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銀狐の章

第068話「親と子と ③」

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「さあ少年、こちら側へ渡ってくるのだ!」

 オレの言葉にのぼる君は静かに頷いた。

「小童、頑張るのじゃ」

「いざとなったらニャン隊員が守ってやるのニャ」

 両脇には神狐と神猫。
 二人共のぼる君の手を握ってはいない。あくまでも自主的に信号を渡らなければ意味がない。
 のぼる君は信号が青になるとすぐに一歩踏み出そうとした。
 だがすぐに伸ばしかけた足を引っ込めてしまう。
 オレは何も言わない。
 ただ待つ。ひたすらに待つ。
 無理強いさせてもダメなものはダメだ。
 根気強く。いつまでも。
 相手がその気になり、自らの力で、一歩踏み出すまで――待つ。
 のぼる君は横断歩道に何度も挑戦し、その度に悔しそうに足を止めた。
 日が沈む。あと少しで黄昏時ではなくなる。
  その時だった――

「のぼるちゃん……」

 女性の声が聞こえた。
 驚いて隣を見る。
 そこに30代くらいの女性がいた。

 ――いつの間に?

 突然にして現れたかのような錯覚すら抱いてしまいそうな現れ方だった。
 彼女は横断歩道に立ち真剣な瞳でのぼる君を見つめている。

 ――この人は、母親かもしれない。

 不思議なことだが、自然とそう思えた。

「のぼるちゃん!」

 女性の声に気づいたからだろうか、のぼる君が一歩踏み出した。
 一歩、一歩、ゆっくりと確実に――
 しっかりと前を見据えがちがちになりながら足を進める。

 ――がんばれ、がんばれ!

「……頑張れ!」

 思わず声が出た。駄目だ。見守ると決めていたはずなのに――応援してしまった。
 いや、これはオレのわがままだ。
 わがままで何が悪い。
 愚直なことを応援しないオレは――ただのバカだ。

「頑張れ!のぼる!」

「頑張るのじゃ、母君も待っておるぞ!」

「そうなのニャ!お主の為にわざわざ来てくれたのニャ!」

 不思議な言い方をする奴だ。
 母親は心配になって来たのだろう「わざわざ」なんて言わなくてもいい。

 ――シェンはどうしてこの女性を「母親」だと断定できたんだ?
 
 ふとした違和感。通りすがりの人がたまたまいただけかもしれない。知り合いに女性だったり友達のお母さんだったり……

 ――いや違う。

 シェンは知っているんだ。そしてニャンもこの女性を知っている――いや、のぼる君がどういう存在かを――解っている。
 シェンは「視えるのか?」と聞いてきた。
 黄昏時に出会った少年。

 ――ああ、そういうことか……

 すんなりと、その事実が胸の中に入ってきた。

「がんばれ!のぼる!」

 ――だからどうした?

 のぼる君が頑張ることと、オレの応援。何一つ無駄な物なんてない。
 後には何も残らないかもしれない。
 そんなこと知ったことか!
 オレはオレの信じる道を進むだけだ。
 他の誰がなんと思おうともそれは変わらない。
 のぼる君にも信じる道を進んで欲しい。

 のぼる君が近づいてきた。

 あと一歩。

 それがゴール。のぼる君の目標。

 そして――恐らくはこの少年が達成することができなかった事――
 のぼる君が横断歩道を渡り切った。
 
「のぼるちゃん!」

「ママ!」

 女性がのぼる君を抱きしめる。しっかりと抱きしめる。

「お兄ちゃん、ボクできたよ!」

 のぼる君の目がまっすぐにオレを見つめる。

「ああ、そうだな。えらいぞ!」

 オレの言葉にのぼる君は嬉しそうに笑った。

「ありがとうございます」

 女性の声が――消え入りそうなか細い声が響いた。
 二人の姿が光に包まれだした。

「……達者でな」

 シェンの手が優しくのぼる君の頭を撫でた。

「母っちと仲良くするのニャ」

 ニャンはしゃがみ込みのぼる君の肩を抱いた。

「お姉ちゃん達、ありがとう!」

「………………」

 こんな時になって言葉が出てこなかった。のどに何かが詰まったように何も言うことができなかった。
 涙が頬をぬらす。
 のぼる君が手を伸ばした。
 小さな手だ。
 未来をつかみ取れるはずだった小さな手。
 未来を失った手。
 過去に失われた手。
 それを掴もうとした手が――空を掻いた。

 ありがとう。

 小さなつぶやきが耳に残った。

 日が沈んだ。
 黄昏時が終わったのだ。
 そこには誰もなかった。
 子供もその母親も――誰もいない。何もない。
 まるで幻を見ていたような――

「お主様……」

 シェンが手をつないできた。
 ニャンもオレと手をつなぐ。
 二人がオレの手を強く握ってくれた。

「なぁ……あの二人は……」

「お主様のおかげで、あの親子は再び会うことができたのじゃ」

「まさかモチにゃんに視えるとは思っていなかったのニャ」

 そうだ。本来視えないモノ。それをオレは「視る」ことができた。

「我様と共にあるのじゃ、自然と霊格が上がっておるのかもしれぬな」

 この自称【神】と一緒にいることでオレにも何かしらの影響が出ているということなのだろうか。
 そのことによって出会ってしまった。いや、出会うことができた。
 オレにとっての黄昏時の出会い。

「これから二人は……」

 言いかけてやめた。

「………………」

 シェンは何も言わなかった。
 もしかしたら、聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。

「シェン……」

「魂は……廻るモノじゃ」

 輪廻転生。千年前の魂がオレに宿っているというのなら、二人の魂もきっとどこかで巡り合うことができるだろう。

 ――できることなら、二人の魂が再び出会えますように……

 それはオレの小さな願い。
 心に秘めた願いだった。
 
「……行くか……」

 オレの言葉に二人は小さく頷く。

 信号機の根元に置かれた空の瓶が信号の赤い光にひっそりと照らされていた。
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