6 / 9
⑥朝日
しおりを挟む
悪い夢とは、もう言えなかった。
今までめいっぱい、心の中で否定して来た感情や想いが
初めて堰を切った瞬間だ。
思い返そうにも、上手く記憶を引っ張り出せない。
まだ夢の中に居るみたいで現実味が無い。
朝から家に通ってくれる響翠とは、目を合わせる事すら
気恥ずかしくて、また以前の状態に近づくのかと危惧した。
今朝は、響翠が事務所で既に私の分との朝食をバスケットカゴに入れて
来てくれた。
「その、恰好では…汚れないか?」
普段通りの制服で、響翠は
『今日は、森に行くんですよね。』
不思議そうに私を見て首を傾げる。
「家の中なら、差し支えないが…せめて足元がな。」
『ごめんなさい、保護された時に靴も無くなっていたみたいで。』
「私のでは、その足には大きい。ブーツくらい、持っておいた方がいいだろう。
これからは季節が深まれば雪も降る。」
『暮らしていくって、物入りですね。』
「今は、少し買いそろえる事が多くて大変だろうが…心配するな。」
いちいち、謝って来る律義さが心を少しずつ重くしていく。
響翠が謝るべき所が、1つもないのを私もよく理解している。
と同時に、いたたまれなくもなって行く。
『まだ、1月も働いてはいないですし。言うのも憚られますが…余分には持っていないので。』
「まぁ、そうだろうとは思う。事務所には私の方から、支度金として早めに送金してもらう様に
手配しておく。」
『急に、派遣されたので確かに何の準備もできてはいませんでした。』
「今日行く所は、まだ歩きやすいから心配はいらない。」
『伯明先生の、所有地なんですか?』
「あぁ、先祖から…私はその事を響には話していないはずだが。」
なぜ知っているのか。
『子供の頃に、遊びに行った事があったから。』
恐らくは、記憶の混在が原因なのだろう。
確かに、昔は何も気にせずによく遊んではいたのだ。
家柄も、地位も関係なく両家が仲の良かった頃。
「林道に差しかかればすぐに着く。今日はそう遠い所では無いから。それでも、
途中、しんどくなったら休む予定にはしている。だから、遠慮なく言うと良い。」
通年であれば渓流などに釣りにも出かける所だ。
だが、今の響翠を連れては難しい。
今まで、いかに1人気ままに暮らしていたのかを思い知らされる。
街道を歩きつつ、
「朝食まで用意して来たのか?…かえって悪い事をしたな。」
『…お料理って、回数を重ねて慣れて来ても失敗する時があって。楽しいですよ。』
「この坂道を登り切った先に、見晴らしのいい小高い丘がある。そこで朝食にしても良いか?」
『はい、お外で食事も良いですね。』
そういえば、ウチのウッドデッキを使って、椅子などを用意すれば
庭先で食事くらいは可能になる。
それとなく、準備を進めておこう。
芝生が広がり、ベンチがいくつか並んでいる。
響翠が腰を下ろす前に、ハンカチを広げてから促す。
「本来の使い方だな。」
『フフッ、優しいですね。有難うございます。』
遠慮がちに腰を据わると、きちんと閉じられた脚に思わず視線が向かう。
自我の性別は確かに男性である事に、変わりは無いのだろうが
やはり元々の育ちの良さのせいか、行儀も良いのは相変わらずだ。
2人の間に置かれるバスケットは、案外大きさがあって
一体どのくらい準備をしたのだろうと思いを巡らせる。
『実は、昨日あんまり眠れなくて…。早朝から事務所のキッチンで
色々と作ってみたんです。伯明先生のお口に合えば良いんですが…』
思い悩ませてしまったのだろうか。
いや、当たり前か。
いくら記憶が無いと言えども、やっぱり行為自体の意味も理解しているだろう。
「最近は味の加減も程よくて、味見もする様になったんだろう?」
『時間に余裕があると、お料理はおいしく作れるって言いますね。はい、味見もしてます。』
バスケットから響翠が取り出したサンドイッチのボックスが2つ。
「…丁寧に作ってくれたのが、よく分かる。」
『嫌いじゃないんです。例えば包み紙の1つにしても。選んだりしていると。』
「手先も、器用なはずだ。」
『この頃、編み物を始めたんです。事務所に帰ってから編む事になるので。あんまり進みはしてないですけど。』
「為になるんだろう?ウチでの空いた時間にも編めば良い。」
『でも、お仕事中ですし…』
「遊びで編んでいるんじゃないんだろう?響の事だから。」
『もちろん、ゆくゆくは…ベッドカバーも編みたいです。…それに、綺麗に編める様になったら
伯明先生のベストとかも』
私は、つい横目で響翠を見てしまったけれど。
この熱意や、真っすぐすぎる思いに今まで直視できずに居た事を思い出していた。
思わず、何でそこまで?と聞きたくなる所を響翠は
てらいなくやってみせる。
私には、ただただ眩しいのだ。
「毛糸が足りなくなれば、言うと良い。丁度良い知り合いが小さな洋品店を開こうとしていて、ツテがある。」
