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第2話 嵐の前

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 磯山(いそやま)は28歳の男で、普段は都内にあるタワーマンションの警備員をやっていた。
 だが、以前同じマンションの警備隊長をしていた卯原の要請で、今日の4月23日日曜は都内北区にある赤羽大学の女子寮へ、夜勤応援に来る事になったのだ。
 しかしまさか卯原から、応援要請が来るとは思わなかった。
 磯山はミスが多く一緒に働いていた時はしょっちゅう卯原に叱られており、応援要請が来る時があっても、他の隊員が呼ばれるケースが多かったのだ。
 JR赤羽駅に夜7時半に到着する。
 そこから歩いて女子寮に着いたのは、夜8時だ。寮の周囲は高さ2メートルぐらいの塀に囲まれていた。
 塀の上には有刺鉄線が張られている。女子寮の敷地に1つだけある出入り口に行き、インターホンのボタンを押す。
「警備室です」
 インターホンのスピーカーから、声が流れる。聞き覚えのある声だ。卯原だった。
 良く通り、温かみがあり、相手を安心させるボイスである。
「応援で来た磯山です」
「どうぞ入って。扉を開けて中に入ったら左の建物の1階に警備室があるから、そこへ来て」
 ドアのロックが開錠される音が響く。磯山は扉を開き、中に入る。
 中には3つの建物があった。左に警備室のある2階建て。
 正面に5階建ての瀟洒な建築物があるが、こちらが女子寮だろう。
 右の方には平屋のプレハブがあり、その向こうに雑木林が見える。磯山は警備室に向かって歩きはじめた。
 その時背後で女性の声が聞こえてくる。
「月島です。今帰りましたので開けてください」
 再びインターホンのスピーカーから卯原の応答する声があり、扉を開錠する音がした。
 磯山が、そちらを振り返る。茶髪の若い女性の姿がある。クリっとした大粒の目をしていた。
 鼻と口は大型感染症禍という時節柄ピンクのマスクで隠されているが、まるでアイドルのように可愛らしい。
 その彼女は、警備室があるのとは別の5階建ての女子寮らしい建物に向かって歩きはじめる。
 女性の姿が建物の中に消えた後、磯山は警備室に向かって歩いた。
「ご無沙汰してます」
 警備室に入った磯山は、そこにいた卯原に挨拶をする。
「元気そうだな。今日はわざわざ応援に来てもらって悪かったね」
「とんでもないです。卯原隊長にはマンションの現場でお世話になりましたし」
「さっきの子、可愛かったろう? 月島聖良さんって言うんだけど、お前が見とれるのも無理ないよ」
「べ、別に見とれてないですよ」
 慌てて磯山が、そう返した。口では否定したが、図星である。
 そこへちょうど警備室の入口から、緑の作業服を着た男の姿が現れる。
「卯原隊長、用事って何?」
 作業服の男が聞いてきた。年齢はおそらく50代ぐらいだろうか。腹は出ているが、両腕は筋肉質で太かった。
「今夜の夜勤で1人応援寄越させたから、一応紹介しとこうと思ってね。前の現場のマンションで隊長やってた時一緒に働いていた子で、来るのは今夜が初めてだ。磯山君、こちら設備の西俣さん」
「は、はじめまして。よろしくお願いします」
 磯山は、何度も頭を下げる。
「こちらこそ、よろしく。いつも応援に来る道枝(みちえだ)さんはどうしたの?」
 西俣は磯山に挨拶した後、卯原に聞いた。
 道枝は磯山と同じマンションに勤務している40代の男性で、しっかりした人物なので、たまにこちらの女子寮に夜勤応援に来ていたのだ。
「最初はやっぱり道枝を呼ぼうと思ったんだけど、この磯山は普段いるマンションの現場しか知らないんで、たまには別の物件で経験を積むのもいいかなと思ってね」
「確かに、まだ若いもんね」
 西俣は、値踏みするように磯山を眺める。
「磯山君、こちらの西俣さんは若い頃高校野球で活躍した人でね。今でも草野球をやってるんだ。たまに外のプレハブにある設備担当者の詰所の外で、バットで素振りの練習してる」
「活躍ってほどでもないけどさ」
 西俣が、苦笑を浮かべる。
「もう年だから、全然打てないし、走れなくなったよね」
 そう謙遜したが、まんざらでもなさそうだ。
「ところで西俣さん、最近しきりに月島さんに話しかけてるようだけど、あまりやんないでほしいのよ。後からクレーム入る時があるからさ」
 卯原隊長は画鋲でも踏んだような顔になって、作業服の男をたしなめた。
「そうかなあ。そんなに話してないけどなあ」
 西俣は、そうぼやきながら立ち去った。
「あんなふうに言ってるけど、最近あいつ、しつこく彼女につきまとってるんだよね」
 卯原がそう説明する。
「そうなんですか。困りましたね」
「大事にならなきゃ良いけどね」
 警備室を出た西俣は、5階建ての建物の方へ歩いてゆく。
「あの5階建てが女子寮ですよね?」
「その通りだ。設備担当者の詰所があの向こうにあるから戻るんだろ。後で外周巡回に行ってもらうが、深夜はやっこさん仮眠中だから、気をつけてな」
 ちょうどそこへ女子寮から、入れ替わりで1人の若い女性が現れた。
 彼女はスキップするような歩き方で、こちらへ来る。
 西俣が、彼女に何か話しかけたが女性の方は軽くいなして、まっすぐ警備室のある建物に進んできた。
 建物に入り警備室前まで来ると、突然そこでこけたので、2人のガードマンは、慌てて部屋を飛び出した。
「冷泉さん、大丈夫?」
 転んだ女性に卯原隊長が声をかける。
「守護霊が離れちゃった」
 とんちんかんな台詞をつぶやきながら、冷泉と呼ばれた女性が立ち上がる。
 冷泉は多分さっき見かけた月島聖良同様身長150センチぐらい。
 年齢も聖良同様20歳前後だろう。
 2つの大きな目はやや離れ気味で、どことなくカエルを思わせる可愛らしい顔をしている。
 黒髪はボブヘアにしていた。
「怪我はないようで良かったです。一体何の用ですか? 冷泉さん」
 質問したのは、隊長だ。
「珍しく、西俣さんが警備室にやってきたんでどうしたのかなって」
「今夜夜勤応援で、ここにいる磯山が来てね。今夜の泊まりは西俣さんだから、来てもらったんだ。磯山を紹介しようと思ってね」
「あら。挨拶だったら来ていただくんじゃなくて、こちらから出向くのが筋なのでは?」
 冷泉は左手の人差し指を、白いマスクをした顔の前で立てると、左右に振った。
「確かにそれはそうだったかもな」
「しかも普段、西俣さんと口聞かないのに」
 冷泉の言葉に卯原は爆笑する。
「そりゃ、ひどいなあ。確かにそうだけど、それは通常引き継ぎは、設備の責任者としてるからで、今日は責任者がいないから」
「でも以前、ここへ初めて道枝さんが夜勤応援に来た時は、やっぱり設備の泊まり勤務は西俣さんだったけど、紹介なんかしてませんでしたよ」
「そうだっけ? 半年ぐらい前だからちょっと覚えてないなあ」
 しばらく冷泉は隊長を見ていたが、やがてくるりと自分が来た女子寮の方に向きを変えた。
 そして再びスキップしながら寮に向かって進みはじめる。
 冷泉のぶっ飛んだキャラに圧倒されながらも、磯山はまさかその時は、この女子寮の敷地内で、あんなアクシデントが起きるとは予想だにしなかった。
 今考えれば、嵐の前の静けさだったのだ。

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