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第9話
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洗いたての衣服を身に着ける気持ちよさに、ルーポはうっとりする。
風呂から上がると用意されている衣服に袖を通すためらいも減ってしまうほど、この心地よさはたまらなかった。
浴室から出ると、アルベルトが二人を待っていた。
「どうぞ、こちらへ」
恭しく礼をすると二人の前に立ち案内をし始めた。
カヤとルーポはアルベルトについていくと、朝、ルーポが食事マナーのレッスンをした大食堂へ到着した。
「ルーポ、レッスンの続きですよ」
硬いアルベルトの声に、ルーポは緊張で身体をこわばらせた。
そして大食堂に来る間、自分の姿勢が、視線がどうだったか、気を配ることを忘れていたことに気づいた。
「夜もするのか?」
カヤが尋ねると「もちろんでございます」とアルベルトが静かに言った。
「せっかくですから、坊ちゃまにはこの館の主の役をしていただきましょう」
「まだそんなことを言っているのか」
「受勲式後の会食は一人で食べるのではないのですよ。
時間がありません。
坊ちゃまもお付き合いください」
「やれやれ」
カヤは面倒くさそうに言った。
ルーポはカヤに対して申し訳なさでいっぱいだった。
しかしすぐに、アルベルトの声が飛んできた。
「ルーポ、今朝のことを全部忘れてしまったのですか。
姿勢は?
手先は?
視線は?」
「は、はいっ」
「堂々としなさい」
「はいっ」
ルーポが朝のことを思い出し背筋を伸ばすと、アルベルトがじろじろと確認した。
視線が止まるたび、ルーポは少しずつ姿勢を正したり、口元を引き締めたり、アルベルトから注意されたことを思い出してやってみた。
ようやくアルベルトがうなずき、「ルーポ様、こちらでございます」と大食堂の扉を開け、席まで案内した。
午前中には皿やカトラリーは一人分しかセットされていなかったが、今は長いテーブルの一番奥にも皿が並んでいた。
自分の席はそこから遠いものだったが、ルーポは嬉しくなった。
そして室内をきょろきょろと見ることもなく、教わったことを思い出しながら静かに席についた。
アルベルトが姿を消し、次はカヤを先導してやってきた。
カヤはいやいやながらも、主の風格を漂わせながら現れた。
それはとてもカヤに似合っていた。
カヤ様はここにいらっしゃればいいのに。
「ルーポ」
座ったまま、ぼんやりとカヤを見つめるルーポにアルベルトが声をかけた。
そうだ!
慌てて、ルーポは椅子から飛び降りた。
「もう一度」
「はい」
食事のとき、招待客は座ってその場の主を待つが、主が椅子の前に立つと自分も立ち上がり、主が座るのを合図に自分もまた着席するのだと聞いていたのをすっかり忘れていた。
アルベルトはカヤを連れて少し戻り、そしてカヤを主の席に案内した。
椅子の前にカヤが立った。
今度はタイミングを損なわずにルーポは立った。
しかし派手な椅子を引く音がしてしまう。
「もう一度」
「はい」
ルーポは再び椅子に座り、注意深く音がしないように立ち上がった。
カヤはいもしない長テーブルの客人の様子を見回し、軽くうなずくと着席した。
ルーポも音を立てずに椅子に座った。
「まぁ、よろしいでしょう」
アルベルトは不満そうだが、そう言い、次に移ろうとした。
「アルベルト」
「はい?」
カヤはまるでこの館の主のように言った。
「客人と離れすぎている。
私の席のそばに案内してくれ」
「しかし、会食では王のそばでお食事をされるとは思いませんが」
「今は私の客人だ。
これでは話もできない。
まさか、会話もなしの食事を私たちにしろと言うのか?」
カヤは続ける。
「私の手さばきがよく見えるのも、ルーポにはいいのではないか?」
カヤが黒曜石の瞳でアルベルトをじろりと見た。
アルベルトはしばし考え、「かしこまりました」と言い、給仕をする使用人に合図をすると新しい皿やカトラリーをカヤの席のそばにセットさせた。
そして「ルーポ様、お待たせいたしました」と言いながらアルベルトはルーポのそばに行くと、新しい席に案内した。
ルーポが席に着くとカヤはにっこりと笑った。
ルーポも嬉しくなって、にっこりと笑った。
