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滝川遙
滝川遙 2
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騒がしい烏の声で目を覚ます。建物の前を通過する大型車のエンジン音やどこか近所にある家の犬の鳴き声。
全ての音に感謝する。
今日も音を聞くことが出来る健康な耳のなんと有り難いことか。
アラームよりも少しばかり早い目覚めだった。しかし、そんなことは気にならない。
ロフトベッドの上で、枕元の本を手探りで探す。
枕元には常に二冊の本がある。楽典と聖書だ。
少し早く目を覚ました時間を有効活用しようと、聖書に手を伸ばす。現在二度目の通読の最中で、また創世記からなぞっているところなのだが、学生生活は忙しく思うように進まない。
音楽とは祈りである。聖書を理解していなければ留学先で入門すらさせてもらえない。そんな噂を信じているから通読しているわけではないが、読んでおいて損はない。世界一読まれている本だ。きっと人生に役立つなにかが詰まっているのだろう。まだそこに辿り着いてはいないが。
通読表の読み終わった箇所にスタンプを押すのはささやかな喜びだ。まるで幼稚園に通っていた頃、ご飯を食べたらご褒美に貼ったシールのようだ。目に見える成果。達成感。メンタル状態をできるだけフラットにするために必要な行為だ。
遙は沈みやすい。そのくせに浮上しにくい。一度沈むと同じことをずっとうじうじと考えてしまい、なにも手に付かなくなる。
実技科目の追試が辛い。
今日はピアノの練習にしよう。
入学祝いにと最上位モデルの電子ピアノを買い与えた父の考えが読めない。
褒められたことはあまりない。頑張っても頑張らなくても彼の反応にあまり変化はなかった。通知表すら見ていないかもしれない。
座学で並んだ優の数と、実技科目で並ぶ可の数の差に呆れているだろうか。それともそれにすらなにも感じないのだろうか。
課題曲のソナタは体が覚えているはずなのにどうしても本番では音が飛んでしまう。楽譜を目の前に置いていても白紙にしか見えなくなり、自分が今どこに居るのかと迷子になる。演奏の途中で道を踏み外す。そんな感覚だ。
練習は裏切らない。
むくりと起き上がり、天井に頭をぶつけないように注意しながらロフトベッドの階段を下りる。
ベッドフレームに引っかけた数本のハンガーから今日の服を選びそのままベッドの下で着替えを済まし、通読表に今日のスタンプを押す。
ルーチンはできるだけ崩さないように。それがメンタルを安定させる一番のコツだ。遙は変化が嫌いなのだから。
朝食は小学生の頃から変わらず同じメーカーのコーンフレークだ。パッケージこそ変わることはあってもメーカーを変えようと思ったことはない。お皿いっぱいにコーンフレークを盛ってなみなみと牛乳を注ぐ。それをベッド下のデスクに運んで食べるのが大学入学してからのルーチンだ。
朝の騒音。頭が働くまでの僅かな読書。着替えて通読表に記録。そして朝食。
通学前にピアノかチェロの練習をする。休みの日はその両方を。
低学年のうちは全休日を作ってはいけないと言われているが、希望した講義の日程被りなどもあり、月曜は全休になってしまっている。
既に後期日程が憂鬱だ。
ファッションショー、演奏会、学園祭。音楽を専攻していても逃げられない行事は数多くある。特に演奏会や学園祭は裏方に徹するという逃げが許されない。単位になるのだ。
ファッションショーの為の音楽は作曲を専攻する先輩達の誰かがなんとかしてくれるだろう。そうなれば、遙は精々バックヤードで音響機器のセッティングを手伝う程度で済む。ちょっとばかし帰宅が遅くなるがそれで単位がもらえるならおいしい。
問題は演奏会だ。定期演奏会。ピアノを専攻すれば全員が一曲は披露しなくてはいけない。管楽器も勿論。声楽専攻は伴奏者を捕まえるところから始まる。ピアノ専攻の上手な子達は争奪戦になるという。遙には声が掛かったことすらないが。
学園祭も発表会がある。これがくせ者だ。
表向きは自由参加。しかし単位に影響がある。つまり強制参加だ。しかしあくまで学園祭。いつもと違う楽器を使う学生も少なくはない。これがきっかけで専攻を変える学生までいるくらいだ。
