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第2話 連理の枝
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レンリは深い森の中を彷徨っていた。
一応、彼女の頭の中には異世界の知識が入っている──このカサンドラという人物が生前に経験しただけの知識が。この知識は借り物で、一種の埃くさい書庫のようなものだ。例えば異世界の何かが知りたい、と思った時。瞑想するようにその事物の事を深く考えなければならない……これが平和的な知識ならばいいものの、例えば戦闘中にこのような魔法は無いか?というような問いを浮かべたところで考えている内にパッと命を落としてしまうだろう。先程彼女はそれをやりかけたのだ。
転移魔法で移動した先は見覚えのない森の中──見渡してそこが王城の傍だと分かったが、建物と自分とは目と鼻の先。大して移動距離を稼ぐことも出来ず、悪い事は重なるもので既に他の人間達に情報が伝わっているのか……兵士に追いかけられる羽目になったのである。
呑気に「あの伝達の速さは何だ」と記憶の欠片を手繰っている最中に真っ直ぐ走れるわけもなく一度転びもした。それでも何とか……転移魔法を用いて短距離を移動し、人の気配がしないほどの距離までやってきたのである。
人間、痛い目に遭わなければ変わらない……。
カサンドラは適当に歩きながら拾った枝を組んで火を付けた。そうして草の上にどかりと腰を下ろす。つい先ほどまで自分の姿形など気にしたこともなかったが──この娘は白いドレスのようなものを着ていた。本来のカサンドラはこのように走り回ったり、地べたに腰を下ろすような娘ではなかったのであろう。自分の中にある記憶がそう叫んでいる。だがしかし今は自分の身体だ。死人は喋らない。
生前誰かがそんなことを言っていたかもしれない。カサンドラの記憶を手繰り寄せることが出来たとて、自分の本来の記憶には靄がかかったまま。
一先ず「自分の一族」というものは滅ぶだろう。然しながら家族とはいえ、それは公爵令嬢カサンドラ・リールの家族であって自分の家族ではないのだ。それは仕方のないことだ。屋敷に火でも放たれるかもしれないし、一族郎党皆殺しにされるかもしれない。そもそも赤の他人の家族を助けてやる義理も無いのだが。もし本当の家族がいたとして、自分がそれを守ってやるか?と言えば必ずしもイエスとは言えない。自分は前世から極めて利己的な人間であったようだ。──だからこそ死んだのか?
王家はさぞお怒りだろう。実家に帰るという選択肢はない。長距離の転移魔法を使えるなら……今すぐ自宅へ帰って家財を漁り、そのまま何処かへ逃げ去るという手も有るのだろうが。少なからずこのカサンドラという娘はそういった芸当を持ち合わせていないらしい。全くもって使えない。
しかし転生というものは修行の一環として行われると聞いたことが有り……だとすればこれもまた不便な場所で鍛錬せよということなのかもしれない。
「これだけのことで怒るって小さい人間だと思いませんか?器も……」
草の上で名前も知らない虫が跳ねている。火に照らされた身体は艶やかに輝いている。虫は当然人の言葉など理解しないため、カサンドラの言葉は闇の中に消えて行った。虫たちのダンス、擦れる草の音。呑気なものだ。生ぬるい風が木々を撫で、火は周囲を温かく照らし──徐々に夜が追いやられていく。
自業自得ではあるのだが、全く明日が見えてこない。
自分は……そうだ!明日からはもれなく犯罪者の身だ。恐らく。何処かで名前を聞かれたら偽名を使った方がいいだろう。明日以降はレンリと名乗ろう。そして今後はカサンドラと自分を区別するのだ。
草の中に仰向けに寝転ぶと思い出せない故郷──何処か近代的な建造物が建ち並ぶ知らない景色の夜空を思い出す。故郷では星というものを長らく見ていなかった気がするし、何よりそこまで興味を持たなかった気がする。昼間は薄く灰色がかった空で、夜は青に黒を混ぜたような紺色というほど綺麗とは呼べない色。
それがどうだろう。こちらはいくらか空気も澄んでいて星も見える。星座には詳しくないが漠然と悪くない景色だと感じる。どちらかと言えば都会よりは少し緑が残っている方がいいだろう。
しかしまあ、何にせよ。地べたに臓器の一部を置いておくのは衛生面以前に虫のエサになってしまうから持っていた方がいいのだろうか。最悪明日以降食べるものが無ければこれも非常食だ。何度か婚約者の口に突っ込んでやってはみたものの、洗えばそこは何とかなるだろう。恐らく。個人的には虫に食われる方が受け付けない。
