黒炎の宝冠

ROSE

文字の大きさ
上 下
5 / 21

5 新しい家族

しおりを挟む
 晩餐用のドレスに着替え支度を調えていると、ルイスが訪ねてきた。
「こんばんは、レイナ様。今日は一段とお美しい」
 柔らかく笑む彼はやはり作った表情のように思える。たぶん、黒咲凛《くろさきりん》の事前知識がなくても、レイナは彼が苦手だっただろう。そもそもレイナは音楽を基準に他人を見る。しかし、彼はホセやアルベルトのようには音楽に対して真摯ではないように思える。
「ルイス、お世辞はいらないわ」
 容姿を褒められることはあまり嬉しくはない。というよりも、レイナの基準では容姿に関して価値を見出せないのだ。評価されるべきは音楽だけでいい。
「お世辞ではありませんよ。私の婚約者が日に日に美しく成長されて本当に嬉しいのです」
 メイドのリズが仕上げの髪飾りを付けようとすると、ルイスはその手を止める。
「すまないが、少しレイナ様と二人にしてもらえないだろうか」
「せめて髪飾りを」
 リズが困惑した様子で答えると、ルイスは彼女になにかを耳打ちする。次の瞬間には彼女は目を輝かせ、納得した様子で何度も頷いた。一体何を言ったのだろう?
 ルイス・フィエブレはとにかくご婦人にモテる。見た目も美しいし、物腰も柔らかく才能豊かで将来も約束されている。そんな彼の婚約者だなんて、王女じゃなければ相当な嫌がらせを受けたに違いないと思えるほど、ルイスはとにかくモテる。女性には。
 男性からはあまり良い噂を聞かない。というより、情報源がアルベルトしかいないため粗ばかりが目立ってしまう。音楽に真摯ではないせいで評価が低いのだとは思うけれど、とにかく彼の評判は女性からの高評価とアルベルトの低評価の落差が目立つ。
 それでも一般的な基準ではルイスの容姿は美しいとされる。きっとリズは彼の魅力に参ってしまったのだろうと邪推することにした。
 リズは二番目の姉、エマと同じ歳でレイナより七つも年上だが、実の姉たちよりずっと接しやすい。少しそそっかしいところもあるが、にこやかな女性だ。
「レイナ様、これを受け取っていただけますか?」
 リズを追い出すことに成功したルイスは胸元から小さな箱を取り出し、恭しい仕草で差し出した。まさかプロポーズだろうか。黒咲凛の知識のせいで混乱してしまう。
「あなたがなにを喜ぶかわからなくて、かなり悩んでしまったのだけど、気に入って貰えたら嬉しいな」
 ルイスは少し幼い優しい笑みを見せる。まるで年上のお兄さん役を演じたいようだ。
 一体何だろう。動揺に気付かれないよう願いながら包みを受け取る。
 彼はかなりの役者だから気をつけなくてはいけないと、頭の端で警戒しつつ包みを開く。
「……髪飾り?」
 てっきり指輪かと思うと中からは髪飾りが出てきた。よく見るとハ音記号のモチーフにルイスの瞳に似た青い宝石が飾られている。
「……素敵……ルイス、ありがとう。演奏会にぴったりね」
 演奏会の時は赤いドレスのつもりだったけれど、髪飾りに合わせて青にした方が良いかもしれない。そう、考えていると、ルイスの手がするりと髪飾りを奪い、それから素早くレイナの髪に差し込んだ。とても手慣れている。
「今夜の晩餐会でも身につけていて欲しいというのは、私のわがままかな?」
 ルイスの言葉に驚く。
「いいえ、嬉しいわ。素敵な髪飾りですもの。沢山使わせていただきますね」
 そう、答えると、後ろから抱きしめられる。
「レイナ様……あなたは、私には少し他人行儀過ぎませんか?」
 拗ねたような口調に驚く。突然何を言い出すのだ。
「ルイス? 急にどうしたの?」
「……今日もアルベルトと会っていたそうですね。彼からの贈り物を、あなたが大変喜んでいたとあなたの護衛から聞きました」
 穏やかだったはずの彼の声が、だんだんと暗いものになっていく。
「彼から何を受け取ったのですか? 私の贈り物よりもとても喜んでいたようですね」
 徐々に腕の力が強まり、痛い。