と、アルベルトの咳払いがした。
「始めてくれ」
カヤが言うと、アルベルトは一礼して給仕係に合図した。
そこから、ルーポは大変だった。
昼間の食事が簡易のものであるとよくわかった。
量も内容もルーポの食欲と胃腸の調子に合わせたものだったが、比較にならないほどルーポは食べるのに苦戦した。
昼の食事は随分食べやすく調理され盛り付けてあったのだ。
サラダのトマトは皿から飛び出す。
スープのスプーンは落とす。
魚の骨は外れない。
肉はうまく切れない。
カヤが見ている前で散々だった。
落ち着け。
落ち着け。
落ち着け。
言い聞かせれば言い聞かせるだけ焦りが募り、ルーポの食事は散々な結果になる。
カヤははらはらしながら、ルーポに合わせてゆっくりすぎるほど時間をかけながら食事をしていた。
アルベルトが左の眉をくいっと高く上げ、言った。
「坊ちゃま、お近くに座らせれば坊ちゃまの手さばきをルーポが見られるとおっしゃっていましたが、坊ちゃまもこんなにゆっくりではルーポのためになりません」
「だが」
「坊ちゃまは会食のときにルーポがこんなに時間をかけて食事をすることになってもいい、とおっしゃるのですか」
「いや」
「では、ルーポのためにどれくらいの速さで食べるのがいいか、お見せください。
わたくしがお教えしたこと、お忘れになったわけではないでしょう?」
カヤは無言でぎらりとアルベルトを睨むが、アルベルトは涼しい顔をしている。
「ルーポ、坊ちゃまの食べる様子をよく見なさい」
泣きだしそうになるのを唇を噛んで堪えたルーポが見たのは、優雅な手つきでカトラリーを操り、美しい仕草で小気味よく食事を進めていくカヤの姿だった。
いつもがさつで粗野な雰囲気のあるカヤだったが、この屋敷で、このアルベルトに育てられた人間だということを思い知らされた。
『坊ちゃま』
アルベルトのカヤの呼び方がルーポの中で響く。
そうか、カヤ様は本当に「お坊ちゃま」なんだ。
僕とは全然違う。
大雑把なふりをして、この人はお坊ちゃまなんだ。
どうして僕なんだ?
なんで僕が受勲される?
僕はそんなものはいらない。
ただ、衣食住がもうちょっとマシになって、痛みを和らげる方法が見つけたいだけ。
さっさと食事を済ませたカヤは添えられていた布で口を拭うと、それをテーブルに叩きつけ、立ち上がった。
「ルーポっ」
卑屈になっていたルーポは返事ができずに、大声で自分を呼んだカヤを見た。
「マナーも大切かもしれねぇがな、食事は楽しくするもんだ。
俺はこれまでのおまえのように『おいしい、おいしい』と食べている姿のほうが好きだ。
戦場でさえ、俺たちは状況が許せばできるだけ笑いながら飯を食っていた。
もっとうまそうに食え。
俺はヤピリで教わった。
食事をする前に感謝の祈りを捧げるんだ。
食材となったもの、それらを運び売る者、調理する者、ありとあらゆるものに感謝し、それを食べる。
ここは戦場じゃねぇ。
温かいものは温かく、うまいものをうまいと思いながら、楽しく食え。
おまえにはその心がある」
そう言い放つと、足音も荒く、カヤは大食堂から出ていった。
アルベルトは一礼をし、それを見送った。
ルーポは一瞬、呆気に取られたが溜めていた涙がぽろりとこぼれた。
「さ、ルーポ。
食事を終わらせましょう。
調理人が次の皿をいつ出せばいいか、困っています」
「……はい」
ルーポは本来ならば口や指を拭う布で涙を拭った。
そしてさきほどカヤがどうやって食べていたのか、思い出した。
あの優雅な手つきはできないとしても、今、食事をしているのだ、と自分に言い聞かせた。
昼も自分が何を食べたのか、わからなかった。
すっかり冷え切ってしまった肉を切り、口に運ぶ。
しっかりと噛みしめる。
熱を持っていたときには気づかなかった野性の匂いがした。
その奥にじわりと旨味が広がる。
塩やスパイスを潤沢に使い、ルーポのために柔らかくする下ごしらえがしてあることに気づく。
「うーっっっ」
ルーポの両目から涙が流れた。
ありとあらゆるものに感謝する。
カヤの言葉が頭の中で響き渡る。
そして今日昨日から今日にかけて、自分がどれほどの人に感謝を述べられたのか思い出した。
ルーポの調合した薬とリハビリの方法に救われた、と何人もの人に言われたではないか。
