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シリアル
シリアル 3
しおりを挟むルーチンを崩され調子が悪い日はひたすら弾くと決めている。
ウェルナーを一通り復習って、それから好きな曲を弾く。
選曲はクラシックだったり流行の曲だったりその日の気分だが今日は『夢のあとに』だった。
レパートリーと呼んでいいかはわからないが、遙のレパートリーは少なくはない。ただし人前で演奏出来ないのだからレパートリーなどと呼ぶのは烏滸がましいように思えた。
苛立つとも少し違う、言葉では表せない感情にどう向き合えばいいのかわからなくなったときはひたすらに弾く。
画家が悩んだときに絵を描くのなら、遙はチェロを弾くことでその感情を整理しようとしているのかもしれない。
そうして部屋の中が暗くなるまで手を動かし続け、急激に感じた空腹に、舌打ちした。
どうして無駄に腹が減るのだろう。
食べる時間さえ惜しいと思ってしまうのに。
人間の体は不便だ。
腹が減る。眠くなる。排泄に時間を浪費する。
弾き続ければ指が痛み、疲労すれば腕も動かなくなる。
老いれば長年積み重ねて作り出した音が出せなくなると言うのに理想の音には辿り着けない。
理想とはなんだろう。
軽く楽器を拭き、スタンドに立てかける。
弓を緩めてから防音室を出た。
買い物に行くのも億劫で、わざわざ料理をするのも時間の無駄に感じられる。
たぶん父はこんな遙の性格を理解していたのだろう。独り暮らしには大きすぎる、冷凍庫の大きな冷蔵庫を選んでくれた。そして案の定、ほぼ冷凍庫しか使用していない。
飲み物と冷凍食品。あとは常温で保存できるコーンフレーク。これがあれば生きていける。
凜には呆れられるが、遙は毎日同じ食事が続いても全く気にならない。むしろ変化が嫌いだった。
冷凍庫を開ければ同じメーカーの冷凍パスタが大量に詰まっている。
二週間に一度ほど、補充に出かけることさえ面倒だ。
それでも少しは節約を、と袋入りタイプの冷凍パスタを購入している。皿洗いの手間が増えるが仕方がない。トレイを捨てられるタイプは便利だがその分高価になってしまう。
自炊は全くしない。時間の無駄だから。
それに指先の怪我が怖い。
調理実習で卵すら割れずに呆れられたこともあるが、そのくらい料理はしてこなかった。しなくて済む環境だった。
それを考えると遙は本当に恵まれている。
金銭面で、環境面でこれだけ支援されていて両親と上手くいっていないだなんて、周囲から批難されても仕方がないとは思う。けれども精神面で上手くいっていない。
ぎこちない距離とでもいうのだろうか。
確かに金は掛けてくれている。環境を整えてくれている。けれどもそれだけなのだ。
テストの結果を確認しないだとか、練習に拍手がないだとか……たぶんそんな小さな積み重ねだった。けれどもそれは遙から自己肯定感を奪うには十分過ぎた。
我が子の出番は金で買える。
プロになりたいのであれば金を積んでデビューさせる。
そう言ったことを平気でできてしまうのが遙の両親だ。
コネと金で仕事を作れる。けれどもそんなことをされて音楽で生きていけると言うのだろうか。
夢で生きていけるほど甘くはない。
両親が思っているほどは金は通用しない。
パスタを温める電子レンジをぼんやりと眺めてしまう。
この時間が無駄だとは理解しているのに、つい眺めてしまう。
頑張っても頑張らなくてもどうせ結果は同じ気がしてしまう。電子レンジで温めるパスタと一緒だ。ボタンを押すだけで完成。遙が料理しなくても両親が盛り付けてくれている。
但し味は保証されない。
捻くれているなと呆れながら、ロフトベッド下のデスクでいつもの味を飲み込む。
ルーチンを乱すな。
ルーチンを乱すということは心が乱れるということだ。心が乱れるということは余計なことばかり考えてしまうということだ。
余計なことを考えていい音は出ない。
飲むように食事を済ませ、皿を洗う。ゴム手袋は必需品だ。
水を一杯飲み、防音室に戻ると、置き忘れていたスマホが通知を知らせる点滅を繰り返していた。
また和音だろうか。