 ルイスが何を言っているのか理解できないが、彼はとても怒っているようだ。
「譜面台を頂きました。丁度椅子の高さが合わなくなって新しくしたところだったので、椅子によく合う素敵な譜面台だと」
 実用最重視の贈り物は嬉しい。その上、アルベルトはセンスも良い。レイナの好みをきちんと抑えた落ち着いた色合いに、チェロのモチーフとハ音記号とヘ音記号が彫られた特注らしい品だった。
「……あなたは、装飾品を贈られるより、譜面台の方が嬉しい?」
「えっと……実用的な物は嬉しいわ。でも、この髪飾り、とても素敵だと思ったのも本当よ?」
 正直に言うとルイスから今まで贈られた品の中で一番嬉しい。
 彼は婚約してから毎年誕生日に宝飾品を贈ってくれたし、何も無いときにも様々な贈り物をくれた。ティーセットや恋愛小説、花束に人形。レイナの好みを探るように様々な物を。
「アルベルトばかりがあなたと親しそうで……嫉妬してしまいます」
 少しだけ、腕の力が緩められる。
「彼は良い友人よ。でも、ルイスは私の特別な人でしょう?」
 ルイスが少し怖い。多分それはレイナが彼をよく知らないからだ。
 少し幼い口調で、ルイスに問いかければ、彼の腕からするりと力が抜ける。
「レイナ様、あなたは、私との婚約に納得されていますか?」
 想定外の質問に驚く。
 もし、ここで結婚は嫌だと告げればどんな反応をされるのだろう。とても危険な選択になってしまうことは明白だ。
 ならば答えはひとつだ。
「お父様が決めて下さったのだもの。間違いなどない、でしょう? だから、私、ルイスと仲良くなりたいの」
 幼さを強調する。まだ、恋愛感情など理解できていない子供のふりをする。実際、レイナ・アルシナシオン自身は恋愛感情を理解できていない上に、黒咲凛にもそこまで経験があるわけでもない。
「まずは、そうね。ルイスは私をレイナと呼ぶべきよ。その方が距離が近い気がするでしょう?」
 レイナを呼び捨てるのは父と兄姉、そしてなぜかホセだけだ。
「ですが、私の身分では」
「じゃあ、二人きりの時は身分のことは忘れましょう? お父様には内緒よ?」
 できるだけ子供っぽい仕草で言う。
 レイナ・アルシナシオンは今まで音楽にしか触れてこなかったのだから、演奏技巧以外は子供でおかしくない。
「わかりました。レイナ。では、あなたも、できるだけ私には素の姿を見せて下さい」
 ルイスの言葉に驚く。
「私はいつだって私のつもりだけど……」
「アルベルトと過ごしているときの方が自然体に見えます」
 それは親しみやすさの差だと思ったが、口には出さない。
 ルイスは相当アルベルトを嫌っているだろう。表面上は友人を装ってはいるが、それはルイスもアルベルトもホセが重要だからだ。ホセのあの良くも悪くも身分も気にせず我が道を突っ走ってしまう自由さが貴族社会に疲れ切った彼らのオアシスになっているのだろう。
「ホセがヴィオラを演奏してくれるなら弦楽四重奏ができるのに」
 もしくはアルベルトかルイスがヴィオラを演奏してくれたらピアノ四重奏ができる。
 そう考え、気付いてしまう。『EVER』の登場キャラクターにヴィオラ奏者がいない。これは黒咲凛の知識不足が招いた悲劇だ。もし、元の世界に戻れたら『EVER』の発表を延期し、ヴィオラ奏者の追加キャラクターを用意すると誓いたい。
「レイナは、いつも音楽のことしか考えていないのかな?」
「音楽に触れているととても安心するの」
 不安になったとき、考え事をしたいとき、楽器に手が伸びる。寂しさを感じたとき、悲しいとき。負の感情を和らげるように演奏する。それはこの肉体に染みついた習慣だ。
「レイナは練習のしすぎだとホセが心配していたよ」
 ルイスは優しくレイナの頬に触れて言う。
「顔色は悪くないね」
「ええ。大丈夫よ。睡眠時間はたっぷりとっているもの」
 そう答えたところでリズが戻ってくる。
「レイナ様、そろそろお時間です」
「ええ。今日はお父様の演奏が聴けるからとても楽しみなの」