受勲は自分の名誉ではなく、これから先、もっと痛みが取り除けるように、もっとたくさんの人に行き渡るように、研究を進めるためだと感じていたのではないか。
鼻の奥がツンと痛んだ。
「お、おいしいです……っ」
ルーポは叫ぶように言っていた。
はぁーっ、と大きな溜息が隣から聞こえた。
それでもルーポは泣きながら言った。
「おいしいです。
ありがとうございます。
ありがとうございます」
ルーポは次の一切れも口にし、「おいしいです。ありがとうございます」と言った。
アルベルトが静かに言った。
「温かい料理は温かいうちに食べられるようになりましょうね」
「……は…い……。
おいしいです……ありがとうござい…ます…。
つ、次からは…もっと早く……食べます……」
ルーポは教わったマナーを思い出しながら、懸命に食べた。
アルベルトも柔らかく、どんなふうにフォークを料理に突き刺せばいいのか、角度についても細かく説明した。
ルーポはそれを理解した。
アルベルトはこれまでの自分の方法はどうだったのか、省みた。
そうやってカヤとその弟にマナーを教え込んだが、「楽しむ食事」については教えなかった。
それが貴族の子息に対して教える当然のことであった。
話術はまた、違う手管だった。
酒や食事で相手を懐柔させ、ある時は会話で楽しませ、ある時は交渉をより穏便にかつ有利に持っていくためのもの。
「甘くて…おいしいです……。
ア、アルベルトさんも……いつかご一緒に食べられたら、う、嬉しいです……」
まだ泣き止まないルーポは最後の皿の小さな焼き菓子を食べながら言った。
長いこと、楽しみながら食事をすることがアルベルトにはなかった。
自分の仕事上、難しいことだった。
しかし、泣いているルーポを見ているとつい「そうですね」と答えてしまった。
そして自分に意見してくるカヤの成長を感じた。
この家を命がけで飛び出してしまった、自分が育てた小さな男の子にちらりと思いを馳せた。
涙と鼻水でぐじゅぐじゅになった顔のまま、ルーポはアルベルトの案内で大食堂を出た。
そしてルーポが使っている客室に着くと、アルベルトも一緒に中に入った。
手にしたオイルランプをテーブルの上に置き、アルベルトが声をかけた。
「ルーポ」
「はい」
多少は落ち着きを取り戻したルーポが返事をする。
「これを」
アルベルトが手のひらに載せていたのは、夕方、カヤから預かった金貨だった。
ランプの炎に照らされて、深く光る。
「あ、そ、それは……」
どう説明しようかとルーポが焦ると「カヤ様ですね」とアルベルトが言ったので、ルーポはうなずいた。
「そ、そんな大金、僕には不相応というか、お、お返ししたいのですが受け取ってもらえず、それで、その……」
「いいのですよ。
持っておきなさい。
カヤ様にしてはなかなかまっとうなことをしている。
ただし」
アルベルトはぎらりとルーポを見た。
「脱衣所で脱いだズボンのポケットに入れっぱなしにしておくのは、いけませんね」
あっ!とルーポは思った。
アルベルトにうながされるまま、服を脱ぎ風呂に入ってしまった。
「うちの屋敷の人間は大丈夫だとは思いたいですが、これに目がくらんでしまっても仕方ないことですよ。
もっと、気をつけなさい」
「はい、申し訳ありませんでした」
「これをお使いなさい」
アルベルトは小さな皮の袋を取り出した。
口には紐がついていて、それを引っ張るときゅっと硬く口が閉じた。
「これにお金を入れて、服の内側に入れて持ち歩きます。
下着のここに紐があったでしょう」
アルベルトが自分のズボンの上から、ウェストあたりを指さした。
ルーポがうなずくと、「そこにこの紐をくくりつけるんです」と言った。
やっと下着の紐の用途がわかり、ルーポは目を輝かせて大きくうなずいた。
「ここで入浴する前には私がお預かりいたしましょう。
信用していただけますか」
「はい、もちろんです」
「では、わたくしはこれで。
今日はお疲れになっているはずですよ。
いい夢を」
「おやすみなさい、アルベルトさん」
アルベルトがランプを持って部屋から出ると、ルーポは窓から入る静かな月明かりを頼りに先ほどの小さな皮袋に金貨を入れ、枕の下に突っ込むと頭を載せた。
するとすぐに眠りについてしまった。
そしてそのまま夢も見ず、次の朝までぐっすりと寝続けた。
