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5話

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翌朝、いつもより早く目を覚ました私は、窓を開けて早朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


少し湿った緑の香りから、昨日のミズキとのキスを思い出して、つい顔がニヤけてさはまう。


「んふふふ…」


朝の回診までかなり時間がある。


私は一旦窓を閉め、普段あまり見ることのなかったテレビの電源を入れた。


そして次の瞬間目に飛び込んで来たのは、あまりにも見覚えのある画像だった。


『訃報です。都内の病院に入院中だったプロピアニストの陽乃 瑞希さん21歳が昨日の夕方頃亡くなったことが分かりました。陽乃さんは、10代の頃から世界で活躍していたピアニストで、5年前、ウィーンに滞在中に巻き込まれた事故で右手に麻痺が残り、その為活動を休止していました』


ベテランの女性アナウンサーが悲しそうな表情でニュースを読み上げる最中、画面には"陽乃 瑞希"と思われる男性の数々の写真が映され、最後にはコンサートで演奏をしている映像が流れていた。


「…………………は?」



私はテレビの画面を見つめながら一人呆然とした。


今まさにテレビで取り上げられている"陽乃 瑞希"と昨日まで一緒に笑いあっていた"ミズキ"があまりにも似て過ぎていた。



しかし、私はミズキの姓も、年齢も知らず、そしてミズキが入院しているという病棟も知らない。


ミズキは私のことを知っているのに、今思い返せば私はミズキのことをなにも知らなかった。


(いや、たまたま顔と名前が似てるだけだ!きっと今日も会いに来てくれるはず…!)



私は不安な気持ちを誤魔化すようにして頭を振ってテレビを消した。


そして落ち着かない気持ちから逃れる為に、処方されている睡眠薬を飲んで、もう一度ベッドへと潜った。


きっと次に目が覚めたらミズキが私の名前を呼んで、顔を覗き込んでくれるだろう。


私はそんなことを願いながらベッドの中で目を閉じた。







しかし、次に私を揺り起こしたのは見舞いに来た母だった。


「こんな時間まで寝てたなんてどうしたの?体調が悪いのね?聞いたわよ、昨日中庭に出たんでしょう?紫外線の浴び過ぎは体に良くないって先生からも言われてるのに…看護師さんには言ったの?お母さんが呼んでこようか?」



「お母さん…」


くどくどと私を心配する母の言葉を無視し、私はベッドに横になったまま母を見上げる。


「なに?」


「陽乃 瑞希って知ってる?」


私の問に、母は目を見開いて高い声をだした。


「知ってるもなにも、超有名な若手のピアニストだったじゃない…!彼…残念だったわね…」


「……死んじゃったんだよね?」


「そうみたいね…看護師さん達も話てたわ…あんな事故に巻き込まれさえしなければ、彼ももっと長く生きて、素晴らしいピアノを弾き続けていたでしょうにね…」



「看護師さん?看護師さんの中にピアニストに興味ある人なんていたの?」



「そうじゃないけど、自分の務めてる病院に入院してた有名人の訃報に、いくらなんでも何にも感じない看護師さんは居ないでしょう?」


「え…?ちょっと待って?今、"自分の務めてる病院"って言った?どういうこと?陽乃 瑞希さんてこの病院に入院してたの?」


「?そうみたいね。お母さんも直接本人を見かけた訳じゃないけど…そうじゃなければ、クラシックに興味の無い人達が彼をこんなに認知してるはずはないと思うけど…。どうしたの?ひな?」


きっとこの時の私は困惑を隠しきれず、険しい顔をしていたのだろう、母は私の顔を上から覗き込んでは、額に手を当てたり、首筋に手を当てたりしてくる。


言い表すことの出来ない焦燥感が私の全身に渦巻き、とうとういてもたっても居られなくて、私はパジャマのまま着替えもせずにベッドから飛び起きてロビーへと走った。


「ちょっと、ひな!?」



その際に母が驚いて走り出す私の背中に向かって叫んでいたが、私はその声を無視して病室を出た。


今まで私は母の言う通りに生きてきた。


ピアノを始めたのも、母が子供の頃にピアニストを目指していたからだ。


ピアノは好きだ。


ピアノに触れれば触れるほど、私はピアノが好きになり、いつしか母の夢は私の本物の夢になっていた。


しかし、病を発症した瞬間、母は罪悪感と悲しみから、自分が与えた私の夢を取り上げようとした。


自分の夢が破れた時、母はピアノを遠ざけるほど悲しみ、苦しかったのだろう。


恐らく母は私も同じ苦しみを味わっているだろうと予想し、自分が最も良いと思う方法を私に指示してきたのだと思う。


しかし、私はそれが苦しかった。


にも関わらず、私はそれを母に伝えようともしなかった。


いつもの様に飲み込んで、言うことを聞いていれば母は満足するだろう。


そうすれば母との対立は防げる。


私は今までこんな風にして母に従ってしまっていた。


しかし、ミズキに出会ってそれが間違いだったことに気が付いた。


彼は、不満を口にする私に対して、「我慢をする必要はない」と言ってくれた。


そして私の母がこうも過干渉なのは、母との対立を避けるばかり今まで自分の考えや意志を伝えてこなかった私に原因があると分かった。


"伝えないってことは、相手にとっては君にその意思がないのと同じことだよ?"


だから私は走り出した。


もう一度ミズキに会うために、初めて母の呼び止めを無視した。




しかしその後、私がロビーでピアノを弾いていても、中庭にある昨日と同じベンチで待っていても、ミズキは現れなかった。






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