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ミキ
しおりを挟む湿度の高い昼だった。
気温も体温に近づく中、パラパラと雨が降る。
郵便物をポストに投函するという、たったそれだけの用事のため外に出た帰り道、移動販売のドーナツに釣られ、うっかり二つ購入してしまった。
ホクホクしながら、それでも暑さにうんざりして歩いていると、突然奇妙な声がした。
ミキミキミキミキ
男性の声に聞こえた。
一体なんだろう?
気持ち悪くなって周囲を見渡しても、声を発したと思われる人は見当たらない。
気のせいだろう。
そう思って歩き始める。
けれどもまた声がした。
ミキミキミキミキ
気持ち悪い。
柔らかく、普通に話せばきっと爽やかな印象を与えるのだろう声質のはずなのに、ねっとりとした響きに感じられた。
思わず駆け足になる。
けれども声は止まない。それどころか接近しているようだ。
ミキミキミキミキミキミキミキミキ
一体なんなのだ。
ミキ? 人の名前?
三木なのか美樹なのか美紀なのか三城なのか。ほかにも候補はたくさんあるけれどひとつだけ確かなのは私の名はミキではないということだ。
つまり呼ばれながら追いかけられる心当たりはない。
息切れするような速度で横断歩道を渡りきる。
さすがについてこないだろう。そう思った。
なのに。
ミキミキミキミキミキミキミキミキ
声がする。
執拗に、粘着質な印象に、何度も何度も呼びかけているような響き。
ミキとは一体誰なのだ。
気味が悪い。
なのに声はどんどん接近している。
嫌だ。
咄嗟停車していたバスに乗り込む。行き先も確認していないが、幸い小銭はいくらか持っている。帰ってくることも出来るだろう。
バスの速度では付いてこられないだろう。きっとどこかで声の主も諦めてくれるはずだ。
そんな願望は簡単に打ち砕かれた。
ミキミキミキミキミキミキミキミキ
耳元で、ステレオで響く。
ぞわりと背筋をなにかが撫でるような感触があった。
この何者かは「ミキ」のストーカーなのだろうか。
だったらミキではないと告げたらどうなるのだろう?
今のところは声が聞こえる以外に実害はないのだから、もしかすると、離れてくれるかも。そんな考えが過ったが、いざ名乗るとなると、本当に名乗っていいものか不安になる。
名乗れば今度は自分の名前を延々と呼び続けるようになるのではないか。
だからなんだというのか。
気持ち悪い。
気味が悪い。
それ以外の害はない。
問題は、この声が追跡してくることだ。
ミキミキミキミキミキミキミキミキ
ステレオの響きは、耳の奥まで入り込んでくるように、ぞわぞわと耳元を撫でる。
思わず身震いをした。
きっと声の主にはとっくに聞こえていることを気づかれている。
だから?
だからなんだというのか。
この声の主は一体なにをしたいのだろう。
両耳に吐息が触れる感覚。
思わず体が跳ねた。
気持ち悪い。
痴漢の霊かなにかだろうか。
変質者の幽霊の話は聞いたことがあるが、こんな風に耳元に吐息が触れるほどしつこく名前を呼んでくるなにかは聞いたことがない。
ミキミキミキミキミキミキミキミキ
耳の中に息を吹きかけられたような感覚と共に、声が響く。
我慢の限界だった。
「あの、人違いです」
そう、口にした瞬間、耳元の吐息が遠ざかる。
本当に人違いなのかと確認されているような気分だ。
「私はミキではありません。さとみです」
しんと車内が静まった。
この人はどうして急に名乗りだしたのだろうと他の上客の不思議そうな視線を感じる。
恥ずかしい。
けれども、吐息の主が遠ざかるのを感じた。
そして。
ミキミキミキミキミキミキミキミキ
声が遠のいていく。
それから私と同じくらいの年齢に見える女性が、びくりと体を震わせた。
ああ、今度は彼女の方へ向かったのか。
なんとなく納得し、次のバス停で下りた。
幸い、バス停三つ分ほどの距離だったので歩いて帰宅することにした。
あれは、一体なんだったのだろう。
たぶん「ミキ」という女性を探しているのだ。
姿は見えない。声だけの存在。
ミキは見つかったらどうなってしまうのだろう。
そう考え、ドーナツの紙袋を握る。
ああ、この移動時間できっとチョコレートが溶けてしまっているな。
暑さの中、ドーナツの存在が現実に引き戻してくれたような気がした。
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