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  考えあぐねて次の日、母が倒れたと有休をもらい、同じ理由で修平の誘いを断った。案の定、忙しい彼は次の予定がなかなか立てられないようだった。そうしてまた修平に出張が入る。

 その間に私は部長に退職願を出した。離婚してから会社の中で居心地が悪いのは分かっていたことなので部長も私を引き止めはしなかった。

 住まいを都心から子育て中心の街に移すと産院も確保した。スマホもすぐ解約して番号を変えた。ワンルームは少し古いけど中は綺麗だし、子供を育てることを考えて少し広い部屋にした。大家さんが優しそうな高齢の女性でシングルの私にもとても親切にしてくれた。

「きっと、イケメンになるに違いない」

 すっかり雲隠れも上手くいき、お腹の子の性別は男の子だと判明していた。大きなお腹はぽんぽこりんで重いけど、胎動も感じてもう一層我が子が愛おしい。修平には悪いが修平に似たらきっとイケメンになるだろう。楽しみでならない。定期健診の帰り、エコー写真を見ながら私はニヤニヤしてしまった。

 もう、孝也のことなど全然思い出さなかった。代わりにふと思い浮かぶのは修平の事ばかりだ。よくよく思い出せは彼はいつだってとても優しかった。泊まりに来た日に急に孝也が夜中にお酒が足りないからコンビニ行けと命令した時も窘めて代わりに行ってくれたし、孝也がくさした料理もいつも美味しいと頬張ってくれた。

 修平にとったら、たった一晩のお情けだったに違いない。でも、私にとってあの夜、人生で一番幸せを感じたかもしれない。

 求められて、大切に大切に抱いてもらった。

 愛されていると錯覚できるくらいに。

 私の親は地元で会社を経営している。地元ではちょっと名の知れた会社だ。見栄張りの両親には『お兄ちゃんだけで良かったのに、お前は間違って出来た子』だと聞かされて育った。兄は習い事も塾もすべてお金を出してもらっていたのに、私は家の手伝いが当たり前で、それが完璧に出来なかったと罰としてよくご飯を抜かれていた。

 高校は『ぐれたことにして働かそう』と相談している両親の会話を聞いて恐ろしくなり、母と仲違いしていた叔母さんに頭を下げて三年間住まわせてもらってなんとか通った。叔母夫婦はいい人で従姉も優しかったが、私がアルバイトをしていると知った兄がお金をせびりに来てからは、仲良くして迷惑をかけないように注意を払った。大学は奨学金と就職したらお金を返す約束で祖母に借りた。大学からは一人暮らしして、兄を刺激しないように大学も大したところではないと嘘をつき、就職先も名も知らないところだということにしておいた。もともと私には興味のない人たちだから、私が目立つことさえしなければ大丈夫だった。そのころに祖母が亡くなったが、実家を毛嫌いしていた母は、遺産の話だけしてお葬式さえ来なかった。

 私には無関心……それは今でも変わらない。孝也と結婚すると報告した時も『結婚式には出席しないし、ご祝儀も出すつもりはない』と言われ、離婚したと報告したときも、シングルマザーで子供を産むと言った時も『迷惑かけないでよ』の一言で終わった。

 孝也と幸せな家庭を築きたかった。ドラマみたいに家族で手を繋いで歩いて、旅行に行って……。私は家族から除け者だったから、孝也の両親が過干渉ぎみで嬉しかったのかもしれない。お金が目的だったとしても彼らはいつも私を誘ってくれた。それなりに愛されていたとは思いたいが、でも結局は捨てられてしまった。

 誰かに愛されたかったのだろうか。

 きっと必要とされたかったのは確かだ。それは今も変わらない。

 今私はお腹の中の小さな命に必要とされている。へその緒から栄養を取って一生懸命に小さな心臓を動かして成長している、そう考えると一層愛おしい。

「ありがとう……」

 そう語りかけて、名前を付けていないことに思い当たる。さて、名前はなんにしようか。私が千沙だから千歳はどうだろう。千晶もいいな。そうだ、千晶にしよう! しっくりくる。

「君の名は千晶だよ」

 ふふ、とお腹を撫でながらワンルームの我が家へ戻ろうと前を見ると自宅のドアの前に誰かがいた。



 誰?