火の始末をして眠りに落ちた後にまで握っていられる自信はないが……レンリは自らの服をごそごととまさぐるようにして手を突っ込んでみると懐から運よくハンカチを見つけた。暗闇の中ではあるが、色は恐らく白。カサンドラもこんなものを包んでおくとは一度も考えなかっただろう……しかし、今カサンドラの物は全て自分の物だ。
財産も奪わなかったのだからむしろ有難く思ってほしい──ああ、明日以降……下手をすれば今頃派手に壊されているかもしれないが、それはそれだ。直接こちらが手を下したわけではないのだから、責めるのはよしてほしい。
この手の憑依、或いは転生というものは……時に死者の声が聞こえてくるとかそういったものがある種テンプレート化している。詳細な作品までは思い出せないが、古来より死者の声を聴くという概念は存在する。もしこの場にカサンドラの魂が残っているのであれば今頃泣く叫ぶ……或いは自分を責め立てる声の一つでも聞こえてきそうなものではあるが、今のところは何もない。
結構だ。強者は群れない。そもそも自分……キャシーには行くべき場所、すべきことが視えているのだから。
先ほど虫にかけたような言葉も「内なる神」にかけた言葉であったのだ──そう、誰にも理解されなかったから、誰にも言わなかった。内なる神。前世から自分が困った時には都度神託を下し、私を評価し、受容した存在。
これを世間一般的には幻聴・幻覚。レンリが住んでいた前世の世界でもこれには恐らく病名が付いたであろう。だからといってレンリはそれを決して肯定しなかっただろうし、狂人扱いされるのが分かっているから黙っていた。誰かに話して理解出来るような御方じゃない、というのがレンリの主張である。
然しながらレンリも神の姿を見たことはないし、ただ多大なストレスを感じた時に柔らかい声が降ってきたような……曖昧な記憶しか残っていない。
それでも、それでもだ。先ほど王太子を去勢せよと言ったのは内なる存在であるし、それは正しい行いであるはずだ。
……咄嗟の転移魔法もその声のお陰である。となれば異世界まで神の手は届くのだ。
無一文、見えない明日──家を出た以上既に無いようなものではあるが、失われた財産と実家。とても良いスタートとは言い切れないが、少なくとも行くべき場所とすべきことは理解出来る。
一先ず今日はこの森の中で眠ってしまいましょう。魔物は出るかもしれないけれど、それほどの場所にこの国の人間は早々入ってこない。旅人ならもっといい隠れ場所を知っている。魔物が出たら魔法で対処するか……何なら気配を察知する魔法でもあるのか、カサンドラの知識に聞いてみましょうか?
漠然と夜空を見上げている内に欠伸が一つこぼれ出る。夜空では知らない星が煌々と地上を照らしていた。
一応、彼女の頭の中には異世界の知識が入っている──このカサンドラという人物が生前に経験しただけの知識が。この知識は借り物で、一種の埃くさい書庫のようなものだ。例えば異世界の何かが知りたい、と思った時。瞑想するようにその事物の事を深く考えなければならない……これが平和的な知識ならばいいものの、例えば戦闘中にこのような魔法は無いか?というような問いを浮かべたところで考えている内にパッと命を落としてしまうだろう。先程彼女はそれをやりかけたのだ。
転移魔法で移動した先は見覚えのない森の中──見渡してそこが王城の傍だと分かったが、建物と自分とは目と鼻の先。大して移動距離を稼ぐことも出来ず、悪い事は重なるもので既に他の人間達に情報が伝わっているのか……兵士に追いかけられる羽目になったのである。
呑気に「あの伝達の速さは何だ」と記憶の欠片を手繰っている最中に真っ直ぐ走れるわけもなく一度転びもした。それでも何とか……転移魔法を用いて短距離を移動し、人の気配がしないほどの距離までやってきたのである。
人間、痛い目に遭わなければ変わらない……。
カサンドラは適当に歩きながら拾った枝を組んで火を付けた。そうして草の上にどかりと腰を下ろす。つい先ほどまで自分の姿形など気にしたこともなかったが──この娘は白いドレスのようなものを着ていた。本来のカサンドラはこのように走り回ったり、地べたに腰を下ろすような娘ではなかったのであろう。自分の中にある記憶がそう叫んでいる。だがしかし今は自分の身体だ。死人は喋らない。
生前誰かがそんなことを言っていたかもしれない。カサンドラの記憶を手繰り寄せることが出来たとて、自分の本来の記憶には靄がかかったまま。
一先ず「自分の一族」というものは滅ぶだろう。然しながら家族とはいえ、それは公爵令嬢カサンドラ・リールの家族であって自分の家族ではないのだ。それは仕方のないことだ。屋敷に火でも放たれるかもしれないし、一族郎党皆殺しにされるかもしれない。そもそも赤の他人の家族を助けてやる義理も無いのだが。もし本当の家族がいたとして、自分がそれを守ってやるか?と言えば必ずしもイエスとは言えない。自分は前世から極めて利己的な人間であったようだ。──だからこそ死んだのか?
