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第26話 婚約者がいなくなりました
しおりを挟むあの月夜からアーサー様はご多忙とのことで、ほとんどお会いできずにいます。私が避けているせいももちろんあるのですけど、スラットリー男爵家のアレコレが佳境のようです。
司書の先生を通してスラットリー家についての報告は定期的にいただいています。近ごろシャリマ旧街道の警備中、野盗に襲われかけた旅人を保護したところそれがヘリン公国からの密使であることがわかったと聞きました。
こちらへその連絡が来ているのですから、密使はすでに王城へ到着してその任務を完了していることでしょう。原作通りであれば、ヘリン公国との平和友好条約および両国の資源に関する協定が早々に結ばれるはず。
学院のほうはといえば、夏休みも終わりに近づいて寮にたくさんの人が戻って来ました。以前、友人たちが言っていたように休学をする生徒も少なくないようです。それは条約の締結が発表されればきっと解決するでしょう。
秋から私たちはそれぞれひとつずつ学年が上がります。新入生を迎える前に、マリナレッタさんの礼法やダンスが淑女にふさわしいものになりつつあり、私もホッとしたというか。ヒロインが下級生にバカにされる姿なんて見たくありませんからね。
今日はいつものようにカフェのテラス席で刺繍を。今はまだ暑いと思えるような気温ですが、庭にある木の一部では少し葉の色が変わりつつあるものも。そのうちテラスに出るのは難しくなるでしょう。
「わ、素敵なデザインですね」
顔を上げた先にはマリナレッタさんがいました。対面の椅子を手で指し示すと、彼女は一礼してそちらへ座ります。ふふ、本当に所作が綺麗になりましたね。
「アーサー様に刺繍しろって言われてしまったから」
「獅子と……月ですか?」
「そのつもりだったのだけど、どう見ても赤いマルを足しただけでしょう。月だと思ってもらえてよかったわ」
赤いマルなんて日本人の私からすれば日の丸ですよ日の丸。こっちでは月って言われるんですから面白いものですね。
「獅子を見守ってるみたいで素敵だと思います」
「ふふ、ありがとう。あ、そういえばお家のほうは大丈夫?」
「おかげさまで……。本来なら私が領地へ戻って立て直したりするべきなのでしょうけど、私の勉強はただでさえ遅れているし、領地経営についてはまだ素人だし、来なくていいと父が」
「そう。でも、そうね。アーサー様なら悪いようにはしないはずよ」
後妻、執事、そして男爵を診た医師は国から派遣された部隊によって捕縛されました。王家主導で調査が行われたことや男爵の状態が良くないこともあって、代理人を立てた上で王都で裁判などが行われるそうです。
スラットリー家はこれでひと段落、でしょうか。
「そうですね、殿下も我が家に立ち寄って様子を見てくださると」
「え?」
「え?」
二人で目を見合わせてぱちくりと見つめ合いました。
え、今なんておっしゃった? アーサー様がスラットリー家へ立ち寄る……?
「あの、いまなんて」
「ごめんなさい、まさかご存知じゃないとは思わなくて。え、どうしよう言っていいのかな」
「待って、言っていいです。責めないし責めさせないし。大丈夫、何かあったら予言書に書いてあったって言うから」
「予言書って! アハハ、エメリナさまも冗談をおっしゃるんですね」
まぁそういう反応になりますよね。
その後マリナレッタさんがおずおずと話してくれたのは、アーサー様が遠方へお出かけになるらしいということでした。途中でスラットリー領へ立ち寄るというのですから、東へ向かうのでしょうけど。
「あまり詳しく聞いていなくて、ごめんなさい。たしか三日前くらいに出発されたような」
「いえ、大丈夫よ。ありがとう」
どおりで最近まるで姿をお見かけしないなと思ったんですよ! こ、婚約者に何も言わず、長期でお出かけしますか普通? しません、断じてしませんっ!
しかも、しかもマリナレッタさんには伝えて行くって。待って、アーサー様とマリナレッタさんの間には何もないとわかってますけど、二人が恋仲になる世界線を知ってる私にとってはほら、元カノみたいな感覚あるじゃないですか!
元カノに、元カノに出掛けるって言って私に何も言わないとかっ!
ぷりぷりする私に、マリナレッタさんが目を細めました。
「エメリナ様もそんな風に拗ねたりなさるんですね」
「拗ねる?」
「はい。こういうの不敬って言うのかもしれないですけど、可愛いです、すごく」
「不敬だなんて咎めたりしないけど、ちょっと感情が出すぎたかしら。気を付けるわ」
可愛いのにーもったいないーと唇を尖らせるマリナレッタさんにはしたないと注意して、私は図書館へ向かいました。もうひとり、詰めておかねばならない人物がいますからね!
司書の先生は、私の姿を見るなり奥の事務室へ逃げようとしました。一瞬、やべって顔になったのを見逃してませんよ、私は。
「どこへ行くおつもりですか?」
「いや……」
「どちらへ行かれたんですか?」
「その……」
手に扇など握っていませんので、人差し指と中指とで机をトントンと叩きます。背中を丸めるようにして小さくなっていた司書の先生ですが、上目遣いでこちらの様子を窺ってため息をつきました。
特大のため息をつきたいのはこちらですけど⁉
「ちょっと、ヘリン公国まで」
「へ、ヘリン公国ですって⁉ ちょっとそこまでってノリで向かう場所じゃなくてよ? それに……」
それ以上言葉が続かなくて、私は盛大なため息とともにその場にしゃがみ込んでしまいました。
だって滞在日数にもよるでしょうけど、今ヘリン公国へ行ったのなら聖トムスンデーに間に合わないじゃない!
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