なにより、有名になった卒業生が特別ゲストとして来る。これは学生にとってチャンスなのだ。有名人に顔や名前を覚えて貰ってコネを作る。
ここであがり症の遙が盛大にやらかしたとしよう。業界で生き残ることは不可能だ。ただでさえ狭き門だというのに、門を通過したあとの人間関係は更に狭い。あっという間に噂が広がって使えないやつだと仕事をもらえなくなるのが目に見えている。
溜息が出る。
そう長い時間は残されていない。
まずは追試をなんとかしなくては。いつも見ている教授だ。練習だと思い込め。
ひとりきりの部屋のはずが、教授の顔を思い浮かべた瞬間緊張で胡弓がおぼつかなくなる。
困ったものだ。
やはり学生相談室でカウンセリングを受けるべきだろうか。
保健センターから配られたプリントを思い返す。
けれども結局当日になって時間の無駄と考えてしまい、練習のため帰宅してしまうのだろう。
気が重い。
うんざりしていると、遠くからバイブ音が聞こえる。短い音だったからメッセージアプリだろう。遙に連絡を寄こす人間なんて限られている。
ごく稀に母か、本当に年に片手の指ほど父から。それ以外は凜か講義ごとのグループメッセージだ。毎日遙に連絡を寄こす物好きは凜くらいしかいない。
重い体を起こして、枕の下敷きになっていたスマホを確認するとやはり凜からのメッセージだった。
休講なっちゃったから遙の家に行くね
これはあと一分もしたら「今、家の前よ」とメッセージが届くのだろう。凜はそう言う人なのだ。
凜のことは嫌っていない。寧ろ助かっていると思う。それでも勝手だとは感じてしまう。ただその勝手さが凜の魅力なのだとも理解出来ている。
芸術家は変わり者が多い。凜は変わり者として生きるために芸術の道を選んだ人だ。
好きな格好をして生きたい。
生きるために外見を損ないたくない。
それが凜だ。
派手な髪、ピアス、化粧。服装だって常に自分の好きな物だけで構成したいと遙には理解出来ない、とにかく目立つ格好をしている。今日はどんな格好なのだろう。ぼんやりと考えているとまたバイブ音が鳴った。
今、家の前よ
開けて
連続して二つのメッセージ。
返事をしなくたって送り続けてくるのだから、そろそろ合い鍵を渡すべきかと考え、そんな関係ではないと思い直す。
階段を下り、玄関に向かう。念のため、洗濯物が転がっていないかは確認する。
玄関の鍵を開ければ、次の瞬間には扉が開く。
「さっすが遙! 私が来ることちゃんっとわかってくれてる」
「座る場所もないのに物好きだよね」
そもそも来客は想定していない。デスクの椅子とピアノ椅子、あとは防音室のチェロ椅子くらいしかない。
もっと言うとレポートを書くときは面倒くさくなってピアノの上で済ませることの方が多い。譜面台で資料を固定すると捗るのだ。
「いやぁ、絵画ね、モデルさんが来れなくなっちゃって休講なのよ」
「だからといってなんでうち? 絵画スタジオとか図書館とか行くところはあるでしょ」
ピンクのメッシュが入った金髪は目が痛くなりそうな色だと思う。それにドレープのカットソーのせいで性別が余計にわかりにくい。
御影凜は戸籍上は男性である。が、幼少期から性別のわからない格好ばかりしていた。遙も特に気にしていなかったし、フェミニンな男性というのも珍しくない時代だ。それに加えて本人が変人として生きることを望んでいる部分がある。
目立つの大好き凜ちゃん。
本人の鞄にぶら下がっている手製のキーホルダーである。遙にはとても真似できない。緊張やあがり症とは無縁の人だ。
「だって遙、私が来ないと誰とも会わない全休でしょ?」
全く悪気なんてないという表情で人によっては失礼だと怒りそうなことを言ってくれる。
事実だ。否定する気もない。
凜は我が物顔でピアノ椅子を引っ張り出し、そこに足を組んで座る。
すらりと長い美脚を晒すミニスカートは戸籍上男性という事実の信憑性を貶めている。
凜と初めて会う人は大抵美女だと思うだろう。本人は別に女性になりたいわけではないと口癖のように言っているが、遙の両親も凜を男の子とは認識していないらしく、家に入れるなと言われたこともない。単に関心がないだけかもしれないが。
