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1 富永洋子の遺産
しおりを挟む僕には所謂普通ではない伯母がいた。
なんというか別の世界に意識があるというか、地に足がついていないというか、どことなくふわふわとした空気の人だった。
スピリチュアルな天使だの妖精だのを信じているわけではないというのに、目に見えないなにかの存在を信じているというか、奇妙な習慣の多い人だった。
一緒に歩いている最中に木の前で手を合わせたり、すれ違った猫に深くお辞儀をしてみたり。人形やぬいぐるみにはよく話しかけている。時には看板と会話しているように見えることさえあった。
母は彼女を頭のおかしい人だと言っていたけれど、僕は彼女を嫌ってはいなかった。
ヘンな人ではあったけれど、それは所謂芸術系の人と言われれば納得できる範囲だったし、小さい頃からたくさん本を読んでくれて、母は付き合ってくれなかった工作や実験遊びにも積極的に付き合ってくれた。
他人と違う景色が見えていて、他人と違う解釈をする。
だから変人扱いされていた。
その他人と違う景色の中で他人と違うルールがいくつもあったのだろう。
残念ながら、僕はそのルールをしっかり覚えていたわけではない。
だから卓也を頼ったのだ。
卓也は猫と会話が出来る。
本人がそう思い込んでいるだけの可能性も除外出来ないが、少なくとも普通ではないことの存在を他の人よりは受け入れやすい状況にある人間だ。つまり、洋子伯母さんと近い。
「僕が洋子伯母さんの遺産を全て相続したのは話していたかな?」
「全てとは凄いな。いや、君の伯母さんは特別君を可愛がっていたから不思議ではないが」
卓也はお茶を啜り、僅かに眉間の皺を濃くした。
「……すまない、この茶はきっと君の口には合わない」
なぜだろう。申し訳なさそうにそう言って、彼は早希ちゃんという助手が持って来てくれた僕の分のお茶を膝の上の黒猫に飲ませようとする。
「え? 猫ってお茶飲むの?」
「……はぁ……悪い子ではないのだが……少し……うん。猫と一緒に過ごしすぎた後遺症だろうな。にぼし出汁をお茶だと思い込んでいるのだ」
卓也は表現に困るとでも言うように説明するがどこまで本当なのかはわからない。
そもそも後遺症だなんて、猫と過ごすのは病気かなにかなのだろうか。
「……まあ、卓也は多少のことでは驚かない人間だと思うから相談しに来たのだけど」
僕の方が驚くことばかり起きてしまうのはいつものことだ。
「洋子伯母さんの遺産の話になってしまうのだけどね。彼女は蒐集癖がある人で、ものすごい量なんだ。で、戸建ての中古住宅にぎっしりいろんな物があるのだけど」
「処分に困っているのか? だったら業者を使えばいい」
卓也は猫の背を撫でながら言う。大人しく撫でられている猫がじっとこちらに視線だけ向けていてなんだか落ち着かない気分になった。
「処分に困っていると言う意味ではそうだけど、伯母さんの物だから捨てるのも申し訳ない気がして。必要な人の手に渡ったらいいなとは思っているよ。でも、それだけじゃなくて……伯母さんの蒐集物だから……さ」
普通ではない物が混ざっているのだ。
それをどう説明すればいいのかと悩んでしまう。
「問題のない物なら僕の店で売ったりしようかなとも思ったのだけど……危険物もあると思わない?」
「……君を可愛がっていた伯母さんが君に危険な物を残すとは思えないのだが?」
卓也がそう言うと同時に猫が彼の膝を放れ、なぜか僕の前まで来てじっと見詰める。それから大きく鳴いた。
たぶん、鳴いていた。
「なんだと?」
猫は鳴いていたはずなのに、卓也は驚いた様に立ち上がって僕に接近してきた。
「君は本当に……怪異に好かれやすいな」
呆れたような溜息。
怪異。
卓也はあっさりとそう言うが、僕にとってはいくつも思い出したくない体験がある。
「……やっぱりそっち系か……そうなんだよ。いつも伯母さんに助けを求めていたけど肝心の伯母さんがいなくなっちゃったから……卓也くらいしか相談できないなって」
猫がじっと見詰めてくる。
ダメだ。
限界だった。
咄嗟に卓也の腕を掴み、猫との間に盾のように置く。
「ごめん、卓也……その猫なんとかして! 目隠し! 目隠ししないと……目隠しして!」
じっと見詰めてくる視線。
見られるのが苦手だ。落ち着かない。
この視線がずっとついてくるのではないかと。
目隠しをしなければ追いかけてくるのだと。
「落ち着け。おはぎは君に害を加えたりはしない。むしろ君の危険を教えてくれる」
「うっ……でも……見られるが苦手なんだ……猫に、僕を見ないでって……」
言い終わる前に、猫がたんっと音を立てて思いっきり卓也を踏み台にし、それから僕の肩に飛び移った。それから何か鳴いた。
「この距離なら視線が気にならないか? もしくは君の頭の上に乗せるが」
「……それ、猫が僕に配慮してくれてるってこと?」
意味がわからない。
今この時間だけは伯母さんの遺産よりも目の前の猫が怖い。
「安心しろ。おはぎは噛みついたりしない」