 ルイスを見れば、少しだけ驚いた顔をする。
「陛下が?」
「ええ。お父様の魔法は特別なの」
 未来のレイナと同じく人の心を操る魔法だ。そして、その魔力を受け継いでいるのはレイナと長兄ジェイコブのみで表向きには隠された力でもある。
 他人の心を操る術は演奏技巧だけでは使えない。生まれ持った魔力の性質、その魔力を増幅させ共鳴させられる楽器、そして用途毎に異なる楽曲だ。王家にはその魔力を持つ者だけに与えられる秘伝の楽曲集がある。レイナは既に父の書斎に忍び込んで写譜済みだ。それも、五つの時に。
 当時はまだ使えなかった技巧も大分上達した。楽曲自体は演奏可能だろう。しかし、その魔法を完璧に使えるかというと、魔術経験の面で不安は残る。
「私、お父様みたいにみんなを楽しくする演奏をしたいわ」
 レイナが父のような魔法を使いたい理由は、どんなに悲しんでいる人でも一瞬で笑顔に返られる音楽が存在したからだ。当時のレイナにはそれがとても素晴らしいものに思えた。しかし、今はそれが間違いであると知っている。麻薬のような音楽で悲しみを麻痺させたところで、なにも解決などしていないのだ。
「レイナならできるよ」
 ルイスは優しく髪を撫で、それから自然な仕草でレイナの手を取り歩き出した。



 晩餐の席、珍しく兄姉全員が揃っていた。次兄ノアも例外ではなく、車椅子に座ってはいるもののいつもよりは顔色も良さそうだ。
「ノアお兄様、今日は体調はよろしいのですか?」
「ああ、レイナ。新しい薬が合うようで、最近はだいぶいいよ。心配してくれてありがとう」
 ノアは穏やかに笑む。彼はほとんど寝たきりだったので、レイナはシナリオ進行度の様子見のための見舞いで数回しか会ったことがなかったが、とても穏やかな人のようだ。
「ああ、それと、お見舞いの本をありがとう。とても有意義な本だったよ」
「あら、レイナ、ノアのお見舞いに行ったの? 珍しい」
 驚きの声を上げるのは長姉のエレナだ。彼女は相変わらず華やかに着飾って、耳飾りや髪飾りがとても重そうに見える。きっと演奏にも支障が出るに違いない。爪も長く鮮やかに染められ、小さな宝石まで付いている。演奏家の手ではない。優秀なハープ奏者なのに惜しい。
「ええ。ノアお兄様の演奏が聴きたくて。でも、しばらくベッドで寝たきりだったから、少しお話しただけでした」
 ノアの楽器は珍しい。最早部屋そのものが楽器というべきだろうか。彼の楽器のためだけにわざわざ増築された空間なのだ。なんと彼の為に五年がかりで作られたらしい。しかし、実際に演奏に使われたのはわずかな時間だ。少なくとも、レイナの分数楽器よりも短い時間しか演奏されていない。
「ふふっ、もう少し動けるようになったら、練習して披露させてもらうよ。レイナは昔から音楽のことしか考えられないのに、時々ふらりと僕を思い出してくれるからね」
 ただ、生存確認に行っただけとは言いにくい。少なくとも、次兄はレイナを好意的に見てくれているようだ。
「あの大きなオルガンの響きを想像するだけでわくわくしますわ」
 歴史的な大聖堂にでもありそうな巨大なパイプオルガンはただ、ノアが演奏するためだけに五年も費やして作られた。誰に演奏を聴かせるわけでもない。彼の演奏を聴くことができるのは、彼の部屋に招かれた家族だけだ。
 そもそもノアの部屋は物が少ない。彼はほとんどをベッドで過ごしてしまうので、ベッドと、沢山の本の並んだ棚、そしていくつかの椅子がある程度だ。
「レイナと合奏できるようにレイナの為の椅子も用意しておいたよ」
 ノアは穏やかに笑む。
「お兄様、ありがとうございます。これで椅子を持ち歩く使用人を雇わなくて済みそうです」
「ふふっ、レイナは面白いことを考えるなぁ」
 ノアは青い瞳を細める。
「レイナったら私の贈ったドレスを着てくれないじゃないの」
 エレナが不満そうに言う。
「とても素敵なドレスでしたので演奏会の時に着たいと思います」
「それに髪飾りがとっても地味よ」