うんざりしつつ確認すると、大学からのメールだった。
音楽の基礎は今日すっぽかした講義のはずだ。担当教員はそんなに熱心な人ではないと聞いていたはずなのに連絡が来ると言うことはまさかの赤点なのだろうか。
ふと、回答欄がズレていたという鷲尾鷹史が浮かぶ。
まさか自分もやらかしたのだろうか。
おそるおそるメールを開く。
音楽の基礎、鷲尾です。
明日の昼休みに試験結果を研究室まで取りに来てください。
とても短いメッセージだ。説教でもあるのだろうか。
そう、考え、鷲尾という名に引っかかる。
あの距離感がおかしい鷲尾鷹史と同じ名字だ。
担当教員の顔を思い出そうとするが、あまり見ていないので全く思い出せない。しかし、昼間に会った鷲尾鷹史ほど背は高くなかったはずだ。
そこまで多い名前でもないだろう。親族なのだろうか。
そう考えると、鷲尾鷹史の姿がちらついて行くのが余計に億劫に感じられてしまう。
もし呼び出そうとしているのが教員ではなく鷹史の方だったら……。
気が重い。
一応「行きます」とだけ返事をする。
けれども通知が消えないと思えば和音の方に大量の通知が入っていた。
送り主はわっしーだ。
新しい演奏が聴きたい。返事が欲しい。返事がなくてもいいから演奏が聴きたい。
うんざりする量のメッセージを律儀に開いていく自分に呆れながらも全てに目を通した。
なぜこのわっしーはここまでしつこいのだろう。他人にしつこく絡んでくる人間の考えることが理解出来ない。
そこまで言うなら一曲くらい投稿、するべきだろうか。
僅かに心が揺らいだ。
面倒だと思う。
誰かに聴かせられるレベルの演奏かと言うと、わっしーの演奏を聴いたあとでは自信がない。
見られていなければそこそこ演奏出来ていると思っていた。けれども……画面の向こうに聴衆がいる。
つまりわっしーは聴衆なのだ。そう考えると緊張してしまう。
吐き気がする。
ここに居ない人間の視線を感じる錯覚。
遙が失敗するのを待ち構えている。
失敗した遙を馬鹿にするために。
全部被害妄想だと頭ではわかっている。
「はるちゃんがたいしたことないからパパもママもきてくれないんでしょ?」
急に蘇った声は誰だっただろう。
ピアノ教室で一緒だった子か、弦楽器教室で会った子か……。
あの子の家は両親揃ってレッスンに付き添っていたような気がする。
いつも有名子供服ブランドのふりふりした可愛らしい服を着ていた子だ。気が強くて、自分が世界一だと信じて疑わないような子。
強烈な印象なのに、名前が思い出せない。
そうだ、あの子の言葉が気になりだした。
それで、人前に出ると緊張するようになった。
「またミスばっかり。練習が足りてないんじゃない?」
「発表会でちゃんと弾けない子をわざわざ見に来る親はいないよね」
年齢が上がる毎にどんどん意地悪な言葉になっていた気がする。
そうだ。あの子が一緒だったら教室に通わなくなったのだ。
落ち着け。今は自分の家だ。自分の防音室だ。
ここには誰も来ない。ここでなら好きな曲を好きなだけ弾ける。
観客はいない。拍手もない。
頭が真っ白になって失敗したって構わない。ここには誰も居ないのだから。
必死に呼吸を整えながら自分に言い聞かせる。
発表会で頭が真っ白になってしまうはるちゃんはここにはいない。
また通知音が響く。
和音の通知が画面に表示されている。
わっしーさんからメッセージが届いています。
僕はシリアルさんの音が好きだと思います。だか続きを確認するにはこちらを
画面が消える。
シリアルさんって誰だろう。
シリアルさん?
ああ、自分か。なんでもいいやと適当に付けた。
「なんだ。こんなことか」
臆病なはるちゃんとお別れするにはシリアルさんになればいいのか。
そんな考えが頭の中を満たす。
遙はパソコンの電源を入れ、オーディオインターフェイスの電源を入れた。
わっしーの言うシリアルさんの音とはどんな音だろう。
分析してみよう。
DAWを起動し、録音の準備をする。
弓を整え、楽器を持つ。
遙は体が動く限り録音を重ねた。
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