「せっかくアイコン描いてあげたのにアカウントすら作ってないみたいだったから代わりにアカウント作っておいてあげたわ」
得意気にスマホの画面を見せてくる凜に呆れてしまう。
「あとは演奏を録音して上げるだけだからさっさと音源用意しなさい」
どうせ日々の練習記録音源があるんでしょと勝手にパソコンを漁りそうな勢いだ。
「凜、やらないって」
「だめ。今動かないと遙、一生動かないでしょ」
ぐさりと突き刺さる。
遙には凜の言葉に反論することができない。ただでさえ腰が重いのだ。やりたくないことはずるずる先延ばしにしてしまう。
「私だっていつまでも手を貸してあげられるわけじゃないの。だから、夏休み中に少しでも知名度を上げるよ」
凜ばかり気合い満点で遙はいつだって置いてけぼりの気分だ。
けれども背中を押してもらえなければ動き出せないのも事実。
「アカウント、見せて」
アイコンは既に凜が作成したイラストに設定されている。ユーザーIDは凜と遙の誕生日を並べた数字で構成されていた。
「まずは名前を決めないと。そこは変更可能だから空欄にしておいた」
「……そこ、決めておいてくれないんだ」
めんどくさい。特になにも浮かばない。
こういうときは食べ物の名前やペットの名前を使う人が多いと聞いたような気がする。
「シリアル、でいいや」
「それ、朝ご飯でしょ」
「だって思いつかない。てきとーでいいよ」
ユーザー名を凝ったところで演奏の評価には影響しないだろう。遙は何度目かわからない溜息を吐く。
観念して練習記録の音源が入ったUSBメモリを渡すと凜はうえっと嫌そうな顔を見せた。
「え? なに」
「自分で投稿しなさいよ。ほら、そこのパソコンからログインして」
そもそもアカウントは凜が作ったのだから遙はログイン用のパスワードを知らない。それなのに凜は理不尽なことを言っているように思える。
「アカウント勝手に作ったの凜でしょ。ログイン出来ない」
「はい、パスワード」
手書きのメモを渡される。
ころころ丸い文字は女子高生の飾り文字みたいだ。実際そういうものを見ながら練習してきたのだろう。今ではすっかり凜の文字になっているそれをじっと眺める。
女性になりたいわけではないと言うくせに、女性っぽい見た目になりたがっている気がする。
遙が口出しすることではないと思い直し、パソコンを起動した。
あまり誰かに聞かせることを意識して演奏したことがない。ただの練習を投稿したところでそんなものを聞きたい人がいるのだろうか。
考えたところで、凜の圧力に逆らえない。
別に怒鳴られたり殴られたりなんてことはしない。ただ、なんとなく、凜に強く言われると断れない。
結局のところ、遙は流されるしかないのだ。
「……昨日の練習ならこれだけど」
教本の練習曲を一通り復習っただけだ。
ついでに自作曲に組み込もうとしたパートも何パターンか録音していた。ディストレーションをかけて遊ぼうと思っていたところだ。
凜はスキップしながら一通り再生し、目敏く遊びで録ったパターンを見つけ出した。
「これ。これにしよう。で、曲完成させてそれも投稿しなさい」
「え?」
遊びのつもりだったのに。
「これ、歌のパート作って流行の歌物にしたら? ほら、なんだっけ? いろんなキャラクターの声のやつあるでしょ?」
肝心なところで流行に疎い凜。いや、キャラクターの方は知っていてもどういうアイテムなのかを理解していないだけかもしれない。
「いろいろあるよ。最近はどんどん技術も進歩しているし。まあ、好奇心で買ったのが……入ってはいるけど」
けれども歌物を作る気はなかった。
「歌物の方が注目が集まるじゃない。動画投稿するなら絵、描いてあげるから」
「しないよ。これ、歌物用じゃないし」
凜は残念そうな様子を見せるけれど、それ以上は言わない。
作品に対しては過度に踏み込まない。それが芸術を学ぶ者の最低限の礼儀だとでも考えているのだろう。
正直、助かったと思う。
「気が乗らないんだから、練習をそのまま投稿するよ」
それを聞きたい物好きがいたら、その後のことを考えよう。
基礎練習の文字と日付だけを添えて録音を加工もせずに投稿する。
これで凜が満足してくれるとは思えないが、遙にとってもここが最大限の譲歩だ。
「反応がどのくらい貰えるか、楽しみね」
