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ヴァネッサ 1

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 目が覚めるとぐらりと体が揺れた。どうやら居眠りをしていたらしい。どこかで読んだことのあるような本を広げ、押し花の栞が今にも落ちそうな場所に置かれていた。
 ここはどこだろう。
 首を傾げる。
 そして軽く瞬きをしてから辺りを見渡して、ようやくとても知った空間であることを思い出した。実家の自室だ。
 どうやってこの場所に戻ったのか全く記憶がない。そもそも本を広げながら居眠りをするような余裕はなかったはずだ。なにせ、ホールデン伯爵家の古井戸に突き落とされたのだから。
 なにが起きたのだろう。
 もう一度本に視線を向ける。随分昔に流行った冒険小説だ。なんでも道徳とやらを養うのに良いと父に突きつけられた記憶がある。
 なぜ今更こんな本を読んでいるのだろう。ばかばかしい。
 本を閉じて立ち上がろうとした瞬間、視線の高さがいつもと違うような気がした。
「は?」
 一体なにが起きたのだろう。机がいつもより高い? そんなことがあるはずがない。
 思わず足下を確認する。視点がいつもより低い様な気がした。
 おかしい。
 慌てて鏡を覗き見る。
「……若返った?」
 そんな馬鹿な。夢でも見ているのだろうか。
 あの恨みが、憎しみが夢であるはずがない。しかし、だからといって若返りたいと願った記憶もない。
 ただ、あいつらを殺したい。それだけだ。
 鏡の中の私は幼い子供に見える。あの退屈な冒険小説が手元にあるということは、推定七歳と言ったところだろうか。窓には既に格子が填められている。ということは私は既に悪魔の子として両親に警戒されているのだろう。
 また同じ時間を繰り返せとでも言うのか。
 冗談じゃない。
 怒られるのが面倒だから大人しく従順に振る舞ってやったというのにどいつもこいつも私を邪魔者扱いした。だったらもう遠慮なんてする必要がない。
 やり返してやる。
 しかし現状を把握しきれていない。復讐は蜜より甘いとは言うが、まずはなにからすべきだろう。
 日付の把握だ。過去に戻ったのか肉体が若返ってしまったのかを把握しなくてはいけない。
 とは言っても……過去に戻ったところで日付を確認する術はない。
 こんな子供の頃に新聞を読んだりはしなかったし、日記をつける趣味もない。祭りやらなんやらがあれば妹に押しつけられたあれこれで把握出来るかもしれないが、今のところ手がかりはくだらない冒険小説だけだ。
 私は別に読書家ではない。やることがないから暇つぶしに本を読んでいるだけで、絵を描く方がまだ趣味と呼べるかもしれない。もっと言うならば解体や分解が好きなのだが、たぶんこのくだらない冒険小説が手元にあるということは、執事から懐中時計を奪い取って分解した直後なのだろう。