 エレナはレイナをじっくりと見る。
「それと、右手の筋肉、付きすぎよ」
 そんなところまで見られるのか。姉が恐ろしい。
「お姉様、今日はレイナのお誕生日ですし、お小言はそのくらいで」
 次姉エマが止めてくれたおかげでなんとか解放されそうだ。
 そうしてようやく席に着くと、一番に席に着き待っていたであろう長兄が苛立った様子を見せる。
 ちらりとルイスを見れば、彼は落ち着かない様子だった。将来的には彼も毎日この席に着くことになるのだろうからこればかりは慣れて貰うしかない。
 それにしても、長兄よりも先にレイナの婚約が決まってしまうとは思わなかった。次兄ノアは病弱だから仕方が無いものとして、長姉は最初に決まった婚約者を戦で失ってからは誰とも婚約をしないと宣言して好き放題に振る舞っているし、次姉エマは隣国の王子との婚約が決まってはいるが彼がとても逞しい軍人だったため、恐ろしいと姉の陰に隠れて面会を拒否している最中だ。つまり、五人も居て、婚約者と友好的な関係を築けそうなのはレイナだけなのである。
「お前たち、もうすぐ父上がいらっしゃる。大人しくしろ」
 長兄が落ち着いてはいるがよく響く声で言う。彼もまた軍人だ。いくつもの戦場を生き残った優秀な軍人らしいがレイナにはよくわからない。しかし、エマの婚約者と彼は個人的な付き合いもあるほど友好的な関係らしく、その縁もあって婚約が決まったらしい。
 ジェイコブはエレナをぎろりと睨み、従わせる。自由奔放な長姉を従わせられる唯一の人物がジェイコブだろう。だが、その長兄は実は次兄に弱い。兄弟間のカーストが見え隠れする空間はやはり少し落ち着かないが、全員で合奏できたら楽しいだろうと幼いレイナは願っていた。今となっては非常に難しいことは確かだが。
 全員が黙り、静まりかえった頃、扉が開き、父王ともう一人、少女が入ってきた。十歳に満たない程の少女だろうか。レイナの癖のない漆黒とは違いふわふわとした癖の輝く金髪が、冷たい印象のレイナとは違い愛らしい印象の少女が父の後ろをぴったりと歩いていた。
 アリアだ。直感が告げる。
 なんの前触れも無く、父が演奏を始める。オーボエの少し切ないメロディ。しかし二番目のフレーズに入ろうとした瞬間、長兄が耳を覆った。レイナは思わずルイスの腕を引き、彼をテーブルの下に押し込む。
「レイナ?」
 なにが起きたのかと困惑を見せる彼の手を掴みそのまま耳に運ぶ。
「耳を塞いで」
 レイナも慌てて耳を塞ぐ。父の魔法だ。しかも、良くない魔法。
「ジェイコブもレイナもお行儀が悪いな。人の演奏は最後まで静かに聴くのが礼儀だろう?」
 父はいつもの穏やかな笑みで言う。
「よく言いますね。その魔法は家族に向けるものではないでしょうに」
 長兄は怒っているようで、懐から楽器のケースを取り出し、素早く中身を組み立てる。
 彼の楽器は白金のフルートだ。とても重く、おそらくは彼のように恵まれた体格でなくては演奏が難しいだろう。対して父の楽器は紫檀製のオーボエだ。どちらも特別な加工がされてはいるが、特殊な素材は使われていないため、二人が魔術で勝負するとなると完全に技巧での戦いになるだろう。
「音楽魔法対決って初めて見るけど、どういうものなのかしら」
「レイナ、面白がるな」
 長兄に注意される。
「私も楽器持ってこればよかった」
 混ざれたかもしれないのに。とても残念な気持ちになる。
「うーん、でもまぁ、三人聴けば問題ないかな。全員席に着きなさい」
 父がそう言って自身も席に座る。ジェイコブは楽器を手放さないまま、警戒するように座った。
 勿論、アリアらしい少女も席に座る。それも、父の右隣に。
 テーブルの下から這い上がってきたルイスは何が起きたかわからない様子だったが、レイナ自身、現状が読めない。ただ、あの少女がアリアであることはほぼ確定だ。
「まずはレイナ、十三歳のお誕生日おめでとう。父からは上級魔法の教師の手配を贈り物とさせてもらうよ」