「……うん。その心配はしていないんだけど……」
卓也の腕を放し、深呼吸する。
卓也は知っている。僕が視線が怖い理由も、あまり物を捨てられない理由も。
けれども今回はそんな話だけでは済まないのだ。
「……卓也、絵から声が聞こえてくることってある?」
追いかけてくる人体模型だって死ぬほど怖かった。けれども今回のはそんなインパクト特大の事件ではない。
「は?」
唐突すぎたのだろう。卓也は真顔で「何を言ってるんだ」という反応を見せる。
「ほら、僕、一応古物商でしょう? 絵画とか古書とかを中心に取り扱ってるからさ、伯母さんの蒐集物も……うん。あの量だからどこか引き取って貰えそうなのないかなって……」
価値のわかる人の手に渡ってくれた方が伯母さんも喜ぶのではないかと考えた。なにせ僕は美術品や書物の価値がわかるから古物商をしているわけではないのだ。
単純に会社員だとかそう言った方向が向いていないと自覚して、そこそこ一人でもやっていけそうな仕事を考えたときに古物販売ならなんとかなるかなと考えてしまっただけで、骨董品屋なんて大層な物でもない小さな店で自分がなんとなく気になった物を集めて販売しているだけなのだ。
たまに卓也が喜びそうな古書が入れば彼に連絡をするし、伯母さんが好きそうだなと思ったら彼女に連絡していた。そのくらいしか営業活動すらしていないような店だが、なんとなく波長とでも言うのだろう。そう言うものが合う人がふらふら現れてくれるおかげで生活に困らない程度の経営は成り立っていた。
けれど、僕にとっては危険と隣り合わせのような仕事でもある。
怪異に好かれやすい。
卓也がそう表現するように、僕はそういったものと縁がある人間らしい。
「なんかね、日が沈むとすすり泣くような声が聞こえるんだ。たぶん、絵からだと思うんだけど……」
正直、怖いから近寄りたくない。けれども検品してどんな品物か把握しなければ処分すらできない。
「あの絵、伯母さんの好みっぽいし……本当は手放さない方がいいんだろけど……声が聞こえる絵なんて怖いじゃん」
僕はこういったものは苦手なんだ。遭遇率が高いだけで。
「……君は相変わらずの怖がりだな。泣くだけで害はないのだろう?」
卓也が言うと、猫は僕の頭の上で足踏みをして小さく鳴いた。
「ふむ、怪異に好かれやすいのも問題だな。敦、今はその家に住んでいるのか?」
「ううん。アパート借りてる。もう少し片付いたら伯母さんの家に引っ越そうかとも思ったけど、なんかあの家苦手でさ。片付いたら家も手放そうと思う」
伯母さんには悪いけれど、なんとなくあの家は苦手だ。
「そうか。君の悩みが絵だけで住むことを祈ろう」
卓也はあっさりとそう言って、それから立ち上がる。
「早希ちゃん、客間をひとつ用意してくれないか? しばらく留まる」
奧に声をかければ、元気な声が「はーい」と返事をする。
「えっと、敦さんでしたっけ? 上の段と下の段、どっちがいいですか?」
「へ?」
一体何の話をされたのだろう。卓也は部屋の話をしたはずなのに、二段ベッドでも置かれているのだろうか。
「……早希ちゃん、押し入れではなく、一部屋そのまま用意してやってくれ……」
「え? ああ、そうでしたね。人間のお客さんには押し入れじゃ狭いですよね。あはは……」
早希ちゃんは困ったように笑う。
人間のお客さん?
まさか……。
「卓也、あの子、怪異かなにか?」
「いや、人間だ。少し……他の世界とチャンネルが合いやすい子で、意識が猫の国に飛びやすいんだ」
猫の国。
そんな物が存在するのか。
「ものすごくメルヘンな響きだね」
とても想像ができない。けれどもそんな世界になれてしまっては人間世界で日常生活を送ることは難しそうだ。
「ところで、なんで客室?」
「しばらくここに滞在してくれ。おはぎも君を気に入っているようだし、私も君なら居ても気にならない」
「は?」
一体何の話だ。
「君の伯母さんの家には明日にでもおはぎも連れて行こう。問題の絵を確認する。だが、君は怪異に好かれやすすぎるからな。放っておけない」
その言葉に全身から嫌な汗が噴き出した。
卓也がここまで言うということは相当危険なのではないだろうか。
「お、お世話になります……」
持つべき物は理解ある……いや、怪異に理解ある友人だ。
尤も、卓也の家だからと言って安全とは限らないだろうけれど、あの安アパートで一人過ごすよりは心強い。
「早希ちゃんが居る。この家は安全だよ」
「え? 彼女、そんなに凄い霊媒師かなにかなの?」
そんな風には見えないけれど、猫の国に意識を飛ばしやすいとか言っていたから追加能力もあるのかもしれない。
「いや、猫の神様に愛されているだけだよ」
猫の神様。
本当に大丈夫なのだろうか。
真面目そうな友人がカルトにハマってしまったのではないかと不安になる。
けれども、あの伯母さんの家に一人で行く勇気はないので卓也を頼るしかないのだ。
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