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1 帰ってきた夫

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 未だに目の前の状況が理解できない。
 目の前に二人の男性。一人は先程結婚式を挙げたばかりの夫、フリオ。もう一人は、四年前に亡くなったはずの夫、レオナルド様によく似た人だ。
 状況を理解できていないのはビアンカだけでなく、フリオも、そして父もまた困惑している。
「確かにあなたの死亡証明書を見て埋葬したはず……これは一体どういうことですか?」
 父がレオナルド様に訊ねる。
「ビアンカが泣いている気がして、重い体を起こしたら、棺の中に居たんだ。まさか生き埋めにされているなんて思わなかった」
 彼はとても穏やかな様子で答える。いつも優雅な振る舞いのはずの彼の手は土で汚れているし、小さな擦り傷のようなものさえ見える。それなのに、彼の煌めきは一切失われていない。
「土から這い上がって見れば、私の屋敷で結婚式が行われているようで……様子を見れば、ああ、とても美しく成長したビアンカが……私の大切なビアンカが見知らぬ男と結婚させられそうになっているではないか。そんなの許せるはずがない。私の大切な、かわいいビアンカが。他の男の手に渡るなんて……」
 ビアンカの知る彼とは違うのかもしれない。想い出はとても美化されてしまっていたのだろうか。うっとりとビアンカを見つめる彼は、記憶の中のレオナルド様とは別人に見えてしまう。記憶の中の彼は、ビアンカをこんな風に見つめることはなかったはずだ。
「土の中から這い上がって……って本当に埋葬されていたのか?」
 フリオは驚いている。誰だって一度埋められた人がそこから出てくるなんて思わないはずだ。
「死亡証明書もあるって……いや、僕は……ビアンカと結婚する前にあなたの墓参りもしたはず……だけど……」
 一応戸籍上はレオナルド様は死亡したことになっていて、財産はビアンカが相続したけれど、まだ幼かった為、父がその財産を管理していることになっている。書類上はフリオとの結婚も問題なかったはずだ。
 しかし、この現状はどういうことだろう。
「私は四年もあの土の中に居たというのかい?」
 執事のルカがレオナルド様に現状を説明していたらしい。殆ど幽閉されていたようなビアンカは世間に疎いどころか、幼い子供程度の教養しかない。ビアンカの世界はレオナルド様が与えてくれたものでほぼ全てだ。
 じっとレオナルド様ばかりを見てしまう。ずっと会いたかった人だ。けれども、彼は本当にレオナルド様なのだろうか。
「本当に本人だという証拠はあるのか?」
「そうだな。ビアンカは初対面の時私をお姉さんと呼んだと言うことはあまり公にはなっていないはずだけど、ビアンカ、この話は誰かに話したかい?」
 訊ねられ、首を振る。とても失礼なことを言ってしまったと思ったから、誰にも話していないはずだ。
「あとは、ビアンカは雷が怖くて雷の夜は一人で眠れないとか……暖炉の前で絵本を読むのが好きだったね」
 彼の口から紡がれるのは、大好きなレオナルド様との思い出ばかりだ。彼はビアンカの父が止めるまで、ずっと二人で過ごした日々の想い出を語ってくれる。
 戻ってきた。確かに彼はレオナルド様だ。
「レオナルド様!」
 確信した途端、体は動いてしまう。思いっきり彼に抱きついて、その胸に顔を埋める。
 最後にこうしたとき、ビアンカの背は、まだ彼の腹くらいまでしかなかった。
「……ビアンカ、大きくなったね。君の成長を見守れなかったことが本当に残念だ。ああ、私のかわいいビアンカ……やっと……一人の女性として愛せる……」
 きつく抱きしめられ、困惑する。
「流石にあんなに幼いビアンカに手を出すわけにはいかなかったからね。でも、もう立派なレディだ」
 嬉しそうなレオナルド様の顔が随分近づいてくる。
「あの、レオナルド様?」
「なんだい? ビアンカ」
「……私、これからどうしたらいいの? だって……その……」
 レオナルド様ともう会えないからフリオと結婚しなくてはいけないと思ったのに、目の前にレオナルド様が居る。フリオと結婚する理由はなくなってしまうけれど、紙の上ではレオナルド様は死んだ人で、フリオはビアンカの夫だ。
「大丈夫、ビアンカはなにも心配しなくていいよ。全て私が処理するから。まずは、死亡届の取消をしないと。私のかわいいビアンカを取り戻さないといけないね」