***
「このまま、この展開でいいのか?」と不安がるキリエの心のつぶやきを書いたブログ
シンデレラ・ストーリーとは?/「空と傷」へのとまどい
https://etocoria.blogspot.jp/2018/05/sorakizu.html
風呂から上がると用意されている衣服に袖を通すためらいも減ってしまうほど、この心地よさはたまらなかった。
浴室から出ると、アルベルトが二人を待っていた。
「どうぞ、こちらへ」
恭しく礼をすると二人の前に立ち案内をし始めた。
カヤとルーポはアルベルトについていくと、朝、ルーポが食事マナーのレッスンをした大食堂へ到着した。
「ルーポ、レッスンの続きですよ」
硬いアルベルトの声に、ルーポは緊張で身体をこわばらせた。
そして大食堂に来る間、自分の姿勢が、視線がどうだったか、気を配ることを忘れていたことに気づいた。
「夜もするのか?」
カヤが尋ねると「もちろんでございます」とアルベルトが静かに言った。
「せっかくですから、坊ちゃまにはこの館の主の役をしていただきましょう」
「まだそんなことを言っているのか」
「受勲式後の会食は一人で食べるのではないのですよ。
時間がありません。
坊ちゃまもお付き合いください」
「やれやれ」
カヤは面倒くさそうに言った。
ルーポはカヤに対して申し訳なさでいっぱいだった。
しかしすぐに、アルベルトの声が飛んできた。
「ルーポ、今朝のことを全部忘れてしまったのですか。
姿勢は?
手先は?
視線は?」
「は、はいっ」
「堂々としなさい」
「はいっ」
ルーポが朝のことを思い出し背筋を伸ばすと、アルベルトがじろじろと確認した。
視線が止まるたび、ルーポは少しずつ姿勢を正したり、口元を引き締めたり、アルベルトから注意されたことを思い出してやってみた。
ようやくアルベルトがうなずき、「ルーポ様、こちらでございます」と大食堂の扉を開け、席まで案内した。
午前中には皿やカトラリーは一人分しかセットされていなかったが、今は長いテーブルの一番奥にも皿が並んでいた。
自分の席はそこから遠いものだったが、ルーポは嬉しくなった。
そして室内をきょろきょろと見ることもなく、教わったことを思い出しながら静かに席についた。
アルベルトが姿を消し、次はカヤを先導してやってきた。
カヤはいやいやながらも、主の風格を漂わせながら現れた。
それはとてもカヤに似合っていた。
カヤ様はここにいらっしゃればいいのに。
「ルーポ」
座ったまま、ぼんやりとカヤを見つめるルーポにアルベルトが声をかけた。
そうだ!
慌てて、ルーポは椅子から飛び降りた。
「もう一度」
「はい」
食事のとき、招待客は座ってその場の主を待つが、主が椅子の前に立つと自分も立ち上がり、主が座るのを合図に自分もまた着席するのだと聞いていたのをすっかり忘れていた。
アルベルトはカヤを連れて少し戻り、そしてカヤを主の席に案内した。
椅子の前にカヤが立った。
今度はタイミングを損なわずにルーポは立った。
しかし派手な椅子を引く音がしてしまう。
「もう一度」
「はい」
ルーポは再び椅子に座り、注意深く音がしないように立ち上がった。
カヤはいもしない長テーブルの客人の様子を見回し、軽くうなずくと着席した。
ルーポも音を立てずに椅子に座った。
「まぁ、よろしいでしょう」
アルベルトは不満そうだが、そう言い、次に移ろうとした。
「アルベルト」
「はい?」
カヤはまるでこの館の主のように言った。
「客人と離れすぎている。
私の席のそばに案内してくれ」
「しかし、会食では王のそばでお食事をされるとは思いませんが」
「今は私の客人だ。
これでは話もできない。
まさか、会話もなしの食事を私たちにしろと言うのか?」
カヤは続ける。
「私の手さばきがよく見えるのも、ルーポにはいいのではないか?」
カヤが黒曜石の瞳でアルベルトをじろりと見た。
アルベルトはしばし考え、「かしこまりました」と言い、給仕をする使用人に合図をすると新しい皿やカトラリーをカヤの席のそばにセットさせた。
そして「ルーポ様、お待たせいたしました」と言いながらアルベルトはルーポのそばに行くと、新しい席に案内した。
ルーポが席に着くとカヤはにっこりと笑った。
ルーポも嬉しくなって、にっこりと笑った。
と、アルベルトの咳払いがした。
「始めてくれ」
