶喜もまた、水戸藩の人間である。将軍である家茂だけでなく、声高に「攘夷」
を述べる公卿らにも強いつながりを持つ慶喜や越前藩の松平慶永が、どのように働きかけるか。それらの動き次第で、二本松藩の取るべき立ち位置も変わって来るだろう。
少なくとも、感情的でありながら老獪さも身に着けている丹波ならば、そう考えるに違いない。
「水戸や守山に二本松へ妙な者らを送りこまれては、藩是を揺るがす元になる。今は、それを防ぐのが肝要でござろう」
鳴海の言葉に、新十郎も肯いた。
「此度は、そもそも守山の問題。御家老方に、全てをご報告する必要はございますまい」
つまりは、「守山藩で越訴らしき動きがあったが、農民は諭して守山藩に返した」とのみ報告すれば良い。そうでなくとも、家老座上の丹波が国元へ戻ってきており、かつ公の御家族らも帰国してくるということで、現在藩は大わらわなのである。
「錦見殿。益子様や久子様らも、明日には郡山宿をお通りになられるご予定と記憶しておる。何卒、恙無きよう万事よろしくお頼み申す」
新十郎は、軽く錦見に頭を下げた。言われてみればその通りで、本来であれば、錦見も本陣で公のご家族を迎える準備で多忙なはずであった。今回の守山藩の騒ぎはそのような多忙の折に起きた出来事であり、錦見にとってもさぞ迷惑だったに違いない。
「承知致しました。久子様は、拙者もお目通りしたことがない故、どのような御方か胸が高鳴ります」
錦見の軽口に、鳴海も思わず口元が緩んだ。これまで大名の正妻や嫡子は江戸屋敷にいるのが当然だったから、二本松から出たことがない鳴海も、公の御家族に目通りするのは初めてである。
「義父から伝え聞いたところによると、歌道を愛される色白で上品な御方だそうな。公の奥方として、まこと相応しい女人だと」
そう述べる新十郎は、やや照れくさい面持ちだった。先立ってこの地において、丹波肝入の教育を受けた芸妓たちを容赦なくあしらった鳴海の前で、女人についてあれこれと論じるのは憚られたものと見える。
「内向きの者らも、奥方様らに御目通りするのを楽しみにしておりましょう」
鳴海も、自身は女人が苦手なのを忘れて相槌を打った。幼い頃より親しんできた公のご家族にお目通りできるのは、鳴海も楽しみなのである。
日頃の彼らに似合わず、三人はそれからしばし公のご家族についての談義で、大いに盛り上がったのだった――。
三浦らが引き払うと、錦見が思い出したように頭を下げた。膳役に改めて温め直させた膳を運ばせようとするのを、鳴海は止めた。喉の奥に、まだ微かに煮付けの塩気と脂気が残っていた。代わって、食後の茶を所望する。
「鯉の験は十分にあったと、膳所の者にお伝え願いたい」
気の利いた新十郎の言葉に、錦見も笑顔を浮かべた。きっと、庭先での騒動は、台所で働いていた者たちにも伝わっていただろう。
「今泉も、喜びましょう」
それにしても、どうして鳴海が郡山に来るたびに、こうも三浦平八郎との因縁が持ち上がるのか。
「鳴海殿。三浦殿は、このまま引き下がるとお思いになられますか?」
新十郎の言葉に、鳴海は首を横に振った。
先程、領民から親しげに呼びかけられた様子からすると、平素の平八郎は、代官としてはそれなりに領民に慕われているのだろう。だが、鳴海や新十郎が対峙しているのは、「尊皇攘夷の志士」としての平八郎である。鳴海としても、先程の言葉は当面の条件を付しただけであり、あの平八郎がこのまま大人しく二本松藩の動向を見過ごすとは思わなかった。
三浦平八郎らの云う攘夷を実行すれば、現在二本松藩の歳入を陰で支えている生糸の輸出が止まる。租税である米の不作が続いているのは二本松も守山と同じであり、米の不作による歳入不足を補っている生糸を輸出できなくなるのでは困るのだ。だが、それはたとえ鳴海が藩の上役だろうと、安易に口を挟めない国策の領域でもある。
「将軍公が京で帝や公卿の方々と話し合おうとされている今、その結果を待つしかあるまい」
鳴海は、考えつつそう述べた。二本松藩としては、横浜鎖港が実行されれば困ったことになるが、それは輸出で利殖を得ている藩はいずれも同じだろう。だとすれば、仮に幕府が「鎖港」を呼びかけたところで、安易にそれに従わない藩も出てくるのではないか。さすれば、なし崩し的に「鎖港」は立ち消えになる――。
将軍後見職である一橋慶喜もまた、水戸藩の人間である。将軍である家茂だけでなく、声高に「攘夷」
を述べる公卿らにも強いつながりを持つ慶喜や越前藩の松平慶永が、どのように働きかけるか。それらの動き次第で、二本松藩の取るべき立ち位置も変わって来るだろう。
少なくとも、感情的でありながら老獪さも身に着けている丹波ならば、そう考えるに違いない。
「水戸や守山に二本松へ妙な者らを送りこまれては、藩是を揺るがす元になる。今は、それを防ぐのが肝要でござろう」
鳴海の言葉に、新十郎も肯いた。
「此度は、そもそも守山の問題。御家老方に、全てをご報告する必要はございますまい」
つまりは、「守山藩で越訴らしき動きがあったが、農民は諭して守山藩に返した」とのみ報告すれば良い。そうでなくとも、家老座上の丹波が国元へ戻ってきており、かつ公の御家族らも帰国してくるということで、現在藩は大わらわなのである。
「錦見殿。益子様や久子様らも、明日には郡山宿をお通りになられるご予定と記憶しておる。何卒、恙無きよう万事よろしくお頼み申す」
新十郎は、軽く錦見に頭を下げた。言われてみればその通りで、本来であれば、錦見も本陣で公のご家族を迎える準備で多忙なはずであった。今回の守山藩の騒ぎはそのような多忙の折に起きた出来事であり、錦見にとってもさぞ迷惑だったに違いない。
「承知致しました。久子様は、拙者もお目通りしたことがない故、どのような御方か胸が高鳴ります」
錦見の軽口に、鳴海も思わず口元が緩んだ。これまで大名の正妻や嫡子は江戸屋敷にいるのが当然だったから、二本松から出たことがない鳴海も、公の御家族に目通りするのは初めてである。
「義父から伝え聞いたところによると、歌道を愛される色白で上品な御方だそうな。公の奥方として、まこと相応しい女人だと」
そう述べる新十郎は、やや照れくさい面持ちだった。先立ってこの地において、丹波肝入の教育を受けた芸妓たちを容赦なくあしらった鳴海の前で、女人についてあれこれと論じるのは憚られたものと見える。
「内向きの者らも、奥方様らに御目通りするのを楽しみにしておりましょう」
鳴海も、自身は女人が苦手なのを忘れて相槌を打った。幼い頃より親しんできた公のご家族にお目通りできるのは、鳴海も楽しみなのである。
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