「誰も見向きもしないよ。ただの練習だし」
きっと明日になっても無反応だったら凜も諦めてくれるはず。
そんな遙の認識の甘さは翌日に思い知らされることになる。
全ての音に感謝する。
今日も音を聞くことが出来る健康な耳のなんと有り難いことか。
アラームよりも少しばかり早い目覚めだった。しかし、そんなことは気にならない。
ロフトベッドの上で、枕元の本を手探りで探す。
枕元には常に二冊の本がある。楽典と聖書だ。
少し早く目を覚ました時間を有効活用しようと、聖書に手を伸ばす。現在二度目の通読の最中で、また創世記からなぞっているところなのだが、学生生活は忙しく思うように進まない。
音楽とは祈りである。聖書を理解していなければ留学先で入門すらさせてもらえない。そんな噂を信じているから通読しているわけではないが、読んでおいて損はない。世界一読まれている本だ。きっと人生に役立つなにかが詰まっているのだろう。まだそこに辿り着いてはいないが。
通読表の読み終わった箇所にスタンプを押すのはささやかな喜びだ。まるで幼稚園に通っていた頃、ご飯を食べたらご褒美に貼ったシールのようだ。目に見える成果。達成感。メンタル状態をできるだけフラットにするために必要な行為だ。
遙は沈みやすい。そのくせに浮上しにくい。一度沈むと同じことをずっとうじうじと考えてしまい、なにも手に付かなくなる。
実技科目の追試が辛い。
今日はピアノの練習にしよう。
入学祝いにと最上位モデルの電子ピアノを買い与えた父の考えが読めない。
褒められたことはあまりない。頑張っても頑張らなくても彼の反応にあまり変化はなかった。通知表すら見ていないかもしれない。
座学で並んだ優の数と、実技科目で並ぶ可の数の差に呆れているだろうか。それともそれにすらなにも感じないのだろうか。
課題曲のソナタは体が覚えているはずなのにどうしても本番では音が飛んでしまう。楽譜を目の前に置いていても白紙にしか見えなくなり、自分が今どこに居るのかと迷子になる。演奏の途中で道を踏み外す。そんな感覚だ。
練習は裏切らない。
むくりと起き上がり、天井に頭をぶつけないように注意しながらロフトベッドの階段を下りる。
ベッドフレームに引っかけた数本のハンガーから今日の服を選びそのままベッドの下で着替えを済まし、通読表に今日のスタンプを押す。
ルーチンはできるだけ崩さないように。それがメンタルを安定させる一番のコツだ。遙は変化が嫌いなのだから。
朝食は小学生の頃から変わらず同じメーカーのコーンフレークだ。パッケージこそ変わることはあってもメーカーを変えようと思ったことはない。お皿いっぱいにコーンフレークを盛ってなみなみと牛乳を注ぐ。それをベッド下のデスクに運んで食べるのが大学入学してからのルーチンだ。
朝の騒音。頭が働くまでの僅かな読書。着替えて通読表に記録。そして朝食。
通学前にピアノかチェロの練習をする。休みの日はその両方を。
低学年のうちは全休日を作ってはいけないと言われているが、希望した講義の日程被りなどもあり、月曜は全休になってしまっている。
既に後期日程が憂鬱だ。
ファッションショー、演奏会、学園祭。音楽を専攻していても逃げられない行事は数多くある。特に演奏会や学園祭は裏方に徹するという逃げが許されない。単位になるのだ。
ファッションショーの為の音楽は作曲を専攻する先輩達の誰かがなんとかしてくれるだろう。そうなれば、遙は精々バックヤードで音響機器のセッティングを手伝う程度で済む。ちょっとばかし帰宅が遅くなるがそれで単位がもらえるならおいしい。
問題は演奏会だ。定期演奏会。ピアノを専攻すれば全員が一曲は披露しなくてはいけない。管楽器も勿論。声楽専攻は伴奏者を捕まえるところから始まる。ピアノ専攻の上手な子達は争奪戦になるという。遙には声が掛かったことすらないが。
学園祭も発表会がある。これがくせ者だ。
表向きは自由参加。しかし単位に影響がある。つまり強制参加だ。しかしあくまで学園祭。いつもと違う楽器を使う学生も少なくはない。これがきっかけで専攻を変える学生までいるくらいだ。
なにより、有名になった卒業生が特別ゲストとして来る。これは学生にとってチャンスなのだ。有名人に顔や名前を覚えて貰ってコネを作る。
