鬼と天狗

篠川翠

文字の大きさ
上 下
48 / 196
第二章 尊攘の波濤

守山藩(4)

しおりを挟む
 三人が濃い目の味付けが施された旨煮をつまんでいると、座敷の外で人の騒ぐ気配がした。
「笹川村の農民が……」
 そんな言葉が聞こえてきて、鳴海は眉を顰めた。なぜ、こうも自分が郡山に出張してくると、変事が持ち上がるのだろう。
「お食事中に申し訳ありませぬ、錦見様。大善寺村だいぜんじむらの農民らを、笹川村の郷士らが捕まえたとの由でございます」
 顔を覗かせたのは、検断役の今泉である。今泉の言葉に、同席していた錦見も顔を曇らせた。
「大善寺村は、守山藩の領分ではないか。守山陣屋に差し出すのが筋であろう」
 錦見の言う通り、大善寺村は守山藩の領地であった。対して、笹川村は二本松藩領である。もっとも、この両村は阿武隈川を挟んだだけの関係であり、日頃から人馬の往来は活発であった。
「それはそうなのですが、笹川村の者曰く、どうも農民共が越訴えっそするつもりではないかと申しまして……」
 今泉は、困惑しきっている。越訴とは、自藩の領主に自分らの言い分が聞き入れてもらえない場合に、他藩の人間に働きかけて自分たちの言い分を認めてもらうよう運動してもらうことを言う。もっとも、越訴を受け入れる側も事後の処理が面倒であるから、歓迎するとは言い難い事態であった。
「面倒なことになり申したな」
 新十郎も、苦り切った顔をした。
「現在、守山は頼升殿が将軍公に従って京に上っておろう。その最中で守山陣屋も人が少ない故、強行を働けると踏んだか」
 確かに、新十郎の言う通りかもしれなかった。
「農民は、何と申しておる」
「白坂宿の助郷の寛恕を願い出たいというのが、奴等の言い分のようでございます」
 今泉が、恐る恐るといった体で口上を述べた。白坂宿は、白河と下野の境にある宿所である。国境の白河関を抱えている宿であるが、守山からは十里ほどもある。日帰りは当然無理であり、幕府の道中奉行も当地の地理情報を把握しないまま命じたとしか、思えない距離であった。のみならず、一部は下野の芦野宿の大助郷を命じられているという。
「守山の三浦平八郎殿には連絡したか?」
 新十郎が、今泉に尋ねた。二本松藩にとっては因縁の相手ではあるが、守山陣屋の実務の責任者は、平八郎である。今泉が平八郎に連絡をするのは当然であった。
「それが、あちこちで農民共が行方をくらましているようで……。それらを追いかけているのか、三浦様の所在がつかめないとのこと」
 今泉の言葉に、三人は顔を見合わせた。同時多発的に農民が失踪したとなれば、予てから示し合わせていたものに違いないだろう。
 と、そこへ足音も高く駆け込んできたのは、当の三浦平八郎だった。
「錦見殿。こちらへ我が守山の民が参っているとの由、まことでござるか」
 その息は荒く、顔も強張っている。部屋に入ってきた平八郎は、鳴海と新十郎の姿を認めるとすっと目を細めたが、特に何も言わなかった。鳴海が平八郎と顔を合わせるのはこれで三度目だが、これほど余裕がない平八郎は初めてである。
「三浦殿。そこにいる今泉によれば、笹川で大善寺村の者を捕らえたそうだ」
 錦見が、落ち着いた声色で返答した。
「直ちに、その者らを守山へ帰す所存でござる」
 農民の脱走は、平八郎にとっても大きな失態に違いなかった。まして、散々虚仮にしてきた二本松藩の者に失態を見られたとあっては、恥もいいところである。
「三浦さまあ。そこにいらっしゃるのでしょう?どうか、儂らの言い分をお聞き下せえ」
 庭先から、大声で呼ぶ声がした。あれは、脱走してきた農民に違いない。陣屋の庭は白洲も兼ねているから、代官である錦見の判断を仰ぐために、郡山陣屋の手下らは引っ立てた農民をこちらに回したのだろう。これだけ騒がれては、話を聞かずに帰すわけにはいかない。新十郎が、ちらりとこちらに視線を寄越した。どうやら、話だけは聞くつもりのようだ。
 錦見も肯き、下男に命じて一旦三人の食膳を下げさせると、庭に面した面した障子を開けさせた。庭には、既に荒縄で縛られた男が二人、正座させられている。
 男の懐には、「上」と認められた封書が刺さっているのが目に止まった。紛れもなく、上訴状である。
半内はんない儀七ぎしちか」
 天を仰ぎながら、平八郎が呟いた。守山藩の実務役である彼は、これらの者を見知っているらしい。
「二本松藩の御陣屋の庭先を汚すとは、何事か」
 農民らを叱りながらも、その声色には微かに憂慮の色が滲んでいた。鳴海には、それが意外に感じられた。
「したっけ、三浦様。儂らがはるばる白坂宿まで助郷に行けば、村の作事はどうなります。もう大善寺村には、まともな男手はほとんど残っていねえ」
 鳴海の隣では、新十郎がじっと何かを考え込んでいる。何か、腹に一物あるようだ。
「その懐に入れているのは上奏文に相違ないな?これも好機であろう。声に出して読み上げてみよ」
 笑顔で応対する新十郎の傍らで、平八郎が苦虫を噛み潰したような顔をしている。二本松藩の者らには、守山の内情を知られたくないに違いない。だが、新十郎に声を掛けられた農民は、ぱっと喜色を顔に浮かべた。
「では、遠慮なく申し上げます」
 新十郎は、側に付き添っていた下士に鷹揚に肯いてみせ、縄を一旦解かせた。兵助はたどたどしいながらも、声を張り上げて上奏文を読み始めた。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

処理中です...