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雨が上がれば(1)

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 それから。

 私は医務室にいた。当然である。

「……ごめん」

 医者も寝静まった真夜中の医務室。
 アンリは私を椅子に座らせると、傷薬を手にうなだれた。

「抑えるようにしていたのに、結局また傷をつけて」
「い、いえ、そんなに気にされる必要はありません」

 そのまま、手ずから治療しようとするアンリに、私は慌てて首を振った。
 いくら医者が不在だからと言って、王子である彼にそんなことをさせるわけにはいかない。

「深い傷じゃありませんし、すぐに治します! 薬も自分で塗りますので、アンリ様は――」
「様」

 そう言って私を見るアンリに、少し前までの怖さも、思い詰めたような雰囲気もない。
 赤い目元を歪ませ、私を見据える表情は――どこか、咎めるかのように見えた。

「敬語もいらない」
「ええと、さすがにそれは」

 互いに呼び捨てにしていたのは、幼いころだけの話だ。
 それでも、寛容なフロランス様の治める離宮でなければ、王子を敬称もなしに呼ぶなんて許されなかっただろう。

 王宮は、絶対的な身分社会である。
 目下の私がアンリを呼び捨てにすることは、アンリ自身は許しても、周囲の目が許してはくれない。

「私は従者の立場ですので……」

 私の返事に、アンリはむっと眉をひそめる。
 怒らせた――というわけでもないらしい。
 彼は少し考えるように目を伏せて、それから再び私を見据えた。

「ミシェル、確認しておきたいんだけど」

 青い瞳が、まっすぐに私を射抜く。
 アンリの表情は、思わずぎくりとしてしまうほどに真剣だった。

「君は俺を、どう思っているんだ?」
「は、え、…………はい!?」

 ――どう思っている!?

「『傍にいる』と言ったのは、従者としての意味だったのか? それとも――」

 アンリは一度言葉を切ると、その場で片膝をついて、動揺する私の手を取った。
 私を傷つけないようにと掴むその力は、びっくりするほどに優しくて――強い。

「求婚の返事と考えていいのか?」

 燭台の火に、彼の端正な輪郭が照らされる。
 目を離すことは、許されなかった。

「俺は、今も君への気持ちは変わらない。君が好きで、君を妻として愛したい」

 アンリは言葉を飾らない。
 迷いもためらいもなく口にする告白に、私ばかりが赤くなる。
 全身が熱を持ち、汗ばむ私の手を、アンリの大きな手が包み込んでいる。

「――君は?」
「私……は……」

 私は言葉を詰まらせる。
 続く言葉を吐くより先に、浮かぶのは父の姿だ。
 私を利用し、アンリを狙い、魔族に与した罪人。

 あの人が怖かった。きっと今も恐ろしい。
 父がいる限り、私が望むことは許されない。父が、身分が、周囲の目が――。

 ――いえ。

「――

 ぐるぐるとめぐる思考を、私はその言葉で追い払う。
 彼の傍にいたいと思った。それは、他の誰でもない、私自身の願いだ。
 誰にとがめられても、アンリを引き留めたいと思ったのは――従者としての気持ちだったのだろうか?

 ――違うわ。

 そんなこと、自分でもわかっている。

「……私は二年前、アンリ様に求婚の返事ができませんでした」

 私は息を吸うと、一度目を閉じる。
 月の下、アンリから聞いた言葉は――本当は、本当に、すごく嬉しかった。
 それでいて――。

「本当なら、すぐに断るべきでした。アンリ様の身分を考えるなら、私の立場を考えるなら、旅立つアンリ様に、割り切れない思いを残してしまうくらいなら。でも――」

 返事をすることはできなかった。
 長い旅に向かう彼を前に、私はずっと待たせてしまっていた。

 その理由は、本当に単純なことだった。

「断りたくなかったんです。……嘘でも、『嫌だ』と言えなかった。その言葉が、本当に嬉しかったから」

 ゆっくりと目を開ける。
 目の前で私を見るアンリが、二年前の姿と重なっている。
 大人になって、精悍な顔立ちになって、でも、私を見る真剣な瞳は変わらない。
 今も昔も、まっすぐに見つめてくる彼の目が、彼のことが――。

「……私の気持ちも、変わりません。二年前も……それよりも前も」

 顔が熱くなっていく。
 声がどんどん小さく、かすれていく。
 目の前にいるアンリの顔も、まっすぐに見ていられない。
 どうしてアンリは、あんなに迷いなく言葉を告げることができるのだろう。

「ずっと、お慕い……しています…………」

 どうにか言葉を絞り出す私に、アンリはふっと息を吐いた。
 それから、私の手を取ったまま、少しだけ身を乗り出し――。

 私の額に唇を寄せ、笑うように囁いた。

「知っていたよ」

 じゃあ、なんで聞いたんですか!!

 なんて恨めしさを込め、真っ赤な顔で睨む私に、彼は目を細める。
 陰りのないその表情は、二年ぶりに見た、彼の本当の笑顔だった。
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