『最初は何度も解きながら、練習してたので。沢山、編める様になったらぜひお願いします。』
にこりと笑顔をにじませている姿を見ると、安堵感に包まれる。
1日1日は自分にとってはあまり、変わり映えがしない
似た様な日々だと思っていたのに。
響翠がウチに来てからと言うもの…
かなり、変化を感じている。
このまま響翠の記憶が完全に戻らなくても、戻って行ったとしても
私の心が大きく変わった今、きっと揺るぎはしないのだろう。
「こんなに朝日を受けながら朝食を食べるなんて、初めての事だ。」
『僕もです。なんだか、眼にしみそうな程眩しくて…おかしいですよね。目蓋の周りもあついです。』
響翠が、すんと鼻を鳴らす。
自分がまだ何物かも分からずに、記憶を無くし事故に遭いながらも
まだ働きに出ている響翠には、頭が下がる。
いや、帰る家すらも無くしたも同然なのだ。
「何か、困ったら私を頼ると良い。もちろん、出来る範囲にはなるが…お前を見ていると
手を差し伸べたくなる。」
『伯明先生は、僕にやっぱり過保護が過ぎますよ。』
ぽそりと静かに響翠は答えた。
今までめいっぱい、心の中で否定して来た感情や想いが
初めて堰を切った瞬間だ。
思い返そうにも、上手く記憶を引っ張り出せない。
まだ夢の中に居るみたいで現実味が無い。
朝から家に通ってくれる響翠とは、目を合わせる事すら
気恥ずかしくて、また以前の状態に近づくのかと危惧した。
今朝は、響翠が事務所で既に私の分との朝食をバスケットカゴに入れて
来てくれた。
「その、恰好では…汚れないか?」
普段通りの制服で、響翠は
『今日は、森に行くんですよね。』
不思議そうに私を見て首を傾げる。
「家の中なら、差し支えないが…せめて足元がな。」
『ごめんなさい、保護された時に靴も無くなっていたみたいで。』
「私のでは、その足には大きい。ブーツくらい、持っておいた方がいいだろう。
これからは季節が深まれば雪も降る。」
『暮らしていくって、物入りですね。』
「今は、少し買いそろえる事が多くて大変だろうが…心配するな。」
いちいち、謝って来る律義さが心を少しずつ重くしていく。
響翠が謝るべき所が、1つもないのを私もよく理解している。
と同時に、いたたまれなくもなって行く。
『まだ、1月も働いてはいないですし。言うのも憚られますが…余分には持っていないので。』
「まぁ、そうだろうとは思う。事務所には私の方から、支度金として早めに送金してもらう様に
手配しておく。」
『急に、派遣されたので確かに何の準備もできてはいませんでした。』
「今日行く所は、まだ歩きやすいから心配はいらない。」
『伯明先生の、所有地なんですか?』
「あぁ、先祖から…私はその事を響には話していないはずだが。」
なぜ知っているのか。
『子供の頃に、遊びに行った事があったから。』
恐らくは、記憶の混在が原因なのだろう。
確かに、昔は何も気にせずによく遊んではいたのだ。
家柄も、地位も関係なく両家が仲の良かった頃。
「林道に差しかかればすぐに着く。今日はそう遠い所では無いから。それでも、
途中、しんどくなったら休む予定にはしている。だから、遠慮なく言うと良い。」
通年であれば渓流などに釣りにも出かける所だ。
だが、今の響翠を連れては難しい。
今まで、いかに1人気ままに暮らしていたのかを思い知らされる。
街道を歩きつつ、
「朝食まで用意して来たのか?…かえって悪い事をしたな。」
『…お料理って、回数を重ねて慣れて来ても失敗する時があって。楽しいですよ。』
「この坂道を登り切った先に、見晴らしのいい小高い丘がある。そこで朝食にしても良いか?」
『はい、お外で食事も良いですね。』
そういえば、ウチのウッドデッキを使って、椅子などを用意すれば
庭先で食事くらいは可能になる。
それとなく、準備を進めておこう。
芝生が広がり、ベンチがいくつか並んでいる。
響翠が腰を下ろす前に、ハンカチを広げてから促す。
「本来の使い方だな。」
『フフッ、優しいですね。有難うございます。』
遠慮がちに腰を据わると、きちんと閉じられた脚に思わず視線が向かう。
自我の性別は確かに男性である事に、変わりは無いのだろうが
やはり元々の育ちの良さのせいか、行儀も良いのは相変わらずだ。
2人の間に置かれるバスケットは、案外大きさがあって
一体どのくらい準備をしたのだろうと思いを巡らせる。
『実は、昨日あんまり眠れなくて…。早朝から事務所のキッチンで
色々と作ってみたんです。伯明先生のお口に合えば良いんですが…』
思い悩ませてしまったのだろうか。
いや、当たり前か。
いくら記憶が無いと言えども、やっぱり行為自体の意味も理解しているだろう。
「最近は味の加減も程よくて、味見もする様になったんだろう?」
『時間に余裕があると、お料理はおいしく作れるって言いますね。はい、味見もしてます。』
バスケットから響翠が取り出したサンドイッチのボックスが2つ。