 頬になにかが触れる。それがレオナルド様の唇だと気付くのに数秒かかった。
 一体なにがどうなっているのだろう。彼はレオナルド様しか知らないはずのことを沢山知っているのに、ビアンカの知るレオナルド様とは別人のようだ。まるで、中身が何かと入れ替わってしまったみたい。
「いやいやいや、ビアンカは今日、僕と結婚したんですよ?」
 フリオは困惑しながらも、レオナルドに苦情を言う。
「四年もビアンカをほったらかしていたあなたに、ビアンカを渡せません」
「私の死亡はなにかの手違いだ。我が国では重婚は認められない。つまり、ビアンカと君の結婚は無効だ。よってビアンカは私の妻だ」
 二人とも、ビアンカが今まで見たことがないほど険悪な雰囲気で睨み合っている。いつもの穏やかなフリオも、優しいレオナルド様もどこかへ消えてしまったようだ。
「そもそもなんで埋葬されてたんだよ」
「私だって知りたい。ルカ、私の死因は?」
 自分で自分の死因を訊ねるなんてよくわからない光景だ。けれどもルカはとても落ち着いた様子で「毒物です」と答える。
「毒物による他殺とされていますが未だに犯人が見つかっておりません。勿論、当時十三歳のビアンカ様には不可能ですし、使用人全てを調べましたが、そう簡単に手に入る毒ではなかったため、入手経路を調査しましたが不明です」
 つまりなにもわかっていない。むしろビアンカ自身も容疑者だったのかと驚いてしまう。
「ビアンカがそんなことをするはずがないだろう? ああ、ピアノの練習の成果を聴かせてもらう約束だったんだ。遅くなってしまったが、この後すぐにでも聴かせて貰えないだろうか」
 レオナルド様は真面目な顔で言う。けれども、彼が埋葬されてから、一度もピアノに触れていない。
「……ごめんなさい。練習をさぼっていました」
 ここは素直に謝るしかない。レオナルド様は練習をさぼったからと言ってビアンカに対して怒ることはないけれど、ただ、静かに悲しそうな表情を見せる。それはビアンカにとってもとても辛いことだ。
「そう……いや、私が、不本意とは言え君と離れてしまったからね。とても辛い思いをさせてしまったね。ビアンカ」
 優しく頭を撫でられる。この手が好き。なはずなのに、彼の手からはビアンカの大好きなあの温もりを感じられない。
「レオナルド様? 手が……温かくありません」
 驚いてそう告げれば、彼もまた驚いたようだ。
「おや? 冷たい土の中に居たから、まだ体が温まっていないのかな?」
 彼はいつものように穏やかな笑みを見せるけれど、何かが変わってしまったようにも思える。
「ビアンカ、君はもっと他に気にするところが沢山あるはずだろう? まず彼が四年もなにをしていたとか、死亡証明書が出されて埋葬されたら普通は墓から出てきたりはしない。腐っていないことは異常だってことくらい、いくら君でも……いや、ビアンカはまだ生物学は勉強していなかったかも……でも、普通は死んだ人間は戻ってこないことくらいわかるだろう?」
 フリオはいつもの落ち着いた様子とは別人のように早口でまくし立てる。彼もまた混乱しているのだ。
「つまり、私が不在の間……誰も、ビアンカに勉強もさせていないのだな?」
 急激にレオナルド様の声が冷たいものになる。こんな彼の声は聞いたことがない。怖くなって彼から離れた。
「ルカ、どういうことだ?」
「……その……奥様のご両親が、奥様のことを決めるのは自分たちだと……その、奥様は深い悲しみによって自殺の恐れがあると……数名の使用人とご両親以外、奥様との接触を禁じられたのです。奥様はまだ当時十三歳でしたので……ご両親が全ての決定権をお持ちかと……」
 ルカは言いにくそうに言う。彼はとても真面目で、レオナルド様に熱心に仕えている。レオナルド様が埋葬された後も、彼の忠誠はレオナルド様にあっただろう。真面目で穏やかで、塞ぎ込んでいたビアンカに、こっそりと本や便箋を差し入れてくれたのは彼だった。
「……ビアンカに教えるのは私の楽しみではあるが……知識が子供のまま止まってしまっているのは問題だな。読み書きも、あの頃のままかい?」
「はい。毎日レオナルド様のお手紙を読み返しては返信を書いていらっしゃいました」
 届かない手紙を、ルカはいつも預かっていてくれた。沢山書いた手紙は、遠い国に行ってしまったレオナルド様に届くようにと、彼が送ってくれていたはずだ。
「その手紙はどこに? ビアンカの毎日の様子が知りたい。全て目を通す」
「いえ、その……月に一度全て焼いてしまいまして……」
 まさか主が戻ってくるとは思わず、と言った様子を見せたルカに驚く。