「まぁ、ありがとうございます。お父様のご期待に添えるように精進致しますね」
 そういえば少し前に魔術の座学が物足りないからもう少し進んだ勉強をしたいと次姉に話したかもしれない。
「そしてもうひとつ。レイナ、お前は妹が欲しいと言っていただろう? ここに居るアリアをお前たちの妹として迎える」
 ああ、ようやく『EVER』の世界でアリアが兄姉たちに嫌われていた理由がわかった。こんなふざけた方法で紹介されたのか。
 全員黙り込んでいる。こういうとき最初の発言をするのは長兄であるべきはずだが、その長兄すら口を開かない。それ以前にアリアを視界にも入れずに父を睨んでいる。
「レイナ・アルシナシオン、チェロ奏者ですわ」
 歓迎するとは言わないが、一応挨拶くらいはするべきだと思い、口を開いた。するとアリアも長兄も驚いた顔をする。
「レイナ、兄姉より先に口を開くな」
 長兄が厳しい声で言う。
「あら、ごめんなさい。誰も口を開いて下さらないからてっきり今日は小さい順かと思いましたの」
 流石に無視は感じ悪い。そう思ったのにルイスすら口を開かない。彼は外面だけは良いのに。ここで国王の反感を買っても長兄に睨まれたくは無いらしい。
「我々はそれを家族とは認めない」
 長兄は厳しい声でそう言ったかと思うと、自慢のフルートで短いフレーズを奏でる。これはおそらく、洗脳を解く為の術だ。
「妹はエマとレイナで十分だよ、父上。それに、僕より活発な弟も勘弁して欲しいな」
 ノアが冗談のように言うが、目は全く笑っていない。ノアは病弱ではあるが、洗脳魔術に対する耐性が強い。多分術に掛かったふりをしていたのだろう。
 エレナとエマ、二人の姉はまだぼんやりしているようで状況を飲み込めていない。
「レイナ、ごめんね。疲れてしまったよ。部屋に戻ってもいいかな? 君さえよければ僕の部屋で夕食の続きにしよう」
 ノアは言葉こそいつも通りだが、父に対する怒りを隠そうともしない様子だ。
「まぁ、大変。ええ勿論。ルイスもご一緒してもよろしいでしょうか? でも、賑やかだとお兄様のお体によくないかしら?」
 ルイスをこの場に置き去りにするのは少し可哀想だと思いそう提案するとノアは大人しく頷く。
「ノア、部屋まで運ぼう。エレナ、エマ、適当に料理をノアの部屋に運んでくれ。レイナの誕生日は兄姉で祝おう」
 長兄の行動は速い。車椅子から弟を抱き上げ、それから強引にレイナの腕まで引っ張り歩き始める。そして視線でルイスに車椅子を運ぶように指示をした。相当慣れている。
「お前たち、それはアリアに失礼ではないか?」
 父の言葉に、長兄は返事をしない。それどころか彼は更に怒りを増したようで、レイナの腕を掴む手に力を込めた。
「お兄様、痛いです」
 手をおかしくしてしまったらどうするつもりなのと非難を込める。
「ああ、すまない」
 ノアの部屋の前でようやく解放された。
「お前の祝いを台無しにしてしまった」
 長兄は心底申し訳なさそうに言う。それが少し不思議に感じてしまうが、今日の彼はいつもと大分様子が違う。
 部屋の中からメイド兼看護師のリサが現れノアを引き取る。しかし、ノアは少しふらつきつつも椅子に座ると主張した。
「レイナのお祝いだからね。ああ、彼女に演奏用の椅子を見せてあげて」
 少し呼吸が乱れたノアは椅子の背に凭れ上を向く。
「久々に怒ったから少し疲れてしまったよ。兄さんが暴れなくて本当に良かった」
 ノアはいつも通り柔らかい笑みを浮かべようとして失敗した様子だ。少し引きつっている。彼自身、父の行動とアリアの存在に怒っているのだろう。
「流石にレイナの祝いの席だからな。これでもかなり抑えた。全く、父上は何を考えているのだが」
 長兄は溜息を吐き、それから使用人を呼んで簡易テーブルを運ばせる。普段は使われない為、ノアの部屋にはテーブルが無い。彼は給仕ワゴンをそのまま使って食事をとるからだ。
「カボチャパイを丸ごと貰ってきたわ」
 エレナが得意気に皿を抱えて部屋に入ってきた。