カヤが言うと、アルベルトは一礼して給仕係に合図した。
そこから、ルーポは大変だった。
昼間の食事が簡易のものであるとよくわかった。
量も内容もルーポの食欲と胃腸の調子に合わせたものだったが、比較にならないほどルーポは食べるのに苦戦した。
昼の食事は随分食べやすく調理され盛り付けてあったのだ。
サラダのトマトは皿から飛び出す。
スープのスプーンは落とす。
魚の骨は外れない。
肉はうまく切れない。
カヤが見ている前で散々だった。
落ち着け。
落ち着け。
落ち着け。
言い聞かせれば言い聞かせるだけ焦りが募り、ルーポの食事は散々な結果になる。
カヤははらはらしながら、ルーポに合わせてゆっくりすぎるほど時間をかけながら食事をしていた。
アルベルトが左の眉をくいっと高く上げ、言った。
「坊ちゃま、お近くに座らせれば坊ちゃまの手さばきをルーポが見られるとおっしゃっていましたが、坊ちゃまもこんなにゆっくりではルーポのためになりません」
「だが」
「坊ちゃまは会食のときにルーポがこんなに時間をかけて食事をすることになってもいい、とおっしゃるのですか」
「いや」
「では、ルーポのためにどれくらいの速さで食べるのがいいか、お見せください。
わたくしがお教えしたこと、お忘れになったわけではないでしょう?」
カヤは無言でぎらりとアルベルトを睨むが、アルベルトは涼しい顔をしている。
「ルーポ、坊ちゃまの食べる様子をよく見なさい」
泣きだしそうになるのを唇を噛んで堪えたルーポが見たのは、優雅な手つきでカトラリーを操り、美しい仕草で小気味よく食事を進めていくカヤの姿だった。
いつもがさつで粗野な雰囲気のあるカヤだったが、この屋敷で、このアルベルトに育てられた人間だということを思い知らされた。
『坊ちゃま』
アルベルトのカヤの呼び方がルーポの中で響く。
そうか、カヤ様は本当に「お坊ちゃま」なんだ。
僕とは全然違う。
大雑把なふりをして、この人はお坊ちゃまなんだ。
どうして僕なんだ?
なんで僕が受勲される?
僕はそんなものはいらない。
ただ、衣食住がもうちょっとマシになって、痛みを和らげる方法が見つけたいだけ。
さっさと食事を済ませたカヤは添えられていた布で口を拭うと、それをテーブルに叩きつけ、立ち上がった。
「ルーポっ」
卑屈になっていたルーポは返事ができずに、大声で自分を呼んだカヤを見た。
「マナーも大切かもしれねぇがな、食事は楽しくするもんだ。
俺はこれまでのおまえのように『おいしい、おいしい』と食べている姿のほうが好きだ。
戦場でさえ、俺たちは状況が許せばできるだけ笑いながら飯を食っていた。
もっとうまそうに食え。
俺はヤピリで教わった。
食事をする前に感謝の祈りを捧げるんだ。
食材となったもの、それらを運び売る者、調理する者、ありとあらゆるものに感謝し、それを食べる。
ここは戦場じゃねぇ。
温かいものは温かく、うまいものをうまいと思いながら、楽しく食え。
おまえにはその心がある」
そう言い放つと、足音も荒く、カヤは大食堂から出ていった。
アルベルトは一礼をし、それを見送った。
ルーポは一瞬、呆気に取られたが溜めていた涙がぽろりとこぼれた。
「さ、ルーポ。
食事を終わらせましょう。
調理人が次の皿をいつ出せばいいか、困っています」
「……はい」
ルーポは本来ならば口や指を拭う布で涙を拭った。
そしてさきほどカヤがどうやって食べていたのか、思い出した。
あの優雅な手つきはできないとしても、今、食事をしているのだ、と自分に言い聞かせた。
昼も自分が何を食べたのか、わからなかった。
すっかり冷え切ってしまった肉を切り、口に運ぶ。
しっかりと噛みしめる。
熱を持っていたときには気づかなかった野性の匂いがした。
その奥にじわりと旨味が広がる。
塩やスパイスを潤沢に使い、ルーポのために柔らかくする下ごしらえがしてあることに気づく。
「うーっっっ」
ルーポの両目から涙が流れた。
ありとあらゆるものに感謝する。
カヤの言葉が頭の中で響き渡る。
そして今日昨日から今日にかけて、自分がどれほどの人に感謝を述べられたのか思い出した。
ルーポの調合した薬とリハビリの方法に救われた、と何人もの人に言われたではないか。
受勲は自分の名誉ではなく、これから先、もっと痛みが取り除けるように、もっとたくさんの人に行き渡るように、研究を進めるためだと感じていたのではないか。
鼻の奥がツンと痛んだ。
「お、おいしいです……っ」
ルーポは叫ぶように言っていた。
はぁーっ、と大きな溜息が隣から聞こえた。
それでもルーポは泣きながら言った。
「おいしいです。
ありがとうございます。
ありがとうございます」
ルーポは次の一切れも口にし、「おいしいです。ありがとうございます」と言った。
アルベルトが静かに言った。
「温かい料理は温かいうちに食べられるようになりましょうね」
「……は…い……。
おいしいです……ありがとうござい…ます…。
つ、次からは…もっと早く……食べます……」
ルーポは教わったマナーを思い出しながら、懸命に食べた。
アルベルトも柔らかく、どんなふうにフォークを料理に突き刺せばいいのか、角度についても細かく説明した。
ルーポはそれを理解した。
アルベルトはこれまでの自分の方法はどうだったのか、省みた。
そうやってカヤとその弟にマナーを教え込んだが、「楽しむ食事」については教えなかった。
それが貴族の子息に対して教える当然のことであった。
話術はまた、違う手管だった。
酒や食事で相手を懐柔させ、ある時は会話で楽しませ、ある時は交渉をより穏便にかつ有利に持っていくためのもの。
「甘くて…おいしいです……。
ア、アルベルトさんも……いつかご一緒に食べられたら、う、嬉しいです……」
まだ泣き止まないルーポは最後の皿の小さな焼き菓子を食べながら言った。
長いこと、楽しみながら食事をすることがアルベルトにはなかった。
自分の仕事上、難しいことだった。
しかし、泣いているルーポを見ているとつい「そうですね」と答えてしまった。
そして自分に意見してくるカヤの成長を感じた。
この家を命がけで飛び出してしまった、自分が育てた小さな男の子にちらりと思いを馳せた。
涙と鼻水でぐじゅぐじゅになった顔のまま、ルーポはアルベルトの案内で大食堂を出た。
そしてルーポが使っている客室に着くと、アルベルトも一緒に中に入った。
手にしたオイルランプをテーブルの上に置き、アルベルトが声をかけた。
「ルーポ」
「はい」
多少は落ち着きを取り戻したルーポが返事をする。
「これを」
アルベルトが手のひらに載せていたのは、夕方、カヤから預かった金貨だった。
ランプの炎に照らされて、深く光る。
「あ、そ、それは……」
どう説明しようかとルーポが焦ると「カヤ様ですね」とアルベルトが言ったので、ルーポはうなずいた。
「そ、そんな大金、僕には不相応というか、お、お返ししたいのですが受け取ってもらえず、それで、その……」
「いいのですよ。
持っておきなさい。
カヤ様にしてはなかなかまっとうなことをしている。
ただし」
アルベルトはぎらりとルーポを見た。
「脱衣所で脱いだズボンのポケットに入れっぱなしにしておくのは、いけませんね」
あっ!とルーポは思った。
アルベルトにうながされるまま、服を脱ぎ風呂に入ってしまった。
「うちの屋敷の人間は大丈夫だとは思いたいですが、これに目がくらんでしまっても仕方ないことですよ。
もっと、気をつけなさい」
「はい、申し訳ありませんでした」
「これをお使いなさい」
アルベルトは小さな皮の袋を取り出した。
口には紐がついていて、それを引っ張るときゅっと硬く口が閉じた。
「これにお金を入れて、服の内側に入れて持ち歩きます。
下着のここに紐があったでしょう」
アルベルトが自分のズボンの上から、ウェストあたりを指さした。
ルーポがうなずくと、「そこにこの紐をくくりつけるんです」と言った。
やっと下着の紐の用途がわかり、ルーポは目を輝かせて大きくうなずいた。
「ここで入浴する前には私がお預かりいたしましょう。
信用していただけますか」
「はい、もちろんです」
「では、わたくしはこれで。
今日はお疲れになっているはずですよ。
いい夢を」
「おやすみなさい、アルベルトさん」
アルベルトがランプを持って部屋から出ると、ルーポは窓から入る静かな月明かりを頼りに先ほどの小さな皮袋に金貨を入れ、枕の下に突っ込むと頭を載せた。
するとすぐに眠りについてしまった。
そしてそのまま夢も見ず、次の朝までぐっすりと寝続けた。
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