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真夜中の嵐(2)

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「ミシェル、そこを退いてくれ」

 アンリの言葉は静かで、だけど絶対的な力がある。
 思わず逃げ出してしまいそうになり、私は震える手を握りしめた。
 ここで逃げてしまうわけにはいかなかった。

「……退いたら、どこに行くつもりですか」
「聞く必要があるのか?」

 アンリは目を細めた。
 冷たい視線が、見透かしたように私を射抜く。

「母上と話をしている間、俺のことをずっと見ていただろう? ――気が付いていただろう、俺が笑いをこらえていたことを」

 握りしめる手に力がこもる。
 思い返すのは、フロランス様の部屋でのこと。
 ずっとうつむき、口元を隠すアンリの姿だ。

 ――気付いていたわ。

 歪んだ笑みを浮かぶ口元にも。――思いつめたような、目の色にも。

「たかだか魔族の十数人、あんな深刻にならなくても俺一人でいい」

 うつむく私に、アンリは言葉を続ける。

「そう思うと馬鹿馬鹿しくて、おかしかった。母上は一言、俺に『やれ』と言えばいいだけだ。それだけですべてが片付くのに、争いから遠ざけようとして」
「……」
「どれほど魔王にさせまいとしても、いずれ限界は来る。そのことは、俺自身がよくわかっている」
「……だから、その前に出て行くつもりだったんですか?」

 今はまだ、アンリは笑いをこらえようとしていられる。
 魔王ではなく、アンリでいられるうちに――姿を消してしまおうというのだろうか。

 私のその考えを、アンリは首を横に振って否定する。

「もとから、長居をするつもりはなかった。――ミシェル、俺がここに戻ってきたのはね」

 アンリはまた一歩、私に向けて足を踏み出す。
 手を伸ばせば触れる距離。私の上に、彼の影が落ちる。

「君との約束のためだけだ」

 約束、と私は口の中で繰り返す。
 それがなにを指しているのかは、言われるまでもない。
 旅立ちの前に交わした、二人だけの秘密。

「君の答えを聞いて、それで終わりにするつもりだった。君の返事がどちらでも、聞けるだけで良かったのに」

 悔いるように、揺れる瞳が見えたのは一瞬だ。
 瞬きをした次の瞬間には、アンリは暗い瞳に戻っている。

「うっかり長居をして魔族を呼び寄せてしまったのは俺の責任だ。後始末は付ける。余計なものは片付けて、二度と君には手を出させない」

 だから、と言って、アンリは最後の一歩を踏み出す。

「そこを退いてくれ」

 ほとんど触れるような距離に、身が竦みそうになる。
 暗いアンリの姿が怖かった。
 今にも逃げだしてしまいそうだった。

 でも――。

「――退きません」

 震える足に力を込めて、私はたしかな声でそう言った。

「アンリ様を行かせるわけにはいきません」
「俺が残ってもろくなことにはならない。魔王の怖さは知っているだろう?」

 知らないはずがない。
 魔王による侵略で世界は恐怖に突き落とされ、絶望を生きていた。
 魔王は残虐で非道、人を人とも思わない。アンリ自身もそう言っていたのだ。

「……それでも」
「足が震えている。俺が怖いんだろう?」
「怖いです、けど……!」

 私は両手を握りしめ、恐怖を押さえつけた。
 アンリが怖い。魔王が怖い。だけどそれ以上に――。

「退きません。怖くても、魔王でも……!」

 魔王になるまいと耐え続ける彼が、遠くに行ってしまうことが怖かった。

「どこにも行かせません――アンリ!!」

 真夜中の月の下、私の声が響き渡る。
 声を枯らした叫びに、私は荒く息を吐いた。

 それから、断固とした目でアンリを見上げ――。

「アンリ『様』、ね」

 私は息を呑む。
 全身に寒気が走り、押さえつけたはずの恐怖が背中を走った。

「そう言われて、俺が素直に聞くとでも?」

 底冷えのする声が耳に響く。
 アンリは私を見て、どこまでも冷たく笑っていた。
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