「…丁寧に作ってくれたのが、よく分かる。」
『嫌いじゃないんです。例えば包み紙の1つにしても。選んだりしていると。』
「手先も、器用なはずだ。」
『この頃、編み物を始めたんです。事務所に帰ってから編む事になるので。あんまり進みはしてないですけど。』
「為になるんだろう?ウチでの空いた時間にも編めば良い。」
『でも、お仕事中ですし…』
「遊びで編んでいるんじゃないんだろう?響の事だから。」
『もちろん、ゆくゆくは…ベッドカバーも編みたいです。…それに、綺麗に編める様になったら
伯明先生のベストとかも』
私は、つい横目で響翠を見てしまったけれど。
この熱意や、真っすぐすぎる思いに今まで直視できずに居た事を思い出していた。
思わず、何でそこまで?と聞きたくなる所を響翠は
てらいなくやってみせる。
私には、ただただ眩しいのだ。
「毛糸が足りなくなれば、言うと良い。丁度良い知り合いが小さな洋品店を開こうとしていて、ツテがある。」
『最初は何度も解きながら、練習してたので。沢山、編める様になったらぜひお願いします。』
にこりと笑顔をにじませている姿を見ると、安堵感に包まれる。
1日1日は自分にとってはあまり、変わり映えがしない
似た様な日々だと思っていたのに。
響翠がウチに来てからと言うもの…
かなり、変化を感じている。
このまま響翠の記憶が完全に戻らなくても、戻って行ったとしても
私の心が大きく変わった今、きっと揺るぎはしないのだろう。
「こんなに朝日を受けながら朝食を食べるなんて、初めての事だ。」
『僕もです。なんだか、眼にしみそうな程眩しくて…おかしいですよね。目蓋の周りもあついです。』
響翠が、すんと鼻を鳴らす。
自分がまだ何物かも分からずに、記憶を無くし事故に遭いながらも
まだ働きに出ている響翠には、頭が下がる。
いや、帰る家すらも無くしたも同然なのだ。
「何か、困ったら私を頼ると良い。もちろん、出来る範囲にはなるが…お前を見ていると
手を差し伸べたくなる。」
『伯明先生は、僕にやっぱり過保護が過ぎますよ。』
ぽそりと静かに響翠は答えた。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
嫁側男子になんかなりたくない! 絶対に女性のお嫁さんを貰ってみせる!!
棚から現ナマ
BL
リュールが転生した世界は女性が少なく男性同士の結婚が当たりまえ。そのうえ全ての人間には魔力があり、魔力量が少ないと嫁側男子にされてしまう。10歳の誕生日に魔力検査をすると魔力量はレベル3。滅茶苦茶少ない! このままでは嫁側男子にされてしまう。家出してでも嫁側男子になんかなりたくない。それなのにリュールは公爵家の息子だから第2王子のお茶会に婚約者候補として呼ばれてしまう……どうする俺! 魔力量が少ないけど女性と結婚したいと頑張るリュールと、リュールが好きすぎて自分の婚約者にどうしてもしたい第1王子と第2王子のお話。頑張って長編予定。他にも投稿しています。
黄色い水仙を君に贈る
えんがわ
BL
──────────
「ねぇ、別れよっか……俺たち……。」
「ああ、そうだな」
「っ……ばいばい……」
俺は……ただっ……
「うわああああああああ!」
君に愛して欲しかっただけなのに……
真面目系委員長の同室は王道転校生⁉~王道受けの横で適度に巻き込まれて行きます~
シキ
BL
全寮制学園モノBL。
倉科誠は真面目で平凡な目立たない学級委員長だった。そう、だった。季節外れの王道転入生が来るまでは……。
倉科の通う私立藤咲学園は山奥に位置する全寮制男子高校だ。外界と隔絶されたそこでは美形生徒が信奉され、親衛隊が作られ、生徒会には俺様会長やクール系副会長が在籍する王道学園と呼ぶに相応しいであろう場所。そんな学園に一人の転入生がやってくる。破天荒な美少年の彼を中心に巻き起こる騒動に同室・同クラスな委員長も巻き込まれていき……?
真面目で平凡()な学級委員長が王道転入生くんに巻き込まれ何だかんだ総受けする青春系ラブストーリー。
一部固定CP(副会長×王道転入生)もいつつ、基本は主人公総受けです。
こちらは個人サイトで数年前に連載していて、途中だったお話です。
今度こそ完走させてあげたいと思いたってこちらで加筆修正して再連載させていただいています。
当時の企画で書いた番外編なども掲載させていただきますが、生暖かく見守ってください。
執着攻めと平凡受けの短編集
松本いさ
BL
執着攻めが平凡受けに執着し溺愛する、似たり寄ったりな話ばかり。
疲れたときに、さくっと読める安心安全のハッピーエンド設計です。
基本的に一話完結で、しばらくは毎週金曜の夜または土曜の朝に更新を予定しています(全20作)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる