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 目を開けると慣れない天井が見えた。照明も洒落ているな……。
 修平ってお金持ちなのかな。うちの給料だけじゃあ、こんなところには住めないだろう。

 あ……こんなところにもキスマークがついてる。

 腕を持ち上げると二の腕の内側に鬱血したところがあった。なんだかそれがお守りのように思える。昨晩少なくともこの世界で一人だけは私を必要としてくれた。

「ふ……ふふ……う……あああああっ……」

 感情がこみあがってきて側にあったタオルで顔を押えた。声がなるべく漏れないように私は大泣きした。本当は、孝也と細井を罵りまくって泣き叫びたかった。でも、あの二人の満足そうな顔を見るとプライドが許さなかったのだ。結婚当初は祝福してくれていた義両親も子どもが出来ない私を『孝也は問題ないんですってね』とため息とともに責め立てた。

 一生懸命、結婚して仕事をしながらも、それでも精一杯孝也に尽くしてきたつもりだった。孝也が趣味の車にお金を注ぎこめていたのも共働きだったからではないか……。

 義実家にも何度も手伝いに行った。病院に行くから車を出して欲しいと頼まれて有休を使って行ったら、帰りにアウトレットモールに行かされて、ブランド物を買わされたこともある。旅行だって全額持って連れて行ったし、台所のリフォーム代だって援助した。

 でも、結局、子どもを作れる女には何も勝てなくて。

 簡単に私は捨てられてしまった。

 一度は不妊治療を頑張ろうと言って裏切っていた孝也が嫌いだ。

 遊びだったと土下座したのに、子どもが出来たと聞いた途端態度が変わった。

 誇らしそうに私を眺めた細井も嫌いだ。

 何かして欲しいばかりの義両親も。

 離婚して正解だったんだ。あんな人たち。

 縁が切れて正解だった。

 修平がコンビニの袋を持って戻ってきたのはひとしきり泣いた後で、気を使って外に出ていてくれたのが分かって恥ずかしかった。

「色々ありがとう」

 きちんとベッド横に畳まれていた自分の服を着て、私は修平にお礼を言った。すぐに帰ろうとしたのだが、『せめて腫らした目を冷やしてからにした方がいいです』と言われて、冷やして落ち着いてから帰ることにした。修平が何も言わないことに甘えて、私も何も言わなかった。

「これ、クリーニング代」

 財布に入っていた札を全部渡すと修平がため息をついた。

「受け取らないって言っても、きっと置いていくつもりなんでしょう?」

「わかってるなら受け取ってね」

「じゃあ、これは返します。タクシーで帰ってください」

 その中の一万円札を戻される。その強い視線に『僕も譲りませんよ』という意思が見えて、ありがたくそれを受け取った。ドアの前でいいと言ったのに修平が送ると言って聞かない。散々説き伏せてマンションのエントランスまで降りた。

「何か、あったら僕に連絡ください」

「……わかった」

「では、また月曜日に」

「うん。本当に、お世話になりました。ありがとう」

 最後にもう一度お礼を言って別れた。心配そうにしていた修平だったが、私が久しぶりに笑ったのが分かったのかエントランスからはついてこなかった。

 修平がなかったことにしてくれた昨日の夜は、私に大きな自信を与えてくれた。

「さてと、やるかぁ」

 引っ越してからずっと段ボール箱に入ったままだったものを出して片づける。
 新しい生活が私を待っている。もう、あんな奴らの為には泣かない。きっと私は大丈夫。
 そっと二の腕を押えてから、私は気合を入れた。



 ***


 ちょっと顔を合わせづらいなぁ、と思いながらでも、それでも会いたいような気もして出社した月曜日、修平は姿を現さなかった。代わりに私は話があると部長に呼び出された。

「え、黒川、部署異動ですか?」

「ああ、そうだ。黙っていたんだけどな、実は黒川の本名は花菱修平。うちの会社の会長の孫だ。色眼鏡で見られたくないって母方の姓を名乗っていたんだ。父親は研究員になって海外に在住だ。会長がなんとか孫には会社を引継ぎさせたいと呼び寄せて、いろんな部署を回らせていたんだよ」

「それで黒川だけサイクルが早く部署異動していたんですね」

 修平の住まいを思い出す。なるほど、会長の孫なら高級マンションに最新家電も納得できる。

「昨日の晩、会長が倒れてな、命に別状はないんだが、黒川を手元に戻したいと言われたらしい。会長の容体が落ち着いたら名前も花菱に戻して、しばらく社長秘書をするそうだ。うちの企画営業部は気に入ってくれていて、黒川の希望で延長していたらしい。正直戦力がかけてうちの部としては痛いが、将来は社長だからな」

「なるほど」

「黒川はしばらく有休をとって会長の側にいるそうだ。なんでも黒川の手を離そうとしないらしいからな。そういうことだから、彼がやっていた仕事は皆で分散してくれ。今の時期はそう重要なものはなかっただろ?」

「ちょうど案件は終わっていますので問題ないと思います」

「まあ、寂しくなるが仕方ない」

「はは……」

 部長と話をして机に戻った。修平は花菱商事の御曹司だったのか。なんだか、気が抜けてしまった。これはますます、あの夜の事はなかったことにしていないと……。しばらくしてその話をかぎつけた女性社員が一斉に修平の話題を広めた。

「吉沢と神部は黒川が会長の孫だって知ってた?」

「えーっ……知りませんよ! なんだか物腰が柔らかいから、育ちがいいっていうのは分かってましたけど」

 二人は修平の追っかけかと思うほど熱烈にアタックしていたので聞いてみる。しかし意外と知らなかったようで、私だけ聞かされていなかったのではないと確認して少しほっとした。

「鹿島……違った、寺田さん、私たちとっくの昔に黒川さんには振られているんですよ。その後は二人で割り切ってアイドルみたいにファンでいるだけです」

「え、振られていたの? なんか、明るかったから全然知らなかった」

「二人で振られたらまあ、いっかー。みたいになっちゃって意気投合です。それに、黒川さんにはずーっと好きな人がいるみたいなんですよね」

「へえ……」

 好きな人……いたのか。そんな資格もないのに胸がズキリといたんだ。もう、修平にはかかわらないようにしないと。これ以上迷惑をかけてはいけない。

 そうは思っても、修平はもう営業企画部には戻ってこなかった。一週間経って私の出張が入り、その間に彼が部署の異動の挨拶に来たらしい。顔も合わせずに結局もう二週間も経った。修平も忙しいだろうに、その間は私にメッセージをよこしてくれた。大体は私を心配するメッセージで、『大丈夫だから、そっちも頑張って』と返しておいた。

 その頃には、あの晩の出来事はやはり夢だったのじゃないかと思うようになった。お守りにしていた鬱血痕ももうすっかり綺麗になっていた。修平は何度か『会いたいので時間を空けてください』とメッセージを寄こしてくれたが、部署の挨拶はもうしたのだから、律儀に私に挨拶することもないし、メッセージで十分だと返しておいた。

 そうこうしているうちに会長の具合は落ち着いて、社長の海外出張についていくことになった修平に『どうにか一度会ってください』と頼まれたが、結局スケジュールが合うことはなく、別に急ぐことはないと戻ってきてから会う約束をした。

 律儀だな。でも、これで良かったような気もする。私の仕事も順調だし、もう離婚の事も気にしなくなった。何よりあれから孝也のことも急に興味が無くなった。

 ずっと一人では寂しいから猫でも飼おうかな……。そんな風に思えるくらいに私は元気になっていた。
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