 警戒して一旦門の後ろに隠れた。それはどこか見慣れた背中だった。

「あらあ、寺田さん、そんなところでどうしたの?」

「お、大家さん……こんにちは……」

 運悪く後ろから声をかけられたことでドアの前に立っていた男に私の存在がバレる。

「千沙……久しぶり」

「……久しぶりだね、孝也」

 そこには無精ひげを生やした孝也がいた。私と暮らしていた時は身だしなみを気にしていたのにヨロヨロのシャツを着ていた。

「まあまあ、お知り合い?」

「ええ、まあ」

「ふーん……。私はこのアパートの大家です。寺田さん、困ったことがあったら言ってね。後でたくさん送られてきたリンゴをお裾分けするわ~」

「ありがとうございます」

 孝也を確認するように見てから、意味深な言い方をして大家さんが通り過ぎた。目撃者がいるなら孝也も私に危害は加えたりできないだろう。大家さんの配慮に感謝だ。ペコリと大家さんに頭を下げて孝也に向き直った。彼は私のお腹を見て驚いた顔をしていた。


 ***

「妊娠……できたのか」

「うん。運よくね」

「俺の子……」

「の、訳ないでしょ」

「まあ、そうか」

 部屋にあげるなんて選択肢はない。私は孝也を近くのファーストフードに誘った。孝也はハンバーガーのセットを頼んだが、私はオレンジジュースだけにした。

「男がいるとは思わなかった」

「……まあ、うん。ところで、どうやって私の居場所を知ったの? それと、何の用?」

「いや、会社に不倫がバレただろ? こっちの支社に飛ばされたんだ。で、スーパーで千沙を見かけてさ。びっくりしたよ。んで、後をつけた」

 なんてこった、こっちに飛ばされたのか……。孝也の事なんてどうでもよかったから知らなかった。何たる偶然……全くありがたくない。

「そういえば細井さんとの子供は? もう生まれてるよね?」

「……それが、生まれたんだが、肌が黒かったんだ」

「ん?」

「だから、肌の色が黒かったんだ。髪もカールしてた」

「ふーん……隔世遺伝とか?」

「俺も凛音の家系も純日本人だよ。しかもDNA検査もしたから間違いない。クラブで会ってた外国人と関係をもってたらしい、そっちの子だ」

「……」

「浮気、していたんだ。ていうか、三股してて、父親になるのは誰でもよかったらしい。まあその外人とはその場限りだったみたいだけど」 

「すごい展開……」

「俺が馬鹿だった。子供が出来なくても、千沙は俺も両親のことも大事にしてくれていたのに」

「はあ……」

「あそこに住んでいるのか?」

「うん」

「一人で?」

「……」

「田舎のワンルームで妊婦って、男がいたらそんなとこに住んでないだろ。はあ、お前がそんなことするなんてな……自暴自棄ってやつか」

「でも、妊娠できたの。私にとってはこんな幸運ないから大事に育てるの」

「凛音も千沙も行きずりの男が相手なら、俺は千沙の子を一緒に育てたい」

「……なに、言ってるの?」

「俺とやり直さないか? 母さんには本当は俺の子が出来てたって言う。まさか、お前の相手も外人じゃないよな?」

「そうじゃないけど、やり直すわけないでしょ。馬鹿なの?」

「へっ?」

「どうして私を裏切った男とまた結婚して、辛い思いしなきゃいけないの? あなたにも、あなたのご両親にも、もううんざりなの」

「でも、一人で子供を育てるなんて大変だろ? 父親がいる方がいいに決まってる。それに、二人目は俺の子を産んでくれたらいい」

「あのさ、大変だと思うならやっぱりきちんとした額の慰謝料くれないかな? 孝也たちが子供の未来を考えてくれって懇願するから雀の涙で我慢したの。今は私も子どもの未来があるんだから」

「いや、でも」

「どうせ、金回りが悪くなってご両親に私ともう一度結婚しろって言われたんじゃないの?」

「ど、どうしてそれを……」

「はあ。やっぱり。私はもう会社も退社したし、営業部で働いてた頃とは違うの。今はこの通り貧乏してるし、あなたとやり直すつもりはない」

「ごねられて長引いてるけど凛音とは別れる。あいつはすぐ仕事を辞めて家で毎日妊婦を理由にゴロゴロしてたんだ。他の男の子を生んだ今も絶対に働かないし、離婚もしないと喚いてる。しかも飯は不味いし、片付けもしない。そのくせあれしろ、これくれと要求してくる。その点千沙はそんなことしないし、働いてくれるなら給料だって俺より低くていいんだ」

 孝也の言い分を聞いて、もうため息しかでない。復縁を求めるにしたって、せめて離婚が成立してからだろう。どうしてこんな男と結婚していたんだろうか。

「私、あなたにも、あなたのご両親にも結婚してから『ありがとう』って言葉を聞いたことがないって、離婚してから気づいたの。もう元にはもどれない。一人の方がマシだから」

「そんな……」

「あなたが選んだんだから、細井さんと仲良くね。他所の男との子でいいならそれでいいじゃない。じゃ」

「千沙!」

「二度と、呼び捨てするな。あと、しつこくするなら弁護士雇って正式な慰謝料を請求するから」

「ぐ……」

 低く脅すように言ってから孝也がひるんだのを見て店をでた。私にあんなに反抗的な態度をとられたのがショックだったのか孝也は追ってこなかった。
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