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鍵盤から指を離すと、ほんの一瞬の静寂があり、そしてすぐにザワザワと雑音が耳に入り込んできて、私を現実へと引き戻す。


ここは国内有数の大病院だ。


入院患者も多ければ、関係者も多い。


バタバタと関係者が走り回る足音、小児科の子供達が看護師に引率されながらキッズスペースへと向かう賑やかな声、外来患者を誘導するアナウンス。


そんな様々な音で溢れるガラス張りで、近未来を感じさせる広いロビーの一角に据え置かれたグランドピアノの前に私は座っていた。


元々は音楽療法や季節イベントなどでの使用目的で3年前に導入されたこのピアノも、今となってはすっかり景色に溶け込み、普段は誰も見向きもしなくなってしまった。


きっと、このピアノがいつの間にか撤去されたとしても気が付く人は少ないだろう。


(私みたいだ)


私がピアノの鍵盤に蓋をしようとすると、横から声を掛けられた。


「もう終わり?」


まだ若い男の声に私が顔を上げると、そこには20代半ばくらいの青年が立っていた。


その青年は、まだ春先だというのに細身の黒いスキニーパンツと白いワイシャツのスタイルで、しかもワイシャツのボタンを上から数えて3つも開け放ち、そのほどよく鍛えられた色白の胸板を惜しみなくさらけ出していた。


もはやワイシャツを着ているというより、"羽織っている"状態の男に、私は唖然とした。


しかし一方で男は、自分が胸板をさらけ出していることに自覚がないのか、私が思わず男の胸板を凝視していることに気が付いておらず、キョトンとした風に首を傾げる。


「どうしたの?」


どうしたもこうしたもない。


まずお前はその惜しみなく晒している、その不覚にも美しいと思ってしまう胸板をしまえ。


私は思わず内心でツッコミを入れつつ、青年に向かって出来るだけ愛想良く微笑んだ。


「寒くないですか?ボタン、閉めた方がいいですよ」


「ボタン???」


私の指摘に、青年はまたしても首を傾げる。


その表情はまさに「ボタンてなぁに?」とでもいいたげ。


(マジか)



「僕、なにか変?」


そう言って純新無垢な薄い茶色の瞳で私を見つめてくる青年。


(マジか)


私はその瞬間、自分の奥深くでまだ眠っていて、おそらく一生目を覚まさなかったはずの母性をゆり起こされてしまった。


「あ、あの…ボタン開けすぎてると思うので…」


「ボタン???」


「うん、そうだよね。大丈夫だからこっち来てください」


私はまるで子供に言い聞かせるような口調で言いながら青年に手招きした。


すると青年は何がそんなに嬉しかったのか、困った顔から一変してパッと花でも咲いたような明るい笑顔になり、スっと私の前に跪いた。


「来た」


「?うん…えっと跪かれてるとボタン閉められないので、立ってください…?」


「分かった」


青年は私の言葉に笑顔で頷き、立ち上がった。


そしてさっそく彼のワイシャツに手を伸ばし、ボタンをせっせとしめる私をニコニコと見つめていた。


「これで大丈夫です。一番上はしめなくても良いんですけど、流石に3つは開けすぎですよ」


「ありがとう」


「どういたしまして」


私の顔を見て満足気に微笑む青年。


ハイトーンのミルクティーベージュの髪に、色白の肌。


改めて青年の容姿を見た私は、その極端に色素の薄い青年に違和感を覚えた。


青年の表情や体つきはいたって健康そうに見える。


しかし、その体が纏う色は健康体の人間のものではなかった。


加えてここは病院。


ここに居るということは、この青年もなにか病を抱えているのかもしれない。


「貴方もここの入院患者ですか?」


「…うん!そうだよ」


私の質問に、青年はその薄い茶色の瞳を一瞬見開いたが、すぐに笑顔に戻り、頷いた。


「初めまして、私は雛芥子です。私もここに入院してるんです」


「うん、知ってる」


「え?」


雛芥子の言葉に青年が笑顔で頷いた時、何か声を出していたような気がしたが、その瞬間丁度外来患者の会計の呼び出しと被り、聞き取ることが出来なかった。



「僕はミズキ。これ、今日のピアノのお礼。明日も聞きに来て良いかな?」


「え、あ、はい…」


ミズキは温かい微笑みを浮かべ、どこから取り出したのか、白い花の咲いた木の枝を私に差し出した。


(もう今日で最後のつもりだったんだけど…)


私はそう思いながらも頷き、差し出された枝を受け取った。


(まぁ、明日を最後にすれば良いか)
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