 私、ヴァネッサ・ヴァニア・ボーデンはボーデン男爵家の長女、とされているが実際のところ養女である。赤子の頃に金で買われた子供であり、ボーデン男爵家に迎えられた直後、男爵夫人の妊娠が発覚し早速邪魔になる。
 それでも、幼い頃はまだそれなりに可愛がろうとされていたと聞く。
 両親の反応が変わったのは私が六つの頃だった。
 当時から既に妹の方が可愛がられているのは感じ取っていた。特に母の反応は明らかに妹、アナスタシアを贔屓していると感じられるものだった。アナスタシアが許される行動もヴァネッサは叱られる。そんなことが多々あった。
 母はたぶん、精神に欠陥があるのだと思う。甲高い声でキーキー騒ぐ姿はとても不快で、あの声を聞くくらいなら大人しく従っていた方がマシだと判断できる程度には頻繁に騒いでいた。
 だからだろう。使用人達は私を『大人しい子』だと思っていた。もしくは『少し大人びた子』と。使用人達とは言っても金で爵位を買ったような男爵家で、基本他人に見えない部分にはせこい父だ。洗濯と掃除を担う女使用人がひとりと庭師がひとり、それに執事がひとりと料理人がひとり。ボーデン男爵家の使用人はそれで全てだった。庭師が御者を兼任することがあるような様子で、お世辞にも雇用条件が良いとは言えない環境だ。
 そんな中、私の異変に一番最初に気がついたのは庭師のキースだった。
 当時の私は庭遊びが好きだった。キースに隠れて背の低い木の陰で草を引きちぎったり虫を捕まえたりして遊んでいた。時々鳥や猫を捕まえることもあった。
 あの日は小さな鳥を捕まえて、どうしても構造が気になった。ただ、作りが知りたかっただけだ。その少し前に料理人のダンが夕食に使うからと鶏をどこかに連れて行ってしまったのを見たけれど、夕食に出てきたのは肉の入ったパイで、鶏は一体どこへ行ってしまったのだろうと不思議に思ったこともあって、鳥の羽根を毟っていたのだ。それをキースに見られた。それだけだった。
「お嬢様、一体なにをなさっているのですか」
 キースは少し慌てた様子で言った。
「なにって、この下がどうなっているのか見てみたいの」
 鳥はじたばたと暴れて、私の手を傷つけた。
「こら、動くな」
 意外と鳥の羽根ってたくさん詰まっているのね。少し毟ったくらいじゃ下が見えないわと更に羽根を毟っていく。
「いけません」
 キースが私から鳥を奪った。
「私が捕まえたのよ」
「こんなことをしては鳥が死んでしまいます」
「どうして?」
「どうしてって……飛べない鳥はただの餌ですから」
 キースは少し悩んでそう答えた。
 今思えば、彼の回答も父がよく言う【道徳】とやらからは外れていたかもしれない。
 あの日からキースは私を監視するような視線を向けてくるようになった。
 別に虫が好きなわけではない。ただ、ばらして構造が知りたいだけ。どうしてあんなに小さくておかしな形をしている物が動いているのかしら? と考えると解体してみたくなる。
 たぶんアナスタシアを認識した直後もそうだったのね。
 庭にあった大きな石をぶつけようとしてキースに止められた。
 それからだ。父が私に【道徳】とやらの重要性を説くようになったのは。
 私の部屋には週に二回神父が来て神とやらの話や、【道徳】と言ったものの話をして帰る。正直とても退屈だ。そして私の中の悪魔と戦うために必要な心を養いなさいと説く。
 そう、私の中には悪魔が棲んでいるらしい。
 初めにそれを疑ったのはキースで、私がアナスタシアの命を狙っていると、母に告げ口をしたらしかった。そして母も私を危険だと認識したらしい。その次の日には父が神父を連れ、悪魔払いをした。しかし、それは一向に効果が現れなかった。
 一度養子に迎えてしまった手前外聞を気にする両親は私を追い出すことも出来ず、【道徳】だとか【倫理観】を養う勉強を重視し、部屋に閉じ込めるようになった。
 次第に、私も大人しくしている方が楽なのだと気がつき、解体の代わりに書をねだり、普段は大人しく従順な娘であるように振る舞うことにした。なにせあの退屈な悪魔払いをされずに済むのだ。それだけでも儲けものだった。

 部屋を見渡せばやはり【道徳】に関する本が多い。正直退屈な話ばかりだ。けれどもちゃんと読んでいるか確認されるので、全部頭に叩き込んである。もともと記憶力は悪くない。一度読めば覚えられる。
 つまり、今日かはわからないけれど、授業に来る神父か悪魔払いに来る神父に遭遇する率が高いのだろう。この頃には既に大人しく従順な娘になったふりをしていたかもしれない。そう、アナスタシアのわがままに拍車が掛かってくる頃だ。しかし、大人しく従っていても殺されるのだからもう遠慮なんてする必要がないだろう。あのうるさい母親は物理で黙らせればいい。
 そう、考えていると扉を叩く音が響く。
「はい」
 大人しく返事をすれば鍵を開ける音がした。
「ヴァネッサ、神父様がいらした。今日もしっかり勉強しなさい」
「はい、お父様」
 少し懐かしいやりとりだ。たぶんこの頃の彼は私を修道院にでも入れようと考えていただろう。けれども、ホールデン伯爵が彼の計画を壊してしまった。
「こんにちは、ヴァネッサ」
「こんにちは。神父様。今日はどんなお話をして下さるのかしら」
 歓迎してますと振る舞えば、神父は気を良くした様子を見せる。まるで自分の教えのおかげで私が変わったとでも言いたそうに満足気な様子で時折頭を撫でてきたりするところがまた気持ち悪い。
 けれども彼は日付を知る手がかりを持ってきてくれる。課題帳だ。ようは宿題を出される。今日のお話の続きを読んで感想を書きなさいというものだ。初めの頃は私の感想があまりにも世の中の人間とかけ離れすぎていることに戸惑っていた神父だったが最近の記録では褒める言葉が多い。当たり前だ。どんな回答をすればこの男が機嫌良くなるか把握している。
 つまり、私が神父の考え方を把握した時点でこの授業は無駄なのだ。
 もう既に一度聞いたことのある退屈な話を聞いて笑顔で神父を見送る。課題帳さえ貰えばもう用はない。課題帳は二冊あって来る度にその日の日付を書いた物を持ってきて、一つ前の物を回収して帰る。今日の日付を見れば、だいたい予想通り。七歳の春だ。つまり、私の夫となる男に求婚される少し前だ。

 私の夫、ワイリー・ヴァン・ホールデン伯爵は些か少女趣味のある男だ。なにせ十も年上で、普通であれば同世代の相手を探すはずなのに、まだ七歳の私に求婚してきたのだから。相当な金額を積まれたと聞いている。母はアナスタシアを嫁がせたがっていたがホールデン伯爵は私を指名し続けた。
 ホールデン伯爵は気が弱いと言うよりは穏やかで争い事を嫌うが目的の為には手段を選ばないという点で気が合う人間だとは思う。彼はどうやら私の外観を気に入っていたらしく着せ替え人形として私を欲していた。控えめに言って変態である。
 彼との出会いは夏の初めの嵐の夜。旅行帰りに大嵐に遭い、控えめに言っても田舎過ぎてろくな宿もないこの地で宿を求めボーデン男爵家に訪れたのがきっかけだ。計算高い父はホールデン伯爵に恩を売るつもりだったのだろう。一番上等な客室を貸し、三日間の滞在を許した。そして、私には部屋で大人しくしていろと命じていたのだが、手持ちの本を読み終えてしまい、新しい本を探そうと、ランタンを片手に書庫へ向かう途中、同じく散歩がてら書庫へ向かおうとしたホールデン伯爵と遭遇してしまったのだ。
 彼はこの屋敷の娘はアナスタシアしかいないと思っていたらしく、私の存在にとても驚いていた。そしてこんな時間にどうしたのだとか、先程はなぜいなかったのだとか質問攻めにしてきた。正直鬱陶しかった。
 ホールデン伯爵は世間一般の基準から言うと容姿が整っている方だ。整っている、なんてものではないかもしれない。たぶん多くの人が見惚れてしまう見た目をしている。それに、話し方はどこか穏やかで心地よい声をしているのだと思う。けれどもその時の私は新しい本が欲しくて仕方がなかった。部屋で大人しくしているのはとても退屈だし、何度も同じ本を読むような趣味はない。たしか父が新しい図鑑を入れてくれたはずだと、その本を探していた。
「私のことは気軽にワイリーと呼んでくれ。君の名前も教えて欲しいな」
 彼は背を向けて本を探す私をなんとも思わないのか、めげずに声を掛けてきた。それが面倒くさくなって思わず名乗ってしまった。それがいけなかったのだろう。
 父に見つからずに自室へ戻ったはずなのに、翌朝とても叱られた。そしてなぜかその日の夕方には婚約が決まっていたのだから、あの暇つぶしが人生を大きく変えてしまったのだ。

 もしも時間が戻っているのであればもうあんな失敗はしない。嵐の夜の客人に遭遇しないように本以外の作業を残しておくし、万が一遭遇してしまっても絶対に名乗らない。
 心の奥で決意を固めていると、勢いよく戸を叩く音が響く。
「お姉様! 遊びましょう!」
 この騒がしい元気な声はアナスタシアだ。
「アナスタシア、あまりここに来てはお父様に叱られますよ」
 悪魔憑きの危険な姉と遊ぶなんてとんでもないと言われてしまうだろう。
 それにしてもこの愚かな子供は何度か命を狙われているというのに全く懲りないというか、常に姉が自分に従うと思い込んでいる節がある。
 私のおもちゃはそんなに多くは与えられなかったし、凶器にならないように、せいぜい紙人形や布人形。あとは本と、先が丸く大きくて安全性に配慮したかぎ針で太めの毛糸を編むことを許されているくらいだ。縫い物は人を刺したら困るからだめらしい。綴じ針さえ先が丸く突き刺さらない物を与えられている。だというのに、アナスタシアは私の粗末な布人形を欲しがったし、ハンカチを巻いただけの服さえ取り上げようとした。
 初めの頃はかんしゃくを起こしてアナスタシアを殺そうとしたこともあったけれど、あの喧しい養母がキーキー声を上げたり養父に窓の格子を増やされたりしたので大人しく従う方が幾分かマシと判断し、折れる代わりに養父に新しい本を要求することにした。私は退屈しのぎの本が手に入るし、養父はとりあえずアナスタシアの安全を確保できると判断できる。悪くない取引だ。
 しかし、この取引が良くなかったのだろう。アナスタシアのわがままは加速することになる。
「お庭なら大丈夫よ。花冠を作りましょう。かわいいの。キースが白くてかわいいお花をたくさん用意してくれたの!」
 アナスタシアは上機嫌だ。ここで部屋から出なければ嘘泣き攻撃を仕掛けられる。しかし、外から鍵を掛けられているから内側からは開けられないことになっている。
 そう、なっている。
 当然、夜中に部屋を抜け出して本を探しに行けるのだから内側から鍵を開けることくらい出来る。鍵なんて物は構造さえ把握していれば簡単だ。しかしあまり頻繁に抜け出すと今度は扉の外側に鎖と南京錠を追加されそうだ。いや、実際過去にはされた。
「アナスタシア、ごめんなさい。鍵が掛かっているから出られないの」
 こう言って断るのが無難。のはずなのだが、アナスタシアに限ってはそうではない。彼女は得意気に鍵を開けてしまうのだ。
「大丈夫よ。私が開けてあげる。だから一緒に遊びましょう!」
 外に出してあげるのだから当然遊んでくれるでしょうと得意気な様子に殺意ほどではないが軽く痛めつけて遊んであげたくなってしまう。
 彼女がなにを考えているかは知らないけれど、昔から気に入らない。
 彼女が実子だから? 養女の私の扱いとあまりにも違うから?
 それは彼女の責任ではなく両親の責任だ。
 けれどもその両親に育てられた彼女はだんだんと、姉は逆らわない存在なのだと認識し、要求ばかりが大きくなっていく。

『お姉様、私、ワイリーが好きなの。私にちょうだい?』

 断られることなんて微塵も考えていない彼女の言葉が蘇る。
 嫁入りの前日だった。
 やっと鉄格子の窓とおさらば出来ると思っていた矢先、彼女はそう口にしたのだ。
 別にワイリーにはなんの未練もない。欲しいならくれてやっても構わない。けれども、この鉄格子の窓はもううんざりだ。
 少し考えた末に私が出した答えは『お父様にお願いして』だった。
 結果、アナスタシアの要求は通らなかった。だから、私は井戸に突き落とされたのだ。
 なんだ。悪いのは全部あの男じゃないか。
 全ての元凶はあの男だ。
 あの男を始末しないと。
「お姉様、行きましょう」
 扉が開かれる。
 庭に出るのは何日ぶりだろう。
 廊下の窓から差し込む光が随分と眩しいものに感じられた。



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