「ルカ、レオナルド様に送ってくれたって……」
 あれは嘘だったのだろうか。
「天の国に届けるには煙に乗せて、つまり炎により燃やし尽くすことによってビアンカ様のお心がレオナルド様に届く……はずだったのですが、どういうわけか、レオナルド様は天の国にはいらっしゃらなかったようで……」
 ルカ自身困惑しているようだ。
「つまり最近書いたものはまだあるということだな?」
「……一週間分、お預かりしています」
「あとで目を通す。それと、陛下に手紙を書かなくては……はぁ、ペンを握ることさえ四年ぶりとなるのか? 指がきちんとペンの持ち方を覚えているか不安になるな」
 レオナルド様は真面目な顔で言う。
「よくわからないわ。フリオ、ペンの持ち方って忘れてしまうものなの?」
 レオナルドがいないとき、なにかを教えてくれるのはいつもフリオだったから、彼はきっととても物知りなんだと思い、彼に訊ねる。
「え? あー……いや、一度体で覚えたものはそう簡単には忘れないと思う。ほら、ピアノだって基礎がしっかりできていれば、数年ぶりに弾いてもなんとなく弾けるっていうじゃないか」
 フリオの言葉に驚く。
「練習をさぼっていてもピアノは弾けるの?」
「少し練習は必要だと思うけれど、初めて習うよりは楽に弾けるよ」
 フリオはいつもの笑みを見せてくれる。その様子に少しだけ安心した。
 どうも今日は、ビアンカには理解できないことが多すぎる。レオナルド様が戻ってきて、けど、彼はビアンカの記憶の中の彼とどこか違って、フリオはレオナルド様の前だと、いつもの穏やかな彼とは違った様子を見せる。いつもと違うことはこわい。またなにか悪いことが起こるかもしれない。
「……フリオは遠くに行ったりしない?」
 怖くなって訊ねれば、彼は一瞬驚きを見せたあと、柔らかい笑みを浮かべた。
「もちろんだよ。僕はビアンカを一人になんてしないよ」
 フリオの大きな手が頭を撫でてくれそうだったのに、突然後ろに引っ張られる。
「私のビアンカに触れていいのは私だけだよ」
 少し冷たい声が怖い。見た目はレオナルド様なのに、時々ビアンカの知っているレオナルド様ではない空気になる。
「あなたは死んでいることになっている。ビアンカは僕の妻だ」
 フリオはフリオで筋肉質のがっちりとした体型のせいか、背はそれほど高くないのに、怒るととても迫力がある。普段の穏やかな空気が消えてしまって、それがとても恐ろしい。
「ルカ!」
 困り果てたビアンカは、二人から逃れるようにルカに抱きつく。
「今日は二人ともなにかおかしいの。怖いわ」
「ええ……我々も少し困惑しています。奥様、お茶の時間にしましょう」
 ルカだけはいつもの穏やかな声だ。
 彼はいつものように手を引いて、ビアンカを安全な場所。つまり、ビアンカの自室へ連れて行ってくれる。外に出なければなにも怖いことはない。ただ、いつも通り、何もない日が繰り返されるだけだと、この四年で知っている。
 遠くから、怒鳴り声のような大きな声が聞こえる。おそらく、フリオだ。彼が暴れたら、きっとお屋敷が壊れてしまうに違いない。いつもはあんなに優しくて、ビアンカのお茶にも付き合ってくれるフリオのあんな姿は初めて見た。
 爽やかなレモンの香り。タルトとハーブのお茶が並べられる。
「ルカ、フリオは本当は怖い人なの?」
 訊ねれば、ルカは少し黙り込む。
「フリオ様は……軍に所属されていますから……普段は穏やかでお優しい方かもしれませんが、いざというときは勇敢に戦われるのでしょう……」
 彼はとても言葉を濁している。
「レオナルド様が戻ってきて下さって嬉しいはずなのに……私の知っているレオナルド様じゃないみたい。少し……怖いわ」
 変化は苦手。特に、予想外のことが起きるととても落ち着かない気分になる。
 レオナルド様が居なくなって、とても悲しくて不安だった。けれども、彼が戻ってきて、とても嬉しいはずなのに、少し怖い。
「ルカ、あなたは私の味方でいてくれる?」
 不安になって訊ねれば、彼は目の前に跪き、ビアンカの手を握る。
「勿論です。奥様。私はなにがあろうとも奥様をお守りします」
 その言葉に、少しだけ安心する。
「なんだかとっても良くないことが起こりそうなの」
 それは、ただの予感。
 そうだといいけど。
 普通でないことが起きている。ただ、それだけはビアンカにも理解できた。





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