ここであがり症の遙が盛大にやらかしたとしよう。業界で生き残ることは不可能だ。ただでさえ狭き門だというのに、門を通過したあとの人間関係は更に狭い。あっという間に噂が広がって使えないやつだと仕事をもらえなくなるのが目に見えている。
溜息が出る。
そう長い時間は残されていない。
まずは追試をなんとかしなくては。いつも見ている教授だ。練習だと思い込め。
ひとりきりの部屋のはずが、教授の顔を思い浮かべた瞬間緊張で胡弓がおぼつかなくなる。
困ったものだ。
やはり学生相談室でカウンセリングを受けるべきだろうか。
保健センターから配られたプリントを思い返す。
けれども結局当日になって時間の無駄と考えてしまい、練習のため帰宅してしまうのだろう。
気が重い。
うんざりしていると、遠くからバイブ音が聞こえる。短い音だったからメッセージアプリだろう。遙に連絡を寄こす人間なんて限られている。
ごく稀に母か、本当に年に片手の指ほど父から。それ以外は凜か講義ごとのグループメッセージだ。毎日遙に連絡を寄こす物好きは凜くらいしかいない。
重い体を起こして、枕の下敷きになっていたスマホを確認するとやはり凜からのメッセージだった。
休講なっちゃったから遙の家に行くね
これはあと一分もしたら「今、家の前よ」とメッセージが届くのだろう。凜はそう言う人なのだ。
凜のことは嫌っていない。寧ろ助かっていると思う。それでも勝手だとは感じてしまう。ただその勝手さが凜の魅力なのだとも理解出来ている。
芸術家は変わり者が多い。凜は変わり者として生きるために芸術の道を選んだ人だ。
好きな格好をして生きたい。
生きるために外見を損ないたくない。
それが凜だ。
派手な髪、ピアス、化粧。服装だって常に自分の好きな物だけで構成したいと遙には理解出来ない、とにかく目立つ格好をしている。今日はどんな格好なのだろう。ぼんやりと考えているとまたバイブ音が鳴った。
今、家の前よ
開けて
連続して二つのメッセージ。
返事をしなくたって送り続けてくるのだから、そろそろ合い鍵を渡すべきかと考え、そんな関係ではないと思い直す。
階段を下り、玄関に向かう。念のため、洗濯物が転がっていないかは確認する。
玄関の鍵を開ければ、次の瞬間には扉が開く。
「さっすが遙! 私が来ることちゃんっとわかってくれてる」
「座る場所もないのに物好きだよね」
そもそも来客は想定していない。デスクの椅子とピアノ椅子、あとは防音室のチェロ椅子くらいしかない。
もっと言うとレポートを書くときは面倒くさくなってピアノの上で済ませることの方が多い。譜面台で資料を固定すると捗るのだ。
「いやぁ、絵画ね、モデルさんが来れなくなっちゃって休講なのよ」
「だからといってなんでうち? 絵画スタジオとか図書館とか行くところはあるでしょ」
ピンクのメッシュが入った金髪は目が痛くなりそうな色だと思う。それにドレープのカットソーのせいで性別が余計にわかりにくい。
御影凜は戸籍上は男性である。が、幼少期から性別のわからない格好ばかりしていた。遙も特に気にしていなかったし、フェミニンな男性というのも珍しくない時代だ。それに加えて本人が変人として生きることを望んでいる部分がある。
目立つの大好き凜ちゃん。
本人の鞄にぶら下がっている手製のキーホルダーである。遙にはとても真似できない。緊張やあがり症とは無縁の人だ。
「だって遙、私が来ないと誰とも会わない全休でしょ?」
全く悪気なんてないという表情で人によっては失礼だと怒りそうなことを言ってくれる。
事実だ。否定する気もない。
凜は我が物顔でピアノ椅子を引っ張り出し、そこに足を組んで座る。
すらりと長い美脚を晒すミニスカートは戸籍上男性という事実の信憑性を貶めている。
凜と初めて会う人は大抵美女だと思うだろう。本人は別に女性になりたいわけではないと口癖のように言っているが、遙の両親も凜を男の子とは認識していないらしく、家に入れるなと言われたこともない。単に関心がないだけかもしれないが。
「せっかくアイコン描いてあげたのにアカウントすら作ってないみたいだったから代わりにアカウント作っておいてあげたわ」
得意気にスマホの画面を見せてくる凜に呆れてしまう。
「あとは演奏を録音して上げるだけだからさっさと音源用意しなさい」