王家はさぞお怒りだろう。実家に帰るという選択肢はない。長距離の転移魔法を使えるなら……今すぐ自宅へ帰って家財を漁り、そのまま何処かへ逃げ去るという手も有るのだろうが。少なからずこのカサンドラという娘はそういった芸当を持ち合わせていないらしい。全くもって使えない。
しかし転生というものは修行の一環として行われると聞いたことが有り……だとすればこれもまた不便な場所で鍛錬せよということなのかもしれない。
「これだけのことで怒るって小さい人間だと思いませんか?器も……」
草の上で名前も知らない虫が跳ねている。火に照らされた身体は艶やかに輝いている。虫は当然人の言葉など理解しないため、カサンドラの言葉は闇の中に消えて行った。虫たちのダンス、擦れる草の音。呑気なものだ。生ぬるい風が木々を撫で、火は周囲を温かく照らし──徐々に夜が追いやられていく。
自業自得ではあるのだが、全く明日が見えてこない。
自分は……そうだ!明日からはもれなく犯罪者の身だ。恐らく。何処かで名前を聞かれたら偽名を使った方がいいだろう。明日以降はレンリと名乗ろう。そして今後はカサンドラと自分を区別するのだ。
草の中に仰向けに寝転ぶと思い出せない故郷──何処か近代的な建造物が建ち並ぶ知らない景色の夜空を思い出す。故郷では星というものを長らく見ていなかった気がするし、何よりそこまで興味を持たなかった気がする。昼間は薄く灰色がかった空で、夜は青に黒を混ぜたような紺色というほど綺麗とは呼べない色。
それがどうだろう。こちらはいくらか空気も澄んでいて星も見える。星座には詳しくないが漠然と悪くない景色だと感じる。どちらかと言えば都会よりは少し緑が残っている方がいいだろう。
しかしまあ、何にせよ。地べたに臓器の一部を置いておくのは衛生面以前に虫のエサになってしまうから持っていた方がいいのだろうか。最悪明日以降食べるものが無ければこれも非常食だ。何度か婚約者の口に突っ込んでやってはみたものの、洗えばそこは何とかなるだろう。恐らく。個人的には虫に食われる方が受け付けない。
火の始末をして眠りに落ちた後にまで握っていられる自信はないが……レンリは自らの服をごそごととまさぐるようにして手を突っ込んでみると懐から運よくハンカチを見つけた。暗闇の中ではあるが、色は恐らく白。カサンドラもこんなものを包んでおくとは一度も考えなかっただろう……しかし、今カサンドラの物は全て自分の物だ。
財産も奪わなかったのだからむしろ有難く思ってほしい──ああ、明日以降……下手をすれば今頃派手に壊されているかもしれないが、それはそれだ。直接こちらが手を下したわけではないのだから、責めるのはよしてほしい。
この手の憑依、或いは転生というものは……時に死者の声が聞こえてくるとかそういったものがある種テンプレート化している。詳細な作品までは思い出せないが、古来より死者の声を聴くという概念は存在する。もしこの場にカサンドラの魂が残っているのであれば今頃泣く叫ぶ……或いは自分を責め立てる声の一つでも聞こえてきそうなものではあるが、今のところは何もない。
結構だ。強者は群れない。そもそも自分……キャシーには行くべき場所、すべきことが視えているのだから。
先ほど虫にかけたような言葉も「内なる神」にかけた言葉であったのだ──そう、誰にも理解されなかったから、誰にも言わなかった。内なる神。前世から自分が困った時には都度神託を下し、私を評価し、受容した存在。
これを世間一般的には幻聴・幻覚。レンリが住んでいた前世の世界でもこれには恐らく病名が付いたであろう。だからといってレンリはそれを決して肯定しなかっただろうし、狂人扱いされるのが分かっているから黙っていた。誰かに話して理解出来るような御方じゃない、というのがレンリの主張である。
然しながらレンリも神の姿を見たことはないし、ただ多大なストレスを感じた時に柔らかい声が降ってきたような……曖昧な記憶しか残っていない。
それでも、それでもだ。先ほど王太子を去勢せよと言ったのは内なる存在であるし、それは正しい行いであるはずだ。
……咄嗟の転移魔法もその声のお陰である。となれば異世界まで神の手は届くのだ。
無一文、見えない明日──家を出た以上既に無いようなものではあるが、失われた財産と実家。とても良いスタートとは言い切れないが、少なくとも行くべき場所とすべきことは理解出来る。
一先ず今日はこの森の中で眠ってしまいましょう。魔物は出るかもしれないけれど、それほどの場所にこの国の人間は早々入ってこない。旅人ならもっといい隠れ場所を知っている。魔物が出たら魔法で対処するか……何なら気配を察知する魔法でもあるのか、カサンドラの知識に聞いてみましょうか?
漠然と夜空を見上げている内に欠伸が一つこぼれ出る。夜空では知らない星が煌々と地上を照らしていた。
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