「ケーキとスープも頂いてきました」
 エマの手には特大ケーキの皿が、そしてルイスが押している車椅子にはスープの大皿と取り分け用の皿が乗っていた。
「ノアお兄様のお部屋で食事なんて不思議な気分ですね」
 エマはそう言って、使用人が用意した簡易テーブルの上にケーキを置く。
「僕の部屋がこんなに賑やかになる日が来るとは思わなかったよ。普段ここに来るのは兄さんかレイナだけだからね」
 意外なことに長兄は頻繁に弟の部屋に足を運んでいるらしい。
「弟妹の状況を把握するのも兄の務めだ」
 ジェイコブは素っ気なく言い放ち、それからなにやら包みを手に取ってレイナに近づいた。
「晩餐会を台無しにしてしまいすまなかった。その、お前の腕ならこのくらいはこなせると思う」
 突然差し出された包みに驚いた。一体何だろう。
 長兄は毎年なにかとレイナに贈り物をくれるが、大抵ぬいぐるみなどの不要物だ。去年は可愛らしい飾りの付いたオルゴールだった気がする。
 包みを開いて驚く。
「……これ……上級魔法用の楽曲集……お兄様、本当に?」
「お前が努力家なのは知っている。ただ、努力の方法を間違えていることも」
 ふわりと頭を撫でられ驚く。まさか長兄にこんなことをされる日が来るとは。
「お兄様ったら、本当にレイナにめろめろなんだから」
 長姉がからかうように口にするとジェイコブは固まる。
「お前のように口うるさくない分可愛いだけだ」
 彼は照れたようにそう答え、長姉から目を逸らす。
「あら、可愛いのは認めるのね。だめよ。この家で一番可愛いのは私なんだから」
 エレナはさらにからかって勝手に椅子に腰を下ろす。
「お腹ぺこぺこ。リサ、パイを切り分けて頂戴」
 彼女は父の前では絶対に見せないだらけきった姿で言う。これが素なのだろう。
「お姉様、ルイスも居ることを忘れないで下さい」
「別にいいわよ。ルイスはレイナの婚約者であって私の婚約者候補じゃないもの」
 この開き直りこそ、長兄が長姉を苦手とする理由なのだが、彼女はそれを気にした様子すら見せない。
「レイナ様のご兄姉の皆さまはとても賑やかですね」
「いつもはもっと静かなの。今日は、特別ね。特大ケーキがあるもの」
 子供っぽくはしゃぐ様子を見せておく。そうすると、兄姉たちは安心した様子を見せるのだ。彼らにとってレイナは一番小さな、まだ幼い子供だ。
「レイナ、カボチャパイは好きだろう? 一番大きいところをお食べ」
 ノアは皿を見比べ、一番大きな塊の載った皿をレイナに差し出す。
「ありがとうございます。でも、一番体の大きなジェイコブお兄様にお譲りしますわ。それに、特大ケーキの前にパイでお腹いっぱいになってしまうのは勿体ないもの」
 長兄に皿を回すと驚いた顔をされる。
「ああ。そうだな。妹たちはケーキに夢中だ。ノア、パイは我々が片付けた方が良さそうだ」
「大丈夫だよ兄さん。今日はルイスもいるから」
 ね? とノアはルイスを見る。ルイスはとってつけたような笑みを浮かべ、相槌を打った。
 ノアはとても小食だ。そしてジェイコブは大食である。姉たちは甘い物は別腹といったところだろう。そして、レイナは非常に小食である。むしろ普段であれば食事の時間さえ惜しい。
 食事を始めれば兄姉たちは賑やかだ。
 それにしても、アリアがこのタイミングで現れるとは思わなかった。やはりなにかがずれてしまっている。
 これは黒咲凛の知るシナリオ通りには進まないかもしれない。つまり、創造主は無視されたということだ。
 もしかすると黒咲凛などという存在はレイナが生み出した架空の存在だったのではないか。彼女のシナリオという知識は全てレイナの妄想なのではないか。そんな考えが過り、不安になる。
 手元にチェロがない。心を落ち着かせる方法がない。震える指を弦を押さえるように動かす。
「大丈夫だ。私がなんとかする」
 ぎゅっと手を握られる。震える手を力強く握ってくれたのは長兄だった。



しおりを挟む

処理中です...