どうせ日々の練習記録音源があるんでしょと勝手にパソコンを漁りそうな勢いだ。
「凜、やらないって」
「だめ。今動かないと遙、一生動かないでしょ」
ぐさりと突き刺さる。
遙には凜の言葉に反論することができない。ただでさえ腰が重いのだ。やりたくないことはずるずる先延ばしにしてしまう。
「私だっていつまでも手を貸してあげられるわけじゃないの。だから、夏休み中に少しでも知名度を上げるよ」
凜ばかり気合い満点で遙はいつだって置いてけぼりの気分だ。
けれども背中を押してもらえなければ動き出せないのも事実。
「アカウント、見せて」
アイコンは既に凜が作成したイラストに設定されている。ユーザーIDは凜と遙の誕生日を並べた数字で構成されていた。
「まずは名前を決めないと。そこは変更可能だから空欄にしておいた」
「……そこ、決めておいてくれないんだ」
めんどくさい。特になにも浮かばない。
こういうときは食べ物の名前やペットの名前を使う人が多いと聞いたような気がする。
「シリアル、でいいや」
「それ、朝ご飯でしょ」
「だって思いつかない。てきとーでいいよ」
ユーザー名を凝ったところで演奏の評価には影響しないだろう。遙は何度目かわからない溜息を吐く。
観念して練習記録の音源が入ったUSBメモリを渡すと凜はうえっと嫌そうな顔を見せた。
「え? なに」
「自分で投稿しなさいよ。ほら、そこのパソコンからログインして」
そもそもアカウントは凜が作ったのだから遙はログイン用のパスワードを知らない。それなのに凜は理不尽なことを言っているように思える。
「アカウント勝手に作ったの凜でしょ。ログイン出来ない」
「はい、パスワード」
手書きのメモを渡される。
ころころ丸い文字は女子高生の飾り文字みたいだ。実際そういうものを見ながら練習してきたのだろう。今ではすっかり凜の文字になっているそれをじっと眺める。
女性になりたいわけではないと言うくせに、女性っぽい見た目になりたがっている気がする。
遙が口出しすることではないと思い直し、パソコンを起動した。
あまり誰かに聞かせることを意識して演奏したことがない。ただの練習を投稿したところでそんなものを聞きたい人がいるのだろうか。
考えたところで、凜の圧力に逆らえない。
別に怒鳴られたり殴られたりなんてことはしない。ただ、なんとなく、凜に強く言われると断れない。
結局のところ、遙は流されるしかないのだ。
「……昨日の練習ならこれだけど」
教本の練習曲を一通り復習っただけだ。
ついでに自作曲に組み込もうとしたパートも何パターンか録音していた。ディストレーションをかけて遊ぼうと思っていたところだ。
凜はスキップしながら一通り再生し、目敏く遊びで録ったパターンを見つけ出した。
「これ。これにしよう。で、曲完成させてそれも投稿しなさい」
「え?」
遊びのつもりだったのに。
「これ、歌のパート作って流行の歌物にしたら? ほら、なんだっけ? いろんなキャラクターの声のやつあるでしょ?」
肝心なところで流行に疎い凜。いや、キャラクターの方は知っていてもどういうアイテムなのかを理解していないだけかもしれない。
「いろいろあるよ。最近はどんどん技術も進歩しているし。まあ、好奇心で買ったのが……入ってはいるけど」
けれども歌物を作る気はなかった。
「歌物の方が注目が集まるじゃない。動画投稿するなら絵、描いてあげるから」
「しないよ。これ、歌物用じゃないし」
凜は残念そうな様子を見せるけれど、それ以上は言わない。
作品に対しては過度に踏み込まない。それが芸術を学ぶ者の最低限の礼儀だとでも考えているのだろう。
正直、助かったと思う。
「気が乗らないんだから、練習をそのまま投稿するよ」
それを聞きたい物好きがいたら、その後のことを考えよう。
基礎練習の文字と日付だけを添えて録音を加工もせずに投稿する。
これで凜が満足してくれるとは思えないが、遙にとってもここが最大限の譲歩だ。
「反応がどのくらい貰えるか、楽しみね」
「誰も見向きもしないよ。ただの練習だし」
きっと明日になっても無反応だったら凜も諦めてくれるはず。
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